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【上映会報告#02】 性の二元論とらしさの流動性——「駆け抜けたら、海」の舞台で向き合う銭湯と表象

映画「駆け抜けたら、海」は銭湯でのふとした会話をきっかけに、女子大生二人の関係が変化する様子を描いた作品。主演二人の自然な演技や美しい映像表現は高く評価され、国内外の映画祭で多数ノミネートされています。

女子大生の綾瀬みつきは、親友の星野うみに片想いをしている。合コンを抜け出してきた2人は閉店間際の銭湯に駆け込む。いつものようにうみの恋愛話を聞かされるみつき。次第にみつきは自身の想いがあふれてしまう。

この映画のロケ地として利用されたのが東京都墨田区の銭湯「電気湯」。友情と恋愛のはざまを描いた儚い恋物語が、男湯と女湯に分かれた銭湯という空間で撮影されたことにはどんな意味があるのでしょうか。

2024年5月11日に電気湯で実施された上映会イベントから「性の二元論とらしさの流動性」と題して、電気湯店長とスペシャルゲストを交えて行ったトークの記録をお伝えします。

前編の様子はこちら

名前のない関係を描いた映画

十川監督:映画「駆け抜けたら、海」は同性愛に関する内容を含む作品です。僕が脚本を書くなかで、間違った表現で誰かを傷つけてしまわないか、世に出すことが怖くなる時期がありました。そこで、漫画を通じて多様な性の在り方を描く岡藤さんの個展に伺い、相談させていただきました。

岡藤:すごく悩まれていましたよね。「作品に真摯に向き合えば、100%は理解されなくても自分で納得いくものができるはず」とお伝えしたように思います。映画は企画段階でなくなったり、完成まで時間がかかったりするものですから、これほど素敵な内容で完成したことがまず素晴らしい。

特に印象に残ったのはミュージカルシーンの秀逸さです。映画ならではの表現で、妄想の世界に入る姿が美しくエモーショナルに描かれており、何度も繰り返し見てしまいました。うみを突き飛ばしたみつきの戸惑いや、軽蔑されてしまうかもという気持ちまでよく表現されていたと思います。

岡藤真依(漫画家) 2017年、初単行本『どうにかなりそう』を刊行。サニーデイ・サービス「TOKYO SUNSET」のMVへのイラスト提供や映画『猫は逃げた』(監督:今泉力哉)の劇中漫画を担当するなど様々な媒体で活躍。

十川監督:ありがとうございます。岡藤さんからのアドバイスで、真摯に向き合って作品を作ることの大切さを感じました。サリー楓さんはドキュメンタリー映画「息子のままで、女子になる」への出演や、ジェンダーに関する講演など幅広く活動されています。この作品を見て、率直にどのように感じましたか?

サリー:最後に二人がキスをして、銭湯から外に出てそのまま駆け抜けていく関係性に対して、ノーネームだったことに感銘を受けました。結果的に結婚しましたとか、付き合いました、振られましたという名前のつく恋愛ではなくて、名前のつかない恋愛だった。もしかしたらレズビアンと言い切れるかもしれないけれど、あの時点ではどれくらいの恋愛感情が発生しているかは憶測の域を出ない。その解釈の幅が豊かだと思いました。

十川監督:僕もこの映画を作る中で、LGBT映画であることを強調したいわけではなく、恋愛映画というつもりもありませんでした。ただ人と人が向き合う活動と、その心の現象みたいなものをジャンル分けせずに撮りたかったので、そう感じていただけて良かったです。

サリー楓(モデル/建築デザイナー) 1993年京都生まれ。2019年慶應義塾大学大学院卒業、日建設計入社 建築デザイナーとして大手設計事務所を拠点に建築や事業の提案を行う傍ら、Diversity &Inclusionに関する講演や発信活動を行う。


銭湯の可能性と限界、物語の持つ希望

大久保:電気湯店主の大久保勝仁です。僕は自分が無自覚なまま誰かを傷つけてしまう加害性を恐れているのですが、それを匂わせるような描写も含まれた、表現の豊かな映画だと感じました。ここからは、銭湯という公的な場を運営する立場からお話をさせてください。

LGBT理解増進法(2023年6月16日に成立)が立案されたとき、SNSで盛んに議論が行われ、銭湯も一つの論点になりました。たとえば「トランス女性を名乗る悪意のある人が銭湯に来た時、店側はそれを防ぐことができるのか」という話題がありましたが、これに関しては東京都浴場組合によって、肉体的に男性・肉体的に女性である人が、それぞれ男湯・女湯を使うことができると定められています。

大久保勝仁(電気湯当主) 京島在住。10月10日(銭湯の日)生まれ。京島で一番あったかい場所、銭湯「電気湯」四代目店主。元国連SDGs特使。京島のプレイスメーカー。

