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雑記1138「自分の詩を見てたら雑記も詩的になっちゃった」

noteのマガジン「詩リーズ」にも入れてある詩なんだけど、

その中でも古いのに「180度」って詩がある。

自分でもTOP3に入るようなヤツなんだけど、ちょっといきなり再掲載しちゃう。

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180度

嫌いなものや嫌いな人の存在価値は
いったい何なんだろうと考えたことがある

攻撃対象にしてストレス解消
自我を作り上げる作業上での切り屑
自分より下の存在だと思い込むことで得る恍惚
どれも見事な排他思考の結晶だ

でも最近こう思う
嫌いなものたちは 好きなものが壊れてしまったり
好きな人との絆が断たれたりした時の
希望の保管庫なんじゃないのかと
嫌っていれば まだ見ぬ希望に近づかずにいられる

嫌いなものたちは
将来訪れるであろう苦しみを乗り越える時の原動力となるために
今の僕に嫌われてくれている

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今日の雑記の手抜きってのもある。
あるが、ふと思い出した。
最近この「保管庫」を回収してる感じする。とってもいい感じなのだ。


自分でもすげー詩だなって思うんだけど、オトンが死んでしばらくしてからポコポコと出て来た言葉群のうちのひとつなのだ。
だから自分で書いた感覚のない時のもので、だからすげーなと他人の作品のように思える。いや、自分で作った感覚があってもすげーとはよく思うんだけどね。うはは。

嫌いな物・者っていうのは、どこかで必ずと言っていいほど反転する気がする。
天は、そのことを忘れないために嫌いという感情を使って当人の人生行路に必要なものを保管庫にこそっと入れる。記憶に残るのはいつだって、自分にとって印象の深いことがらだからだ。

当人は人間という入れ物に従って、「これはだーい好き」「これはだいっ嫌い」と我が物顔でやってるんだけど、ほんたうのところは当人、あんまりわかってない。
だから好きなあの子を口説けなくたって、ぜーんぜん落ち込む必要なんてないぜ。その子だって誰が好きなのか、ホントのところはあんまりよくわかってないみたい。

が、人生イベントが「好き・嫌い」「思い出深い・浅い」の四象限のどこに入るかはさておき、「これはなぜだかしらんが覚えている」なんていうことがらは、どこかのレベルで、どこかの行路で、当人にとって必要であることが多い気がする。
「おいしい」も「痛い」もプラマイ問わず必要であるように、なぜだか覚えてるって出来事はやっぱりどこかで使う気が、使われる気がするなぁ。

そういうことをホントに感じてきた最近のワシなんで、また賢治さんじゃないけど、「自分を勘定に入れずに」ってことがびっみょーにやれはじめてる気もする。
「ホントはオレはあまり嫌いじゃないのかもしれん」と。
「だいたいのヤツはどーせあとから好きになってきたじゃんか」と。
ま、批判を手放すってことだわね。脊髄にこびりついた批判精神は当然無意識に出てきやがるんだけど、相手(無意識)も所詮脳とか人間っていうシステム化された一応の「型」にすぎないんで、こっちがずーっと矯正し続けてたらびっみょーに変化していってるんだと思うわさ。


このいままでの膨大な量の批判時間を、自分の邁進に充ててたらどれほどの距離を行ってたんだろうかと眩暈がしそうなもんだけど、これも必要な時間だったんだろうなとも思う。
思うようにしてるだけかもだけど、これもどっかで「そうだったのかーっ!」って認識する日が来るといいなぁ。

その日に肉体があるのかどうかは、あまり大差ないのかも。




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仲大輔
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