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ホン雑記 Vol.288「老眼過呼吸症候群」

若かりしころはなんにでもイラ立っていたけど、ことわざや故事成語に対してもそうだった。

三度目の正直と、二度あることは三度ある
七転び八起きと、七転八倒
三人寄れば文殊の知恵と、船頭多くして船山に上る
などなど…

いまでもわりとそうだけど、中2ぐらいの時って真実はいつもひとつだなんて思ってるとこあるから、昔々の人々に「ええ加減なこと伝えんなや」とぶうたれていた気もする。


最近noterさんの記事で見かけたんだけど、「幸せになってもいいんだ」という文言を見て驚いた。そんな概念が存在するのか、と。
オレは人生で最も劣等感&罪悪感に苛まれてた時も、そんなこと思いもしなかったから。もちろん「オレだけぬくぬくと生きててええんかな」という感情はあったんだけど、それでも精神というか、(むしろ肉体寄りの)魂は「そんなこと当たり前やがな。ええに決まってるがな」というエネルギーのカタマリなんで(どんなダラケ人間であっても)、心底というか無意識は、そんな罪悪感ウソじゃん? って分かってる。
肉体、精神、魂の三位さんみが一体となって「ワタシ、ゼッタイ、イキテタラ、ダメ」って本気で思ってたら、勝手に脈動も止まる。

で、その見かけた記事とまったく逆のことを、たまたまその前日に思ってた。
「これ、幸せになる必要は別にないんちゃうか」って。

前にも話したけど、すべての願いが叶うのも、すべての願いが叶わないのも、ともに地獄だ。
で、普段から漠然と付きまとうこの空虚感は、「幸せにならなければ」と思いすぎてるんじゃないか? と、たまたま思っていたのだ。

もう「叶い過ぎ」の状態に、知らず知らずのうちに在ってしまっている(日本語ヘンだけどこれがピッタリなの)んではないか? と。
幸せが叶い過ぎていて、もう何をやっているのか分からなくなっているのではないか。
宇宙のすべてのものは付かず離れずを繰り返してるけど、ずっと幸せにくっ付いてたら、その幸せを把握できるわけがない。
この「すべてのものは付かず離れず」と、「すべての願いが叶うのも叶わないのも地獄」は、まったく同じライン上にある摂理だろう。

幸せを充分感じている場合には、それ以上そうなろうとするのは逆につらいことなのではないか。
まるで、息を吐くべきところを吸い続けているように。



逆に慢性的に幸せでないと感じている人には、息を吸ってもいいんだよと教えるなんらかのきっかけが要る。

叶い過ぎてる時って、目が見えるとか、飢えずにご飯にありつけるとか、嫁をいじくり倒せる日々が、当たり前のことだと思い込んでるんだよね。

この日々が、明日必ず来るものでもないのに。




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仲大輔
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