岡山をジーンズの聖地に マルオ被服(BIG JOHN) 後編
さて。昨日の続きを少しだけ。
1967年に第一号ジーンズを誕生させたマルオ被服。
この誕生と前後して最初に生まれた技術が
昨日もお伝えした、ジーンズをワンウォッシュすること。
これはマルオ被服が「キャントン」を販売している
時に生まれた技術。
日本人は欧米人に比べ地厚な生地の服など着たことが
なかった。
さらにこの当時アメリカから入ってきていたジーンズは
古着で既に柔らかくなっていた。
日本人はノンウォッシュのジーンズなんて見たことない人が
ほとんど。この状態では固くて履けなかったんです。
そこでマルオ被服は事務所にあった洗濯機で洗ってから販売した
ところ、反応がよくジーンズが売れるように。
気を良くしたマルオ被服の担当者はクリーニング店に
ジーンズを持ち込み
当時ワイシャツ1枚15円のところ1本30円で洗って
もらうよう依頼。
クリーニング店は引き受けてくれたものの、すぐに
やっぱりできない。と断られるんです。
そりゃそうです。ジーンズは洗えば色が抜けて
洗濯機にインディゴが付いてしまう。
ジーンズを洗った後にはワイシャツなど絶対洗えない
わけです。
困った担当者は自社に大きな洗濯機を買い込み、
自社で洗ってから販売するようになります。
その後この「洗い」という工程は
一つの工程として独立し、洗い工場が児島に誕生
します。
そしてこのジーンズを生産し始めたタイミングで
おそらく、ジーンズ製作工程全てを国内で生産できないか模索が
始まります。
まず綿糸を自前でインディゴに染められないかという依頼が
1965年ごろにカイハラと坂本染工に入ります。
それを受け坂本染工は「デニム自動連続染色機」を
1967年に開発。デニム生地用の糸を染められるように
なります。
カイハラはロープ染色を研究して日本で初めて
ロープ染色の染色機の自社開発に成功します。
時を同じくしてジーンズの付属品も国内で賄えるよう
研究、生産を開始します。
さらに上記のように、
ジーンズを国内産業にしようと
したことには二つの理由があったんだと思います。
一つは
ジーンズに対する期待。
1969年のウッドストックをはじめとしたヒッピー文化は
ジーンズを一大ファッションに押し上げました。
それを目撃していた当時の日本人ジーンズ関係者は
ジーンズは必ず日本でもブームになる。
そして大きな対価をもたらしてくれると確信して
いたんだと思います。
そして二つめ
間近に迫った自由貿易。いわゆる為替の変動相場です。
相場が変動制になれば、円高になるのは予測がつく。
アメリカ製の生地や付属品が安く買えるようになり
内需が拡大しなくなることを懸念し、早くから
ジーンズの大きな需要拡大を予測した国内での
ジーンズ生産体制を確立しておきたかった。
こうして1970年代に入ると本格的に国内生産の準備
に入ります。
1970年ごろにはクラボウとカイハラ、そしてマ
ルオ被服がチームとなり日本初となる純国産生地の
開発を目指します。
このチームは1973年にKD-8という名のついた
日本初の純国産デニム生地を開発に成功。
この生地を使ったBIG JOHNのジーンズが1973年に
国内にリリースされるんです。
この頃には付属品や綿糸も国内で賄えるように。
この1973年こそが全てのパーツや生地も含め
純国産ジーンズの誕生となるわけです。
この頃にはBIG JOHN、BOBSON、BETTY SMITHなどが
ジーンズブランドとして岡山児島に誕生し、縫製工場や
洗い工場、さらには付属を扱うメーカーなどが児島に
集まり出します。
そして児島はジーンズの生産地としての地位を確立することになります。
さらにジーンズが進化するにつれ、
洗い工場は「ジーンズ加工」という新たなジーンズジャンルを
生み出します。
そう。ワンウォッシュだけでなく、
加工ジーンズが少しづつ企画されていくわけです。
ブリーチウォッシュ
ストーンウォッシュ
ケミカルウォッシュ
ダメージ加工
など。
今のジーンズには欠かせない技術が児島に
多く残っているのはそのためです。
こうして
マルオ被服の残した岡山での功績は
三備と呼ばれる井原市に生地工場や
染工所が既にあり、そこに糸の染め、生地を
織ることを依頼。
児島では既にあった縫製工場をジーンズも縫える
縫製工場に変えていった。
新たなジャンル「洗い工場」を誕生させた。
この岡山県の地域の中でほぼ全て完結してしまう
チームを作り上げたことこそ
岡山がジーンズの聖地となった所以なのですね^_^
当時のジーンズ関係者の熱意を考えると
すごいことをたった数年で成し遂げてしまった感が
ありますね。