言語学習と言語化能力 30分くらいで考えてみた
言語学習と言語化能力について、思いつくままに書いていきたいと思う。
最近色んな文脈で言語化能力という言葉を目にする気がする。youtubeの動画でも言語化能力についての動画が多い気がするし、誰かがふわっとした感情を言葉に変換してくれた時に、言語化能力が高くて助かるみたいなコメントも見かける。この言語化能力は「えもい」へのアンチテーゼだと思っている。いろいろな感情をすべて「えもい」や「かわいい」などで片付てしまう風潮に対して、「えもい」の解像度を上げること、それが言語化能力だと思う。
ではなぜ言語化することは大切なのだろうか。ここではコミュニケーションの手段として言語を使っているという前提に立って話す。そもそもコミュニケーションは自分の思っていることを相手に伝え、相手の思っていることを理解するという相互関係だ。このとき言語化能力は非常に大切だ。
言語化は心を言葉に置き換えることと言うことができると思う。自分の考えていることを人に伝えるときに、忠実に言葉に直すことができれば、自分の気持ちをより正確に相手に届けることができる。しかし、このとき一方の言語化能力が高いだけだとコミュニケーションはうまくいかない。言語化能力にはもう一方の側面、言語の逆出力の役割があるからだ。相手の心を変換した言葉を受け取り、その言葉から再び心を作り出す。この言葉から心を作り出す能力がなければ、相手のもとの心を正確に理解することはできないだろう。
具体例として「青い空」と「紺碧の空」について考えたい。「青い空」を説明するときに「青い」という言葉を使わないのはいささか難しいので、循環論法的な体をとることを容赦いただきたい。
真夏の広々と広がる濃い青い空を見て、その情景を「紺碧の空」と言葉に置き換えたとする。そしてその言葉を相手に伝える。ここでそれを受け取った相手が「紺碧の空」という言葉を単なる「青い空」として理解するのか、真っ青な空、燦燦と輝く太陽とおぼろげな雲、こういった情景をイメージするのかどうかで、コミュニケーションの精度が変わってくる。逆にそういった空を見て「青い空」とだけ表現してしまえば、相手に伝わるのはただの「青い空」になってしまいかねない。ここで「えもい空」などと言ってしまえば、相手の空の受け取り方はその人が思う「えもい空」になってしまう。「えもい」という言葉は多義的であるからこそ、便利に使える側面もあると思う。ひとつひとつの感情を言うことなく、「えもい」にすべて含ませることができる。しかし「えもい」という言葉だけで本当の意味でコミュニケーションが成り立っているのかは疑問の余地がある。
ここで言語学習と言語化能力について考えたい。持論として、母語での能力が高いほど、第二言語の能力も高くなると信じている。感情や思考の箱の区分が細かければ細かいほど、第二言語を学ぶ際に正確に意味を捉えることができると思うからだ。
例えば、極端な例ではあるが、"sad" "happy" "lovely" "tragic" "excited" "nostalgic" "traumatic" "fleeting"といった言葉に相当する箱が「えもい」だけの人と、「悲しい」「うれしい」「すてき」「悲壮感のある」「わくわくした」「なつかしい」「トラウマ的な」「儚い」といった感情の箱を持っている人では、どちらがより場に適した言葉を使うことができるだろうか。
英語を英語のまま習得しようみたいな流れもあるけど、どうしても何かを考えるときには即、日本語が関わってくる。授業をしていて、日本語だとなんて言いますかって質問されたときに、変換するのが難しいなって思うこともあるので、英語を英語のまま理解することのメリットももちろんあると思う。日本語にない表現が英語にあることもあるので。でも、自分の考えとしては、母語の解像度を上げて、ひとつひとつの箱に英語の言葉を入れていった方が、最終的な効率として良いんじゃないかなと。説得力にかける部分もあると思うけど、別に出版するわけでもないんで、アイデアの1つとしてどうぞ。