熊殺し女子高生
ばあーか。あたしがスカートの下にブルマーをはいていること、もう忘れたの?
下から見上げる同級生の男どもに、あたしは舌を突き出して見せた。そう、ちょうどホーク・ウォリアーが客席に向かってするみたいに。
知ってるんだ、本当は。あんたたちが誰ひとり私のことを心配なんてしていないこと。
今だってきっと、
『プロレスオタクの大女がまた馬鹿をやってる』
くらいにしか思っていないことも。
でも、いいんだ。あたしが勝手にやってるんだもの。こっちが命懸けだからって、見てる方にまで命懸けになれなんて言えないもんね。
「美久!」
あ、あの声は敦子だな。きっと先生を呼んできたのね。まったく、優等生なんだから。
さ、先生が止めに来る前にすませちゃわないと。
あたしは今まで自分が腰掛けていた金網のてっぺんを、景気よく乗り越えた。乗り越える前に、ちらと一瞬下の方を見た。
熊は、あたしのことなど気にも止めていない様子で、座り込んで糞などを垂れていた。
「・・・ 今は自己PRの時間だよ。で、君は結局のところ何が言いたいのかね?」
帝都女子プロレスリングの入門オーディションには、体力テストの他に、一人ずつリングに上がっての自己PRの時間が設けられている。カワラ割りをやる子もいれば、入門の動機を涙ながらに語る子もいる。
あたしはと言えば、
『え、そんなのあったの?』
知らなかった。体力テストの方はばっちり準備してたけど、こっちは何も考えて来てない。
どうしよう、どうしたらいいんだろう。
そうこうしているうちにあたしの番となり、リングに上がったあたしは緊張のあまり、あの時の事をしゃべり始めていた。
一年前、中二の頃の遠足の時の話だ。中学生にもなって、何と動物園だった。班行動の最中、高柳くんがあたしに突っ掛かって来たのだ。
「プロレスラーって、本当に強いのか?」
「あったりまえよ!」
あたしは高柳くんにアントニオ猪木の話をしてあげた。ブラジル移民、力道山との出会い、新日本プロレス旗揚げ、
「モハメド・アリとも、“熊殺し”ウィリー・ウィリアムスとも闘ったんだからねっ!」
「“熊殺し”ねえ・・・そのウィリーとかいう空手家、本当に熊と闘ったのか?」
「あたりまえじゃない!」
もう、『地上最強のカラテ2』も見てないの?
「ばーか。だからプロレスは八百長だって言うんだよ。だいたい人間が熊と闘って、勝てるわけねえじゃん」
「だってウィリーは勝ったんだもんっ!」
「熊と向かい合って逃げ出さない人間なんて、いるわけねえよ」
「いるもんっ!」
「いねーよ」
険悪な雰囲気が漂った。ここで熱くなってしまうのが、あたしの悪い癖だ。
「じゃあ、こういうのはどう?今からあたし、あの熊の檻の中に入って来るから、そしたら信じてくれる?」
「・・・できるわけねえだろ」
「できるもんっ!」
あたしは荷物を敦子の手に押し付けると、そのまま熊の檻に向けて駆け出していた。
金網にしがみついたところで、あたしはさすがにためらった。こちらを見上げた熊から、獣臭というか、そういったものが立ちのぼってきて、ぞっとした。それでもウィリー・ウィリアムスとアントニオ猪木を馬鹿にされたまま、引きさがるわけにはいかなかった。
だが、しかし。確かに女子プロレスのオーディションとこの話は、何の関係もない。
私は詰まった。
ああ、どうしよう。どう繋げばいいんだろう。あたし、落ちちゃうのかな。こんなことで落とされるのは嫌だな。どうしよう。
「続けさせましょうよ、宮前さん」
どき。聞き間違えようのない声だった。あたしは声の主の方に恐る恐る目線を向けた。 ぶっとい二の腕に、フォークの刺さった傷跡が浮き上がっている。三年前のタイトルマッチでもらった傷だ。その時リングサイドにいたあたしは、ぼろぼろ泣きながらプロレスラーになることを決意したんだ。
グリズリー薙原。
あたしの最も尊敬するプロレスラーが、あたしの話をもっと聞きたいですって!
