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イ・チ・モ・ツ  第4話

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 朝の六時、ようやく空が明るくなってきたのを見計らって今日子は車を降りて木や草が生い茂った細い山道へと入っていった。
 標高216メートルの石垣島の屋良部岳。「屋良部岳登山道入り口」と書かれた小さな一枚の看板は一般の観光客ならまず見逃してしまうはずだ。一週間前に地元の小学生達に案内してもらった道――イチモツが一番よく見えるのはどこ? と聞いたところ彼らは屋良部岳の展望台とこの近道を案内してくれた。
 イチモツの取材のためにここ石垣島に来て二週間。今日正午の便で東京に戻らなければいけないのだが、昨日の夕食の後、どうしてもあのイチモツの姿をもう一度見たい! という想いが抑えられなくなってホテルの人にレンタカーを手配してもらい、今朝五時に起きて一人でホテルから車を運転してここへ来てしまった。


 東京武蔵野の上空に突如出現したイチモツの実況中継を今日子がしてから一ヶ月、あのイチモツは誰もが想像もしなかった奇想天外な展開を繰り広げ日本中を、いや、世界中を騒がせていた。
 ひとまずの間東京の大井埠頭に置かれていたイチモツは毎日毎日長く長く伸び続け、このままでは航空機の運行に支障が出たり、万一倒れた際には大きな被害が出ることが予想されるため、石垣島に移されることになった。石垣島に運び込まれたイチモツは島の西部にある御神岬という岬に海に向けて伸びる桟橋のように設置された。この時点でイチモツはすでに一千メートル以上の長さになっていたのだが、ここから更に驚くべき現象が起きた。海水につかったイチモツは水分を吸収したせいで体積が膨張し幅五メートルくらいになり、その伸長は劇的にスピードを増し、毎日毎日もの凄い勢いで北西へと延び続けたのである。

 こうなるとある問題が生じてきた――。

 石垣島の御神岬から伸びているこの物体は果たして島の一部といえるのか……? という問題である。そして更に言えば――
 このイチモツは日本の領土と言えるのか……? という問題だ。
 東シナ海に浮かんだイチモツは毎分約0.35メートル――一日に約500メートルのペースで伸び続けていた。このままのペースで伸び続けると約一年後には石垣島から175キロ離れた尖閣諸島に達することになる。さらにその後もそのペースで伸び続けたとすると約三年後には中国本土にまで達する可能性がある、専門家はそう分析した。

 イチモツが日本の領土を拡大している――この前代未聞の現象に世界中が大騒ぎを始めた。

 「榎本政権がわざわざあのイチモツを石垣島に設置した理由はこのためだったのか」、「よくぞやった」、「素晴らしいアイデアだ」――超タカ派政権と言われる榎本総理の応援団であるネトウヨや保守勢力はこう絶賛し、逆に野党や左派勢力は「アジア諸国との摩擦を引き起こすこのようなやり口は認めるわけにいかない!」と猛批判した。
 「こんなふざけたものは領土とは言えない」――イチモツによって俄かに自国の領土を脅かされることになった中国政府は当然のことながら猛反発し、日中関係は緊張状態となった。

 中国国民の間ではあのイチモツは日本がその化学技術を駆使して意図的に巨大化させたものではないか……? という噂がまことしやかに語られるようになり、これは二十一世紀版の新しい形の侵略戦争だ、日本は再び我が国を侵略しに来た、という声が上がり、北京や上海で大規模な反日デモが起こり、イオンやイトーヨ―カド―など日本のスーパーの窓ガラスが破壊され商品が略奪され、道路を走っている日本車が叩き壊された。

 これに対し日本政府は、あのイチモツはあくまで自然現象であり、石垣島の一部に当たると主張し、よってあのイチモツは国際連合条約に明記された島の定義、自然に形成された陸地であること、水に囲まれていること、高潮時に水没しないこと――これら三つの条件を満たした立派な島であり、日本の領土であることに疑いの余地はない、という見解を示した。
 今のところ日本のマスメディアの論調も真二つに割れていた。

 朝日新聞と東京新聞は日本の右傾化と中国との関係悪化を懸念する社説とコラムを連日掲載し「あれを島だというのは明らかに強引過ぎる」、「アジア諸国との友好を考えればあのイチモツを切断する選択も考えるべきだ」という見解を示し、それに対し読売と産経は「あのイチモツは国際連合条約に明記された島の定義を満たした立派な島である」という政府見解を支持し、それを認めようとしない国々に対しては断固とした姿勢をとるべきであると主張し、一方毎日新聞はイチモツが島であるかどうか国際司法裁判所で決着をつけるべきだ、と提言し、日経新聞はあのイチモツが島だと認められた場合の経済効果を試算していて、東スポはイチモツの先端に河童が出現したと報じていた。
 
