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散文日誌 「種々雑多」2022/5/15

200本目の記事は、沖縄返還50年について書こうと思う。

今日で沖縄が日本に返還されてから50年になる。当時は、車が右側通行(アメリカ統治)から左側通行(日本の法に従うよう)に変更になったから、正面衝突事故が絶えなかったという。たとえ、それを防ぐ為に、沖縄の警官総動員でも、ダメなものはダメだったようである。

現在の朝のドラマも沖縄が日本に返還されたその日に主人公は東京へと旅立つ。1972年の東京。私が1973年生まれだから、まあオイルショックにわいていた頃だろうか?とは言え、今よりは景気は良かったのだろう。働けば働くほど賃金は出たのだし、まだまだ日本も発展途上で技術力を他国と抜きつ抜かれつしながら鎬を削っていた時代だっただろう。

技術者たちもそんな中で楽しく仕事をしていたに違いない。新しい技術に「ちむどんどん」しながら、これをどう応用するか?そして、どうやって、民生品として届けていくか?

ノートは溢れるアイディアですぐにいっぱいになる。ノーベル賞で新しい発見がされるたび、我々の研究所でも応用ができるものなのかとすぐに論文を取り寄せ、難しい英語と格闘しつつ、研究の概要を図式化し、既成の民生品に追加できる原理はないか?図面とにらめっこする。みつかったら、正月返上で、新製品の開発へ突入。まるで小学生の夏休みにクワガタやカブトムシを採りにいった、子供会のキャンプの夜を思い出す。心はすでに少年に戻っている。良いじゃないか。

そんな、毎日が技術革新のような日々。果樹に喩えるなら、幼木が成長して実をつけ始める頃から、いよいよ成熟して実もたわわに実り、味も安定し始める頃へ変わるとき。世の中のあらゆるモノが、まるで成熟した甘い果実の様に興味関心の的になり得た。そうして日本は多くの確かな技術力を実につけた、大樹になった。無論そこには、田中角栄の日本列改造論なども影響していた事は否めないが。

そんな時代も長くは続かない。夢のように成長していた経済は、幻のように泡とともに、一瞬で弾けてどこかへ行ってしまった。あのお祭り騒ぎは、あの海外旅行ブームは、あのお立ち台は、今何処?

そのあと、どうなったか?外国(特に中国)への工場移転などで、価格の安い製品を作る方向へ向かう。価格が安い中国製の、中には粗悪な製品が蔓延る様になる。そして、あの小泉純一郎が派遣を推しまくった。やがて企業様にマッチする人材を派遣して利益を得る、派遣業者が雨後のタケノコの様に出現する。人のスキルを商売の道具しようという事だ。採用時の人件費は少々かかるが、経験者なら、即現場採用。経験者でなくてもOJT(On the Job Training)という事で、指定された日時に、指定された現場へ行き、そこで先輩から現場のノウハウを教えてもらうのである。だから、会社本体は何もしないで良い。請負なら働いた分会社にも自分にも入ってくる。合わなければ、派遣/請負なのだから、いつでもFIREDにできる。だが、余程の事がなければ、会社側はFIREDとすることはできない。派遣や請負はどうしてもマージンを引かれるので、正社員様と比べたら賃金は雲泥の差である。だから、病んでいても続ける人が多いのである。

そんな中で沖縄は、日本で最も賃金水準が低いという統計が出ている。観光資源があって働く場所もたくさんありそうに見えるが、それはマスコミが作った幻想だ。実情は、もっと厳しい。米軍相手の店がなければ、働く場所はない。皮肉なモノである。

基地移転は県民の望みでもあるが、食い扶持がなくなるので、ある意味絶望かもしれない。
現・岸田首相はその辺をわかっているのだろうか?
できるなら、今回の訪問で、本当の沖縄を隅々まで見て帰るが良い。実情に涙するなら、この島の苦しみを解放するために出来る事を寝ずに考えろ。そして、実現させてみよ、と私はおもう。次の50年…生きてるかわからんが、沖縄が今よりいい方向に変わっていることを祈る。

とにかく

沖縄返還50年おめでとうございます。

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