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常識への反逆 ミスターシービー① 1983東京優駿

ミスターシービー世代は、本当に弱かったのか?

『ミスターシービーが三冠馬になれたのは、世代が弱かったからだ』
そう主張する評論家らは、当時から少なくなかった。
シンボリルドルフが登場すると、その評論家らはルドルフを絶賛し、シービーを扱き下ろすように表現した。
だが実際はどうだったか。
ルドルフの3回の敗北の内、シービー世代が2回、負かしている。またシービー世代はG1を数多く勝利したが、ルドルフの同期はどうか。
『世代別G1勝利を記録するブログ』様から、データをお借りする。

出展引用元・世代別G1勝利を記録するブログ
出展引用元・世代別G1勝利を記録するブログ

ミスターシービーが1年間出走しなかったのを勘案しても、どちらが世代として強かったのかは、圧倒的に、シービーの世代である。この上に、南関東三冠馬である、サンオーイが入るのだから。

テイエムオペラオーとメイショウドトウの関係のような馬は、ルドルフにはいなかった。
結果、数字として見れば、ルドルフ世代が、ルドルフより弱く、シービー世代のように本格化した同期もおらず、『シンボリルドルフが三冠馬になれたのは、世代が弱かったからだ』という論調が出てもおかしくなかったが、一度も、出なかった。うるさ型の評論家筋は、ルドルフがシービーの上でなければ、ならなかったのである。
評論家らは、過去のデータを重視し、自分の見て来た経験を元に、レース結果を予想する。彼らにとって、ミスターシービーの常識破りは、自分らの経験に合致しない走りであり、予想不可能。
だからこそ、ミスターシービーの走りは、玄人筋からは、嫌われたのだ。シンボリルドルフの走りこそ、王道であると。
だからこそシービー陣営は、何としても、ルドルフに勝ちたかったのだ。


幻想の『ダービーポジション』

タカツバキ事件の取り扱い

2018年5月の『スポーツニッポン』紙が、面白い特集をした。

記事の中で、タカツバキ、という競走馬について言及しているのを見て、自分は驚いて、唸った。それを言って大丈夫な程に時間が経過したのかと。
タカツバキとは、1969年の東京優駿・日本ダービーで、単勝支持率44%という記録を持って挑んだ馬だが、当時の出走数28頭が第1コーナーを通過する前に、落馬が確認された。実際のレースは、下の動画でご確認願いたい。

当時のダービーは、30頭立てを超える時もあった。正にお祭り。
おしくらまんじゅう状態で最初のコーナーを回るのだ。記事にもあるが、そんな状態では先行馬が最後まで持たす、第4コーナー前で逆噴射する場合が多い。だからこそのダービーポジションという表現が発生した。
ただ、タービーポジションという単語だけではわかり難いだろうから、ここは、用語としての『絶対勝負権(権ではなく、あるいは圏内の圏)』を使うべきなのだ。元は競輪用語だが、この展開ではこの場所にいないと勝てない、という物。逆に、この絶対勝負権にいないのに勝つのはおかしいという奇妙な批判も起きる。この表現は、わかり難く、八百長をしているのではないかと外部に誤解を受けるとされ、次第に使われなくなった。現在はまず、死語扱いである。
「あそこにいたのに、勝てるとか、おかしいよ。八百長だな」
そう言われるのは、例え冤罪でも、被害がある。
お祭り状態で、普段ならあり得ない頭数で行われる日本ダービーだからこその、ダービーポジションという表現。東京競馬場のすべての2400mレースに適合する話の筈なのに、そんな話になってもいない。結果、一年に一度のレースの為だけの、表現なのだ。
記事にある、タカツバキの落馬あたりから、ダービーポジションと言われ始めたとあるが、よく新聞が、今になってタカツバキを扱ったな、という印象。実しやかに、嫌な噂があるからだ。
それは、タカツバキが、マル抽だったからと言われている。