 ハブと遭遇しませんように……。そう願いながら木の枝や葉っぱを掻きわけ朝露と植物と土の匂いが混じった山道を今日子は一人歩いた。ホテルの人にはくれぐれもハブに注意するように言われ、ちょっと暑いけどジーパンに少し厚手のカットソーを着てキャップをかぶって来た。こんな早朝に女一人で山道を歩いてるのを見られたら絶対自殺しに来たと思われるだろうな……。我ながらおかしな女だと思う。仕事でもないのに何で朝からこんなことしてるのか? そう聞かれたらちょっと返答に困る。自分でもよく分からない。けど最初に武蔵野の上空でヘリコプターから見た時以来、今日子はあのイチモツにどうしようもないくらい惹きつけられた。今日子の本能に訴えて来るものがあった。だから今回の石垣島への取材も、是非自分に行かせて欲しい、と上司に訴えて来た。

 石垣島にやって来て二週間。今日子は毎日毎日、汐留テレビの夕方のニュース番組「フレッシュニュース」の「今日のイチモツ」のコーナーで、御神岬の灯台からイチモツの様子をカメラの前で生リポートしてきた。時には船に乗って海の上から、時には山の上から、時にはヘリコプターで上空から……。
 二週間にわたる取材でもう満腹っていうくらいイチモツを見たはずなのに、あのイチモツは見飽きるということが全くない。取材を終えてホテルに帰って来て、夕焼けに染まった水平線に向かってまっすぐ伸びていくあのイチモツの姿を見ると、仕事なんてほっぽらかして何処までもその上を走って行きたい――そんな衝動に駆られた。

 最後のリポートを終えた昨日の夜、スタッフとの軽い打ち上げの後、ホテルの部屋のベランダから月明かりに照らされたイチモツを眺めながら、ああ綺麗だな……、でももう今日でお別れか……と感慨にふけっている時、ふと、そういえば夕焼けに浮かぶイチモツの姿も、月明かりに浮かぶイチモツの姿も観たけど、朝日に照らされたイチモツは見なかったな……。あのイチモツが海の上で朝日に照らされてる姿ってどんな感じかな……? と想像し始めたら、ああ、見たい! 絶対見たい! という気持ちを押さえられなくなってしまった。

 やだなーハブが出たら……ビクビクしながら今日子は早足で歩く。別にわざわざこんな所に一人で来なくてもホテルのベランダや屋上からでもイチモツを見ることは出来ると言えば出来るのだが、それはなんだか嫌だった。一人っきりで誰もいない静かな所であのイチモツと会いたかった。それにこれは多分他の人には理解してもらえない感覚なのだろうが、ちゃんと足を使って山道を上って汗を流し苦労した上であのイチモツと対峙しないとあのイチモツに対してフェアな関係を持てないような気がしたのだ。

 背中に背負ったリュックには買って間もない一眼レフカメラが入っている。石垣島行きが決まった日、新宿のヨドバシカメラに行って買ってきた。「カメラのことなんてまったく知らないど素人なんですけどどれがいいですかね?」と店員さんに聞いて、「何を撮りたいんですか?」と聞かれたが「イチモツです」とはさすがに応えられず、まあ景色全般です、と応えて店員さんお勧めの9万8千円のオリンパスのカメラを選んだ。貯金が趣味で普段からスーパーでお肉やお魚を買う時でもちょっとでも安い方を選ぶケチな自分にしては思い切った買い物だ。でも、スマホのカメラとかではなく、あのイチモツをちゃんとしたカメラできれいに撮りたかった。

 ハ―。地元の小学生たちに教えてもらったこのルートを通れば展望台まで10分チョイくらいで行ける。でもその10分が結構ハードだ。太ももの辺りにジワーッと乳酸が溜まってくるのが分かる。こりゃ明日もまた筋肉痛だな。体力には自信があったんだけどやっぱ都会暮らしは駄目だな、これからは地下鉄乗った時はエスカレーターじゃなくて階段使うようにしよう。そう反省しながら歩く。でももう少しだ。もう少しであのイチモツに会える。そう思うと足に力が湧いてくる。よしもう少しだ、そう思って白っぽい岩がむき出しになった斜面を上っている時だった――

 キャッ! イタッ!