「いいでしょう?おもしろい話じゃないですか」
『宮前さん』と呼ばれたフロントの人は、しょうがねえなと言いたげに頭を掻いた。
「だとさ。続けな、ええと・・・」
「天川。天川美久です」
薙原さんに声をかけられた感激でぽうっとなりながら、あたしは話を続けた。
熊の檻は、壕のような構造になっている。お堀のまわりに高さ三メートルほどの金網が建てられていて、そのお堀の中に熊がいると思えばいい。客は、金網越しに熊を眺め下ろす形になる。私が今いるのはちょうど金網の内側の所で、幅三十センチほどのコンクリートの突き出しの上だった。
さて、困った。ここから壕へ下りていくのは簡単だが、問題は帰りだ。壕の壁は、熊が上がってこれないようオーバーハングになっている。熊に登れないということは、もちろん人間には登れないと言うことだ。
思案しながら眺め下ろしていると、鉄のハシゴというか、コンクリートに埋め込んである手掛かりが見えた。熊には使えないよう、小さく作ってある。おそらくは落ちた人間の脱出用なのだろう。
なんだ、あそこを下りればいいんだ。
下りる前にもう一度だけ金網の向こう側を見た。敦子も、高柳くんも、先生も、誰ひとりとしてあたしを止めに来てはくれなかった。
誰か一人でも金網を乗り越えてあたしを止めに来てくれたらなあ、とも思ったが、結局あたしは手掛かりを伝って壕の底へと下りはじめた。
下りるに従って、熊の匂いはどんどん強くなっていった。怖いのであまり熊の方は向かないようにしていた。
下まであと一メートルほどのところで、恐る恐る背中を振り返った。糞を終えた熊は、こんもりとしたその山から少し離れると、前足の間に頭をうずめるようにして丸くなった。
今のうちだ。私は大急ぎで下まで下りた。
熊の糞の匂いが凄かった。私は息を止めながら金網を見上げた。ほんの三メートルほどの高さのはずなのに、金網の向こうはは二度と戻ることのできない別 世界のような気がした。
高柳くんが見ている。
敦子が見ている。
先生が見ている。
みんなが、私のことを見ている。
私は何だか誇らしげな気分になって、試合に勝ったアントニオ猪木のように、拳を振り上げて叫んだ。
「だあーーーーーッ!」
金網にへばりついたクラスメイトたちがどよめくのが気持ち良かった。
さて。じゃあ帰るとしましょうか。
そう思って壁の手掛かりに手をのばそうとした時、あたしは首筋に生温かいものを感じた。焼き肉をたらふく食べた後の口臭に、ちょっとだけ似た匂いがした。そして、息遣いと、喉が低く鳴る音。
あたしは振り向けなかった。自分の背後にいる物の正体はこれ以上ないほどよくわかっているのだが、認めるには怖すぎた。
だって。だって。さっきはうんこしてたくせに。今しがたまで寝てたくせに。
「ごふう・・・」
空気が振動する感覚に背中をくすぐられ、私は身をよじるようにして振り向いてしまった。そして、ゆっくりとへたりこんだ。
そこに、熊が、いた。
エゾヒグマ。生涯に四十匹を超える牛を素手で殺したあの大山倍達でさえ(警官の制止があったとはいえ)倒せなかった生き物が、私の目の前三十センチのところに立っていた。
悲鳴なんか出なかった。
『あたしはこの生き物には勝てないんだな』
本能がそう教えてくれていた。
熊が前足を振り上げるのを見た。
牛の首を一撃でへし折る破壊力を秘めた前足は、生き物の一部というより、建設機械か何かのようなパワーのかたまりに見えた。これで殴られたら死ぬ しかない。
『ウィリーはどうやって勝ったんだろう』
そう思いながら、目を閉じた。
前足は振り下ろされなかった。
目を開けると、いつの間にか熊は四つ足になっていて、私の鼻先ちょうど十センチくらいのところに鼻先を突き出していた。
私ははじめて、熊の目をまともにのぞきこんだ。
熊はくわっと大きく口を開き、息をまともにあたしの顔に吹きかけた。あたしが思わず目を閉じて、もう一度開けると、熊はもう後ろを向いて歩き去っていた。
顔が熊の息でじっとり濡れていた。何だかひどく悔しい気持ちだったけれども、どうして悔しいのかどうしてもわからず、私はそのままそこにへたりこんでいた。
「それでおしまいかね」
「え?・・・あ、その後飼育係の人に助けていただいて、すごく叱られたんですけど・・・」
「そうじゃなくて、君は何をアピールしたかったんだね?」
そうだ。しまった。
あたしは女子プロレスラーになるための自己アピールをしなくちゃならないんだった。だのにこんなこと話しちゃって、どうしよう・・・どうしよう。
あたしは救いを求めるように薙原さんの方を見た。薙原さんはにやりと笑うと、あたしのいるリングの方に向かって歩いて来た。
えっ?やだ、うそ、本当?薙原さんがあたしのいるリングのエプロンに上って来た。あ、やだ、ロープくぐっちゃった。え、え、ええっ!
