プリキュアはなぜ素晴らしいのか

※この原稿は「デリシャスパーティ♡プリキュア」放映開始直後に書かれたものです

 現代日本で最も志の高いテレビ番組は、プリキュアシリーズである(異論は認めない)。東映アニメーションが制作し、テレビ朝日系で日曜の朝に放送されている、低年齢少女向けのアニメで、2004年に第1作「ふたりはプリキュア」がスタートし、現在は19作目「デリシャスパーティ♡プリキュア」が放送中である。
 設定はシリーズごとに異なるが、共通する基本設定は
「二人以上の少女(主に中学生)たちのチームが、妖精(的な存在)に授かった力で変身する」
「妖精やアイテムを狙う悪の組織から、世界と日常を守るために戦う」
「必殺技はあるが、基本徒手空拳で戦う」
 プロデューサー・鷲尾天氏は
「女の子だって暴れたい」
 をテーマに、女の子をエンパワメントする作品を作りたいと願って、第1作を企画したという。実際、オープニングで傷だらけの少女二人が瓦礫の中から立ち上がり、徒手空拳で巨大な敵に立ち向かっていく、第1作のオープニングは強烈であった。シリーズを重ねるうちにメンバーは増え(現在はだいたい4~5人のチーム)、設定も魔法つかいになったり、伝説のパティシエになったりするが、基本コンセプトは現在も貫かれている。
 では「プリキュアがなぜ素晴らしいのか」「どう素晴らしいのか」について説明しよう(超上から目線)。
「真・善・美」という言葉をご存じだろうか。真実と、道徳的に正しいことと、美しく価値のあること。かつてプラトンが提唱した、人間が生きる上での究極の目的を表した言葉である。プリキュアにはまさにこの真・善・美が体現されている。少女たちは決して自ら戦いを望まず、世界や妖精や日常を守るためのみに戦う。
 そしてその中で描かれるのは、友情の尊さ、勇気の大事さ、日常の大切さである。少女たちは時には失敗や誤った選択もする。しかし、仲間と共にその結果を正面から受け止め、必ずもう一度立ち上がる。少女たちはプリキュアとして戦いながらも、日常を謳歌し、自分の夢を追いかけることを諦めず、その困難から消して逃げない。
 時には敵にも深く共感する。そして戦う物語でありながらも、プリキュアは自己犠牲を美化しない。ここには確かに、子ども達に伝えなくてはならない、真・善・美がある。
「多様性」もまた、プリキュアの大事なテーマである。日本の少女だけでなく、外国人や異世界人、妖精や宇宙人やアンドロイドまでもがプリキュアになる。時には、かつて敵だった者が、プリキュアになることさえある。
 少女たちは、相手が人外であろうとも、誤解を乗り越え、対等の友情を育むのである。時には「あまりにもポリコレ的である」と非難される要素でもあるが、(反ポリコレの)お前ら、子供たちに何を見せるつもりだ。
  プリキュアは、平成そして令和の現代日本が抱える問題にも(子供達に理解できるレベルで)真正面から向き合う。敵がブラック企業であったり(明言はされないが)LGBTのキャラクター(しかも一回だけの奇跡としてプリキュアになる!)が登場したりする。前々作「ヒーリングっど! プリキュア」では「他人にあなたの心と体を利用させてはならない」(あなたへのモラハラ・DV・性暴力を許してはならない)というメッセージにまで踏み込んだ。
 プリキュアの物語においては、しばしば奇跡が起こる。しかしそれは、製作者たちが楽をしたいがための、安易な選択ではない。第1作「ふたりはプリキュア」 は、二人の互いを知らない少女と、二体の妖精とが出会うことで始まる。
 出会いという奇跡で始まった物語なのだから、クライマックスで奇跡が起こるのは当然だ。毎年2本ほど製作される劇場版ではさらに、配布された「ミラクルライト」を子ども達が振って応援することで、奇跡が起きるのである(残念ながら現在はコロナ禍のため自粛)。
「道徳」という言葉には胡散臭さがつきまとうが、それでも子供たちにはやはり道徳が必要だ。子供達には「プリキュアに恥ずかしくない」大人になるよう伝えねばならないし、我々大人も「プリキュアに恥ずかしくない」ふるまいをするよう心がけるべきである。

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