子育てに成功も失敗もない。成否を考えることの無意味さ

子育てに関して基準はさまざまだとは思うが、大きな太い柱としては、それは一重に親心の解釈に尽きる。自分自身にとって親心とは何か?を考えると、きっと多くの人が「その子が幸せに生きること」を望むはずだが、具体的な事象になってきた段階で簡単にその耳障りのいい言葉の化けの皮がはがれる。

親心とは何か?
親にも自分があり、自分にとっての子供あり、自分を排した子供があり、多様な次元から親心を考えた時に、自分としては、「自分にとっての子供はこうあって欲しいと願うこと」と「子供が幸せに生きること」のすり合わせの作業が、誰にとっても起きるものではないかと思う。

そうした上で、親心の二重性のすり合わせが、周囲を見ていると大分すり合わさっていない方々が多い。どちらによっても、それは両者(親と子供)にとってもあまりよい状態ではないが、親が折れるか、子供が折れるかみたいな二元論もあまり意味がないので、結論から言えば、親心の解釈をはじめに決めること、少なくとも夫婦間で。また、それを子供と親の間ですり合わせる、もしくはすり合わせることをあきらめるという親心を獲得するかのいずれかになってくる。

子育てに正解もないが、一方で間違いもない。
正しいとか間違いという次元を超えて、自分にとってもっとも近しい存在と向き合うことは、自分に対して出している結論を外化することでもある。

子育てが上手くいくということも、失敗するということもない。
ただ、自分が幸せを感じるか、子供が幸せを感じているか、しかない。

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