本物のグリズリー薙原が、あたしの目の前に立っていた。私服を着ているせいかもしれないけど、汗の匂いはなくて、代わりに女の子の匂いが漂ってきた。
そっか。薙原さんも女の子なんだ。あたしはあたりまえの事実に、ひどく感動していた。
「・・・おい」
薙原さんが口を開いた途端、女の子の匂いは消えた。あたしの目の前にいるのは、プロレスラー“グリズリー薙原”だった。
「どうして悔しかったのか、教えてやるよ。お前は、熊に馬鹿にされたんだよ」
熊に馬鹿にされた--そんな馬鹿な。
「お前みたいなのを“トンパチ”って言うんだよ。まあ、平たく言えばお調子者ってことさ。熊はああ見えて頭がいいからな。“トンパチ”はすぐ見分けるさ」
あの時見た熊の目。それが、しだいに目の前の薙原さんの目と重なっていった。同じ目だ。同じ目--。
あの時、何故あたしに前足を振り下ろさなかった!
今、目の前にいるのがあの時の熊なのか、それとも敬愛する薙原さんなのか、あたしにはもうわからなかった。わからないまま、あたしは拳を振り上げていた。
馬鹿にするなああああああっ!
めり。
堅く握りこんだ拳の中にぬるぬるした物が流れ込んできて、あたしはようやっと正気に返った。
あたしの拳は、薙原さんの顔面のど真ん中--鼻っ柱にめりこんでいた。薙原さんの鼻から流れ出る血が、あたしの拳から腕を伝って、床へ滴っていた。
ぽたり、ぽたり。
十秒ほどもそうしていたろうか。薙原さんはあたしの拳をうるさそうに押しのけ、親指で鼻の下を拭った。そして、にやっと笑った。
その笑いが何を意味するのか、まだあたしにはわからなかった。けれど、それは確かに、あたしを馬鹿にした笑いじゃなかった。
だから、あたしもつられて笑った。
ばき。
突然の不意打ちだった。薙原さんの右腕が、あたしの喉に思いっきりぶちあたっていた。
ウエスタン・ラリアート。
衝撃が大きすぎたのか、痛みはまったくなかった。ただ、自分の体が宙に浮き上がり、頭を下にしてロープに向かってすっ飛んでいくことだけを感じていた。
ラリアートであたしのことをぶっ飛ばしている時も、薙原さんは微笑みを浮かべたままだった。それが何だか嬉しくて、あたしもぶっ飛ばされながら笑っていた。
「馬鹿野郎!練習生ならまだしも、テストにも合格してない子に、お前は何てことを!」
薙原は頭をぽりぽりと掻いた。
「・・・宮前さん、この子、あたしがもらってもいいですよね」
宮前が苦虫を噛み潰したような顔をする。
「・・・まだ合格って決めた訳じゃないぞ」
鼻から、すうっと血が滴りおちる。薙原は親指の腹でそれをぬぐいながら、
「こんな貴重な馬鹿を落とすなんてもったいないこと、あたしにはできませんね」
宮前は手にしていたサインペンを薙原の胸元めがけて投げ付けた。
「ええい!勝手にしろ!」
胸元でぽん、とはずんだサインペンを受け止めると、薙原はこう付け加えた。
「この子のリングネームも、あたしが決めちゃってかまいませんか?」
「何てつける気だ?」
「“ベアー美久”。これよりぴったりしたのは、無いと思いますけどね」
「やれやれ、熊が二匹かよ・・・」
頭を抱えた宮前は、リングの上で伸びている天川美久にあきれた目をやった。
『五体満足で引退なんかさせてやるもんか』
あたしは、そう堅く心に誓っていた。
今日、このあたしとの試合を最後に引退する元TWAチャンピオン、グリズリー薙原の名前は、プロレスファンでなくても知っているかもしれない。だけども、三カ月前に彼女を破り、そのベルトを奪ったあたしのことは、女子プロレスを見てない人は、まず知らないだろう。
