散文日誌「種々雑多」2021/10/06
暮らしていく上で、お金の問題は深刻である。健康な(ふりをしていられる)うちは、会社や請負先に行って仕事をし、時間分×単価(−会社利益分)の支給分から、厚生年金等の社会保険料が引かれ手取り分となるが、我々の会社はそれが残業しても20万ちょいだった。
しかし、病気によって休職することになってしまった。その間、傷病手当金が基本給の約67%出た。その金額が、わたしの場合は、約14万だった。そこから社会保険料(5万位)を支払い、固定費を払い(約6万)、精神医療費(自立支援で1万円限度)を支払う。残りは2万…うーん。厳しいよなぁ…。でも、どのタイミングで、どんな顔をしてまたあのGrで時短勤務をすれば良いのか?よく分からないまま、2019の10月を最後に、社長面談も行われぬまま、年が明け、世の中はコロナ禍に包まれた。2020年4月からは、社会保険保険料も振込になり、会社の人間とあうことのないまま、休職期間を伸ばしつつ、結局、最後まで復職できずに、職場を去ることになった。
散々「お前のためだ」と言って私を罵って来た上司の下で、再度働けなんて、まあ、死にたければどうぞと言ってるようなもので。だから、私は復職はしなかった。で、辞める意思を医師に伝えてもらったおかげで、病気による退職として離職票の有効期限を3年にしてもらえたのだが。
会社をやめたはいい。しかし、私の場合は鬱病にかかって辞めているので、それでも、週20時間以上事務所のような大勢のいる場所で働けるか否かを証明する、医師の意見書が必要になる。これが、パニックを起こさず働ける、と言う場合は就労可となり、晴れて求職者登録されて、失業給付をもらいつつ、就活が出来る。
しかしながら、私の場合、大勢のいる事務所で、パニックを起こさず、大人しく週20時間働けますか?と聞かれたら、ごめんなさい、まだむりです。と答える。だから、未だに離職票にドクターストップが掛かっているのである。
ならば…という事で、障害年金の申請をした。多くの人は社労士さんを通すそうだが、私は、親切な年金事務所の職員さんと一緒になるべく上の級で通るように頑張って書いた。一つ級が違うだけで、2万近く違う。これは大きい。
しかし、結果は三級の厚生年金の障害年金。それが月額、諭吉さん5名様にも満たない。しかも独りで住んでいる(家賃光熱費等は親持ちなので非常に情け無く申し訳ない…)。貰えるだけマシだと思った方がいいけど、やっぱりしんどい。
なので、障害福祉課を通じ、福祉事務所に相談へ行った。成人後見人制度について詳しく聞くためだ。成人後見人制度は、自らお金の管理ができなくなった場合、代わりにお金の出し入れを管理してくれる代理人を指名出来る制度である(ほかにも役割はあるが)。しっかりお金の管理はできるが、クレジットカードは使えなくなる。未だやりたいことのある人には、不自由になってしまう。そこで、解約返戻金のある、生命保険を辞めてしまうしか方法がないだろう…ということで意見が一致した。
それで、今日(10/6)、電話をし、保険の担当者に家まで来てもらい、サインをして、保険証券を返却した。手続きはものの5分で終わってしまった。
保険屋が帰った後、お金の心配は少しは無くなったかもしれないけど、なんだか虚しくなった。後12年何とか頑張れなかったのかな…?たった12年なのに…でも、長い、12年…。
今回のお金が、もらっていちばん嬉しくないお金だった。辛くて、苦しい時期を乗り切るために断腸の思いで工面せざるを得ないものだったからである。
働けることは、きっと幸せなことなのだ。文句を言いながらも、お給金という結果が出れば、また命を繋いで働くことができる。定型の人たちはその輪の中で、疲れも知らず、今日も明日もがむしゃらに走り続けていくのだろう。
我々のように周回遅れの人間は、階段の上に座って彼らの美しいストライドを見ながら、「不自由な生活は楽しいかい?軍隊みたいな生き方は楽しいかい?オレたちはクロカンみたいに好きに走って、好きに道を作るぜ!」と言い残して、運動場から全速力で走り去り、各々が最も適している道の真奥へと入っていくのである。
お金がなくても、図書館がある。
ノートがなくても、裏紙がある。
消しゴムがなければ、二重線で消して書き直せばいい。
勉強は、どこでだって出来る。白紙とペンさえあれば。
そして道はどこにだって作れる。そこに人が分け入れば。
※表紙(自作)
“Always with the Death.”のラテン語訳をローマ時代の壁の落書き風に描いたもの。