抽せん馬とは

現在では、JRA育成馬とされ、他の競走馬との区別はないが、昔は抽という字を丸囲いし、マル抽と新聞でも表記されていた。

平たく言えば、取引されなかった売れ残りの馬を、このままでは新馬戦とかの頭数が足りないとかの場合に運営母体が購入し、競走馬として調教した上で、馬主にドラフトしてもらう、という馬。
機会均等と聞こえは良いが、今から五十年も前は、そんな馬に勝たれては、馬主は目利きもできないのかと言われるのが当然だった。
抽せん馬で一番有名なのは、1960年のオークス馬であるスターロッチであろう。
今でも血統を残し、レイパパレの母母父母母母になる。チゲゾーの母母母であるから。京都記念を勝利したライジングウイナーが兄におり、スターロッチは抽せん馬として調教を受けたらあっと驚く状態になっただけだった。
仔よりも子孫の名前が凄まじく、皐月賞馬ハードパージを筆頭に、天皇賞・秋優勝馬サクラユタカオー、二冠馬サクラスターオー、チゲゾー、レイパパレ。スターロッチ系を築いた。
だが、当時は牝馬の評価が今よりも相当低かったのを、まずは加味しなくてはならない。この直近として、1968年のオークスで抽せん馬のルピナスが勝利したが、牡ではないから、という意識があった。そんな中で登場したタカツバキ。
この日本ダービーでの落馬に関しては、抽せん馬を勝たせない為の故意的であったとされる論調があるが、興味を持たれた方がご自分でお調べになり、考えるのが良いだろう。相当長く燻った話で、一次資料のない論調もあるので。
この話は1991年に起きた、イソノルーブル落鉄事件でも注目された。

抽せん馬であるイソノルーブルに勝たせたくなかった云々とされたが、実際は不明。だが、そういう声があったのは事実。それを是ではないかとする、土壌が存在したのも問題ではある。
話が別方向になったが、日本ダービーを勝つ馬は、王道でなければならないという妙な論が60-90年代まで、渦巻いていたのも確かなのだ。
今でこそ、このダービーポジションは、上記記事でもあるが騎手からも忘れ去られた話だ。だが、今でも、その王道を意味として残そうとする研究もある。

自分としては、それは距離とコースで変わるでしょ、とは思うが。
王道が勝つべきであるという論調はどうしても残り、特に日本ダービー、八代競走では顕著だった。
今では鼻で笑う話でしかない。
当時、ミスターシービーは、確実にダービーポジションから外れた競馬をすると見られていたし、自分達の経験が通用しない相手には、勝ってほしくなかった。そんな空気が、当時の論調にあったのを、記憶している馬券師の皆さんも多いだろう。結果はご存知の通りだが。
尚、1969年の日本ダービーは、「厩務員飛び出し事件」という騒動も起こしているので、馬名「ダイシンボルガード」でお調べを。

第50回日本ダービーのトロフィーは何処に

自分の拙作記事において、日本ダービーの際の、ミスターシービーの騎乗に関して触れている。

吉永騎手の4日間の騎乗停止と、トロフィーの剥奪という決着で、ミスターシービーの降着(当時は失格)は、なかった。失格にせよという声もあったが。

拙作記事『天皇賞秋 1988-2002 距離2000mの悪夢』 より

この、失格せよという声は、内部よりも評論家等の外からの声が多かった。確かに乗り方に問題はあったが、そもそも21頭立てというのが当時でも無理筋というのもあり、騎乗停止だけではなく、トロフィーの剥奪で、その声を静めたという側面がある。
ダービーポジションの完全無視による勝利。もちろん、団子状態になった馬群を避けるには、大外から回るしかないのは当然で、力のある馬ならば、できる。その証明を、ミスターシービーはしただけなのだが、それをされては困る者達もいた。当時のダービーポジション至上主義者だ。シービーが失格になれば、その神話は守れる。だが、吉永騎手がトロフィー剥奪まで先に踏み込んだからこそ、その横槍を防いだのだと、自分は考える。
シービーの日本ダービー時に関する抗議話は、何故か翌年のシンボリルドルフの皐月賞後から、聞こえなくなる。同じ話をルドルフがやらかしたからだが、それも拙作記事のご参考を。
では、その剥奪された、第50回東京優駿・日本ダービーのトロフィーは、どこに消えたのか。


吉永がJRAに返却した自らの優勝カップが、美浦トレセン事務所のガラスケースに飾られていた。それを見るたびにサイレントマイノリティー、もの言えぬ騎手の無言の抗議が聞こえてくるようだった。

【佐藤洋一郎・馬に曳かれて半世紀(18)】「妖帝ルドルフ」の秘密 より

トロフィーは美浦トレセン事務所のガラスケースの中に、鎮座していた。ある意味、これは粋な計らいだったのかもしれない。
ただし、現在も飾られているかは、現状残念ながら情報不足である。

ダービーポジションは死語になったが

死語になった理由は、出走馬の頭数が減った事による。
昔は、日本ダービーの登録料は安く、それを支払えば、という枠を買える側面があった。
それを是正したのも、シービーを批評した評論家の面々であった事は、忘れてはならない。どんな話にも、功罪はある。
そして、その最初の殻を壊したのは、ミスターシービーであったのも確か。菊花賞の前に、常識を蹴破っていたのだ
ミスターシービーとシンボリルドルフが初対決となった1984年のジャパンカップは、対決色は少なく、日本製vs諸外国勢が優先された。その時の話は、また続編で。


(終)

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