あたしの名前はベアー美久--本名は天川美久と言う。これからのプロレス界をリードする名前なんだから、しっかり覚えておくように。
薙原さんは、あたしをプロテストに合格させてくれた人で、デビューするまでも、ううん、デビューしてからもずっと面 倒を見てくれた、あたしにとっては大恩人だ。この人がいなければ、プロレスラー“ベアー美久”は存在しなかったかもしれないんだしね。でも、これだけは--今度の引退だけは、許せない。
「ベルトを奪られたら引退」
とは、薙原さんが常々広言していたことだった。だからあたしは自分の手で薙原さんを引退に追い込んだことになる。だけど・・・そういう問題じゃ、ない。
『文句のない勝利』だの『世代交代』だの、プロレスマスコミは一生懸命あたしのことを持ち上げてくれた。でも、まだ誰一人として
「ベアー美久はグリズリー薙原を越えた」
だなんて、本気で思ってはいない。
このまま引退するなんて、ずるい。勝ち逃げじゃないか。今引退されちゃったら、あたしは一生、薙原さんを越える事ができないじゃあないか。
だから、決めた。
「この試合でグリズリー薙原を、潰す」
五体満足で引退なんかさせてやらない。腕の一本もへし折って、お嫁にいけない体にしてやる。引退試合だからって、恩返しのキレイな試合なんかするもんか。
「ベアーさん、時間です」
よおおおおおおっし!
一歩花道に踏み込むと、歓声があたしを包む。歩みを進めて行くうちに、遠かった歓声が徐々に近づき、リングに上がった時には、一人一人の声まで聞き分けられそうな気分になる。あたしの一番好きな時間だ。
だけど、今日のあたしには、グリズリー薙原しか見えていなかった。リング下までたどりついたあたしは、きっ、とエプロンを見上げた。薙原さんはサードロープに腰掛け、セカンドロープを肩で持ち上げてあたしの通 り道を造りながら、にやにや笑っていた。
気に入らない。あたしはベルトを腰から外すと、これみよがしに薙原さんの鼻先へと突き付けてやった。薙原さんは一瞬鼻白んだが、すぐに、にやにや笑いに戻った。
そのにやにや笑い、消してやる!
あたしはベルトを両手で振り上げると、薙原さんのにやにやの真ん中に力一杯叩きつけた。場外乱闘の始まりだった。あたしはイスを振り上げながら、試合開始のゴングを聞いた。
場外乱闘ではあたしの方に分があった、ような気がする。だけどもこうしてグラウンドに引き込まれてみると、あれは薙原さんの巧妙な罠だったのではないか、とも思えてくる。
脇固め。アームロック。腕ひしぎ逆十字固め。薙原さんはあたしの右腕にこだわった。ベルトを奪った必殺の右拳を警戒しての攻めだろう。一つの技を外しても次の技がくる。警戒し過ぎると今度は打撃技がくる。翻弄されていると言っていい状態だった。
薙原さんはグラウンドの練習、特に関節技に人一倍熱心だった。
「いいか、美久。あたしらプロレスラーの武器は打撃でもスープレックスでもない。関節技だ」
いつでも相手を仕留められる自信があってこそ、魅せる試合を作っていくことができる--薙原さんの言うことは正直よくわからなかったが、好むと好まざるとにかかわらず、薙原さんのスパーリングパートナーを長く務めたあたしは、いつの間にか彼女に次ぐ関節技の使い手になっていた。だが所詮、ナンバー2だ。
『このまま薙原さんのペースに引き込まれるわけにはいかない』
そうだ。このままだといい試合になっちゃうじゃないか。引退試合がその年のベストバウトだったとか、そんな格好いい終わらせ方にして、たまるか。
薙原さんがあたしの右腕をねじり上げて、自分の肩に乗せた。アームブリーカーだ。あたしの腕を持ち上げ、自分の肩に叩きつける前に観客にアピールする--今だ!