大久保:そもそも銭湯をはじめ、あらゆる公共的な場所で、誰もが近似的に男女のどちらかを選ぶことを求められています。しかし、自分の性自認や性的嗜好の間で揺れる人たちが(暫定的に)使うトランス男性/トランス女性といった言葉を前にして、僕は「あなたの痛みは幻だ」と突き放すのではなく「あなたの痛みを聞かせてください」と言える社会を作りたいと思っている。

銭湯は男湯と女湯に分かれた、社会に通底する性の二元論に依った施設です。この枠の中においては利用者さんたちとの繋がりを広げられますが、性の二元論で語り得ない他者を「私たち」に含める機会は閉じられていると諦めていたんです。そんなタイミングで、十川さんから映画を撮りたいという連絡をいただきました。

十川監督:いろいろな銭湯に撮影の相談をしたのですが、断られることも多かったです。そんな中、大久保さんに電話をしたら「面白そうっすね、やりましょう!」って一瞬で返事をくれて(笑)。今お話しいただいたような考えを持つ大久保さんと、作品を作りたい僕が出会って生まれた、奇跡のような映画だと思っています。

大久保:僕は「物語」という形式に可能性を感じています。歴史上、黒人の人権運動が指数的に加速した時期があるのですが、そのきっかけはとある小説だったんです。奴隷だった黒人少年の一生を描いた「アンクル・トムの小屋」という小説が広まり、多くの白人が人権運動に参加していったそうです。

物語を通じて、自分が普段想像しない領域を目にすると、その後の光景が少しだけ変わって見える。僕はここに大きな希望があると思っています。ただ銭湯を営むだけでは叶わない、「私たち」の対象を少しずつ広げる可能性を感じて、電気湯で映画を撮りたいという十川さんの依頼をお受けすることにしました。


物語と現実の間にあるギャップを自覚する

サリー:銭湯と同じように、トイレも男女で分けられていますよね。私は仕事でバリアフリートイレの設計に携わることもあるのですが、そこでは車椅子の利用者や目が不自由な方など、身体的な弱者が想定されています。彼らを対象としたスロープや手すりの設置は、身体に不自由のないマジョリティに対するサービスに包含されるので、クレームには繋がりません。

一方で、トイレや銭湯で男性用にも女性用にも入りにくい方、それはトランスジェンダーの方だったり、老老介護を行う高齢の夫婦かもしれませんが、彼らを弱者と想定して空間の区別を無くすことは、これまで男女別で損をしてこなかったマジョリティにとって抵抗感があるものになりかねません。性に関しては、マイノリティとマジョリティの利益を簡単には両立できない構造があります。

サリー:銭湯が男女で空間を分けているのは、性犯罪や盗撮の防止など、誰かに損を与えることがないよう公共的な視点に基づくものだと理解しています。その上で、同性愛の方同士のスキンシップが周囲から不愉快に思われるという理由で、迷惑行為として禁じている銭湯もありますよね。一方で、混浴風呂で異性のカップルが手を繋ぐことはそんなに変じゃないと思うし……難しい問題ですね。銭湯で恋愛が起こることは、映画としては綺麗だけれど、現実では銭湯オーナーから嫌われることかもしれない。

大久保:たしかに、映画ではみつきとうみの二人しかいませんでしたが、もし他のお客さんもいて、混雑している中での出来事だったら、銭湯オーナーとしては「大丈夫ですか?」と声をかけるべきですね。あくまで共同生活の場として運営されている銭湯に、二人だけのプライベート空間を投げ込まれたら、周囲はいい思いをしないはずです。

また、男性同士の関係が描かれていたとしたら、電気湯がハッテン場として切り取られてしまう可能性もある。そういう評判から閉業せざるを得なくなった銭湯も存在するので、素直に受け取れなかったかもしれません。物語で表象される柔らかさや優しさが、必ずしも現実の問題と直結しているわけでないことは意識したいですね。

大久保:何らかの苦痛を感じている人に対して、社会的に概念や言葉が生まれて共有されると、多少なりとも生きづらさが減るのではないかと思います。漫画や映画という創作物も、そのツールの一つになるでしょう。今ではレズビアンという言葉も社会に広がっていますが、女性同士の恋愛は「百合」としてもカテゴライズされてきましたよね。

岡藤:私の「フォーゲット・ミー・ノット」は、出版社の方から「百合作品を描いてほしい」と言われて始まった作品です。女性同士の恋愛を描いたものですが、描き進めるうちに百合というジャンルに括られたくないと思うようになりました。女性同士の恋愛でも、普遍的な人間同士の交流を描きたくて。

結局、出版社からは百合というハッシュタグがつきましたが、私はその言葉を使わずに宣伝していました。百合というカテゴリを好み、尊く思っている人もたくさんいるのも知っているから、すごく心が揺れた出来事でしたね。

十川雅司(映画監督) 徳島県出身。琉球大学卒業。在学中に演劇と出会い、表現の世界に没頭する。東宝にて舞台演出部も務めたのち、映画演出に興味を持ち、映画の作り方を学ぶため撮影現場に潜り込む。制作部を経て助監督として映画やドラマ、CMの制作現場に携わる。その傍ら、監督として短編映画やドキュメンタリー、MVを制作。

十川監督:岡藤さんの作品で、足に障がいを持った女の子が男の子に恋をする話がありました。元々はハッピーエンドにする構想だったけれど、当事者の方との交流を通じて結末を変えたそうですね。

岡藤:編集者に「この結末は甘すぎる」と言われたんです。当事者の方の意見も反芻しながら、物語の上で簡単にハッピーにしたり、解決したりしたらダメなんだと思い直して。結局、最後は少し苦味が残るけれど、ちょっと明るい一歩を踏み出せたような結末にしたのですが、取材させてもらった方は「よくぞ描いてくれた」と喜んでくれました。物語の都合や商業的な目線だけでキャラクターを結論づけてはいけないことは、漫画を描くとき常に意識しています。


理解できなくとも共感できる自分らしさを

十川監督:若い制作スタッフと話していたら「私たちの世代は個性を求められすぎて疲れる」という言葉を聞きました。個性が強要され、それに疲れ始めている時代における「自分らしさ」って何だろう?と思ったんです。楓さんのインタビューを拝見して、トランスジェンダーというカテゴリーの代表のように扱われることに違和感がある、といったお話が印象に残りました。

サリー:カテゴリーは詳細を省いて伝えるためのツールでしかないから、誰かを押し込める容れ物にしてはいけないと思います。例えば、今日の映画にレズビアンが何人出てきたか?と聞いたら、人によって答えも違うはずですし、そもそもカウントできないかもしれません。男女二元論でも、LGBTの4種類でも、アメリカ版のFacebookで選べる何十種類のジェンダーでもなく、グラデーションで広がっているわけですから。

大久保:自分の性別が定まらないことに対して、例えば「トランスジェンダーです」と自称した時に、その「らしい」表象に飲み込まれてしまったり、周囲から認識されたりする辛さもあるのでしょうか?

サリー楓:私はいろいろ考えた結果、今は「決めなくていい」と思っています。最近は男ですとか女ですとか言い切ると辛いから、メディアに出る時も性別を言わないようにしています。

小さい頃、親戚で集まると12人中11人が女の子みたいな状況で過ごしていて、お前は男だから頑張れよ!と言われるのがすごく嫌でした。そこから女装をしたり、ホルモン治療に通ったりしているうちに、ある時点で男らしさが消えたと感じたのですが、ふと我に返って「自分は女の子になりたいんだっけ?」と思ったんです。

結局、自分は女子になりたいんじゃなくて、男らしく生きることを強制されるのが嫌なのだと気づきました。自分がニュートラルになるまでに、失うものも多かったけれど、必要な作業だと感じられました。そこからは、人生で遠ざけていたボーイッシュなことや男性の服装も着るようになりました。学ランをセットアップみたいに着て、おしゃれだなって思ったりして。社会のあらゆるカテゴリーから、色眼鏡が外されたら嬉しいなと思います。

岡藤:サリーさんのおっしゃることがよくわかります。私はプライベートの自分らしさはあまり考えないのですが、作品を作る上ではやはり作家性が求められます。それは作品を発表して反応を見たり、編集者のコメントをもらったりして、それはそうだなとか、それは違うだとか、いろんなコミュニケーションを通じて徐々に形作られていくもの。いろいろ発信をしてみて、返ってきたみたものを受け止めることで、少しずつ自分らしさが出てくるんじゃないかと思います。

十川監督:性に限らず、家族関係や職業など、みなさんが自分らしさを模索している姿が印象に残りました。映画では「役」として表現されるものに自分との接点を見つけていくのですが、「こうでなくてはいけない」と決めつけるのではなく、いろいろ試しながら気づける土壌が生まれるといいですね。

「駆け抜けたら、海」を大分で上映した時に、70歳くらいのおじいさんが「LGBTのことはよくわからないが、美しい映画だった」という感想を書いてくれて、すごく感動したんです。他人を理解することは難しいけれど、共感することにならフォーカスできる。正しさを求めるのではなく、共感を作り出すことが映画にできることかもしれないと、そのおじいさんに教えてもらえました。

撮影 / 執筆:淺野義弘

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