がぶ。
あたしは薙原さんの左肩に、思いっきり噛みついていた。
「ベアー、薙原の引退試合なんだぞ!もうちょっとキレイにできないのかあ!」
歯が肉にまで食い込んだ感触があった。このまま食いちぎってやる、そう思いかけた時、ぐい、と髪の毛を引っ張られ、あたしは背中からマットへ叩きつけられた。
「この野郎!」
薙原さんの右肘があたしの頬骨をひっぱたいた。半歩下がったが、すぐに踏み込んでエルボーを打ち返した。また打ち返される。打ち返す。
打撃戦なら、こっちのが上だ!
よろめいた薙原さんの鼻っ柱めがけて、あたしは思いっきりナックルを叩き込んだ。
拳の向こうで、鼻の骨がひしゃげる音がした。
昔、こんな風に薙原さんの顔面に拳をぶちこんだことがあった。もっともその時は、痛めたのはあたしの拳の方で、薙原さんはうすく鼻血を流しただけだったが。
あたしのプロテストの時だ。今でもその時の気持ちをうまく説明することはできない。ただ、動物園の檻の中で、熊を前に腰を抜かした自分を、あたしは許せなかった。
リングに上がってきた薙原さんは、あたしにとって熊だった。
にたり。
あたしの拳を顔面にめりこませたまま、薙原さんは微動だにしなかった。それどころか、鼻のひしゃげたまんまの顔で、笑ってみせたのだ。
にたり。
うそだああああああ!
あたしの左右の拳の連打が薙原さんを襲った。でも、腰が引けて、力が入らなかった。鼻の骨を折られて、痛くない人間がいるわけがない。薙原さんはタフだから、我慢しているに過ぎない。そんなことは頭ではわかっていたが、現実に目の前でにたにたしながら殴られるがままになっている薙原さんの姿に、肉体が恐怖していた。
「ワン、ツー、スリー、フォー・・・」
レフェリーが割って入った。続いてブーイングが客席を支配する。あれ?そういえばナックルって反則だっけ。でももう、あたしに頼れるものはこれしかない。
「うああああああっ!」
へっぴり腰で、それでも拳を振り上げた瞬間、それが来た。薙原さんの左腕が、あたしの喉首めがけて、黒い稲妻のように跳ね上がる。
このラリアットが、薙原さんの必殺技だった。
とろとろと、気持ちのいい夢を見ていたような気がする。
「美久、起きろ!」
声と一緒に頬を一発張り飛ばされて、少し意識がはっきりしてくる。
あれ?あたしどうしたんだろう。また、薙原さんとスパーリングしてて落とされたのかなあ。でも、ここしばらく、対戦するようになってからは、薙原さんとスパーリングはやってないんだけどなあ・・・
対戦?
そうだ、あたしは薙原さんと試合してるんだ!
跳ね起きた瞬間、薙原さんのぶっとい腕があたしの首に絡みついていた。
「潰しにきてくれて、ありがとよ」
スリーパーホールド。薙原さんの腕が、あたしの頸動脈を圧迫する。
「引退試合だからって妙な気を遣われたりしたら、たまらねえからな。だけどな、潰されるのはあたしじゃあない。お前だ。二度とリングに上がれない体にしてやるよ」
ぞっとした。
『冗談じゃない』
そう思ったけれど、すでに体はぐったりして、力が入らなかった。
『この人には勝てないんだ』
ぼんやりしていく意識の中で、薙原さんの腕を通して、次第にゆっくりになっていく自分の鼓動を聞いていた。
熊にだって、勝てるつもりでいた。それが思い上がりだというのなら、その爪であたしを引き裂けばよかったのだ。牙で腕の一本も食いちぎってくれればよかったのだ。熊に勝てなかった自分より、熊に恐怖を抱いてしまった自分より、対等に扱ってくれなかった熊が許せなかった。熊に対等に扱ってもらえない自分が許せなかった。
入門して、デビューして、新人から中堅に、そしてメインエベンターになった。強くなればなるほど、プロレスがうまくなればなるほど、薙原さんが遠くなっていくような気がした。それでもいつか対等の相手として認めてもらうために、ここまで頑張ってきたのだ。
そしていつか、
「ベアー美久はグリズリー薙原を越えた」
少なくとも自分自身がそう思えるようになるまで、あたしの前に立ちはだかっていて欲しかった。だのに引退だなんていうから、潰しにいったのだ。でも、あたしなんかに潰せる相手じゃなかった。
もう、駄目かな。このまま落ちちゃえば、楽になるかな。薙原さんと一緒に引退っていうのも、悪くないかもしれないな。
あれ?あたしの脚が、薙原さんの顔面を蹴り上げている。何回も、何回も。あたしの頭のちょうど真上にある薙原さんの顔に、あたしが潰した鼻に、あたしの蹴りが当たっている。頭の上に滴ってくるものは--血?
それでも、薙原さんの力は緩まなかった。でも、血がぬめったのか、少しだけ腕が滑った。あたしは、渾身の力を込めた!
だあ!
あたしは大きく息をした。スリーパーホールドから解放されて、急に頭に血が流れ込んだのか、くらくらっとした。意識をはっきりさせようと、手近なコーナーに頭をガンガン叩きつけた。
そうだ。そうなんだ。あたしの頭は忘れても、あたしの肉体は覚えていた。あたしは決して、怖いものから逃げようとしなかった。怖ければ怖いほど、あたしは目をつむって、怖いものの方へ突進して行った!
これが勇気なのかどうか、あたしにはわからない。けれども、それはあたしの本質であり、生まれながらにして持っているものだった。
薙原さんの方へ向き直る。薙原さんの鼻は血まみれで、もうそれこそひどいことになっている。それでもまだ、にたりと笑う。
その笑いを見た瞬間、あたしは目をつぶって薙原さんの方へ突っ込んでいた。
「目をつぶるな!」
薙原さんの声に、あたしは目を開いた。 見える!
がしい。
薙原さんのナックルが、あたしの顔面にめりこむのがはっきりと見えた。
『鼻の骨が潰れたな』
それでも、あたしは倒れたりしなかった。痛みも、痛みより怖い、自分の軟骨がひしゃげる音も、今のあたしには我慢できた。
だから、にやりと笑ってみせた。
観客席のどよめきが、リングサイドから二階席まで、波が寄せて行くように広がっていくのが感じ取れた。そして、はじめて、薙原さんの恐怖の表情を見た。
今しか、なかった。
「なあぎいはあらあああああっ!」
ダッシュしながら、右腕を振り上げた。ヒジの内側の部分で、薙原さんの喉元を捕らえる。さんざん痛めつけられた右腕に、九十五キロの体重がまともにかかった!
「あああああああああっ!」
ラリアットを振り抜いた!
薙原さんが宙を舞い、九十五キロが後頭部からマットに落ちる。あたしは、つんのめるようにマットにヒザをついた。
右腕がちぎれそうに痛い。ひしゃげた鼻から血が止まらない。もうやだ。何だってこんな痛くて怖い思いしなくちゃなんないの。
それでも、会場を揺るがす観客の足踏みが、どよめきがあたしをもう一度立たせてくれた。倒れたままの薙原さんの前髪を引っつかみ、あたしは叫んだ。
「立ってこおい!薙原あ!」
「二十分経過--」
アナウンスが、少し興奮した声で告げた。
「二十七分三十四秒、体固めで、ベアー美久選手の勝ち--」
試合終了のゴングは、エキサイトしっぱなしのプロレスファンに、さらに油を注いだようだった。誰が何と言っているのかさっぱりわからないが、それでもみんなの、一人一人の声が、聞き分けられるような気がした。
あたしは、痛む右手にチャンピオンベルトを、左手に薙原さんの右手を高く掲げて、もう鼻だかなんだかわからないところから、ぽたぽたとキャンバスに血を垂らしていた。ちらりと横を見ると、薙原さんもやっぱりぽたぽたとやっていた。
前にもやったことあるけど、痛いんだよなあ、これ、治す時。鼻の穴に、綿でくるんだ鉄棒突っ込んで持ち上げるんだもんなあ。
薙原さんと目があった。お互いに一変した御面相を、笑い合った。
あれ?おかしいなあ。あたしってば、薙原さんを潰すつもりで試合してたはずだったのに。
まあ、いいか。気持ちいいから。