 朝露で湿った岩に足を滑らせ仰向けに思いっきりコケた。

 イター。大丈夫かなカメラ? リュックの中のカメラを確かめた。なんせ9万8千円だ。リュックからカメラを取り出しファインダーをのぞいてみた。ああ、大丈夫。ちゃんと電源も入るし撮った写真も再生できるしレンズも壊れてない。転んだのが木の枝と葉っぱの上だったのが良かったみたいだ。

 あー良かった。そう思ってカメラをリュックにしまおうとした時――。ん……なんだこれ……? カメラに赤い液体が付いている。あれ……? 血か……? もしかしてどっか怪我した? そう言えば右のほっぺの辺りがひりひりする、と思って触ってみると指に少し血がついていた。転んだ時に木の枝が顔をかすめて擦りむいたみたいだ。あー、痛いな、もー……。スマホで顔をチェックすると鼻の横に三センチくらいの傷が斜めに付いていた。もー……ヤクザのおじさんみたいじゃない……今日はリポートないけど明日どうしよう……? ファンデーションで隠せるかな……? ティッシュで血を拭いながらスマホをジーパンのポケットにしまおうとした時――あ! 何だこれ! ジーパンの太もも辺りと青と白のボーダーのカットソーの肘の部分にべっとり緑色の汚れが付いていた。葉っぱの上に倒れたせいだろう。あちゃー。ハンカチで拭いてみたが全然落ちない。

 これホテルに戻った時恥ずかしいな……。

 今日子の泊っているホテルには他のテレビ局や新聞社の取材陣も泊っている。この二週間毎日のように顔を合わせているのでみんな会えば一言二言会話を交わす仲だ。彼らのいるロビーをこの格好で歩いてくのは考えただけで恥ずかしい。絶対「どうしたの?」って聞かれるだろうな……。うわー、やだなー……。着替え持ってくるべきだったな……。しかも顔から血出てるし……。

 そんなことを考えながらも今日子は再び黙々と歩き出した。なんか私凄いなー、顔に傷作って、汚れた服で汗まみれになりながらもひたすら歩き続けるなんて……。きっとクワガタ取りに行くのに夢中になってる少年たちってこんな感じなんだろうな……。この間この道を案内してくれた短パンにランニングシャツ姿の少年たちの顔を思い出した。彼らに混じって虫取り網を持って歩く短パンにランニングシャツ姿の自分を想像したらなんだか笑えてきた。三十六歳で少年の心を持った独身女ってどうなのよ……。フフッ。アハッ。笑いながら進んで行く。

 ヨッコイショ、ドッコラショ。やっぱり私は根性あるタイプなんだなぁ……。だから結婚できないのかなぁ……。ヨッコイショ、ドッコラショ。斜面の先に白っぽい大きな空が見えてきた。展望台までもう少しだ。ヨッコイショ、ドッコラショ。

 展望台に辿り着くと、パーッと視界が開けた。
 展望台といっても特に整備されている訳ではなく、空に向かって突き出た大きな岩があるだけなのだが、360度見渡せるこの岩の上に立つとまるでマンガに出てくる仙人になったような気分だ。
 静かに横たわる深いブルーの海。その海に向けて突き出た御神岬。そしてそこにイチモツが浮かんでいた。

 朝日に照らされうっすらと白く海の上にキラキラ輝くイチモツは水平線の先の先まで伸びている。それはまるで天国へと続く道のように見えた。

 凄い……。なんて綺麗なんだろう……。

 思わず今日子は展望台の岩の上にしゃがんだ。イチモツの上を数羽の海鳥が華麗に旋回している。
 思い切り泣きたくなった。思い切り叫びたくなった。

 来て良かった。来て良かった……。

 目からこぼれた涙がほっぺの傷にしみた。
 
 

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 もう七月に入ったのにこの日の石垣島は冷たい雨が降って肌寒かった。岡山剛志はパタゴニアの青いレインウェアをはおって遊覧船のデッキの上に出た。石垣島の青い海にポツポツと雨粒が降り注いでいる。

 七月最初の土曜日。今朝は四時に起きて羽田から六時一〇分発の飛行機に乗って九時半に石垣空港に着くとそのまま空港からタクシーに乗って、あのイチモツを見学出来る遊覧船の乗り場のある石垣港にやって来た。
 今日から土日を含め十日間、早めの夏休みをとってきた。その夏休みの全てを剛志はここ石垣島で過ごすつもりでいた。目的はもちろん、伸一の姿を見る為だ。

 「二丁目の母」と呼ばれる占い師、アキラさんに悩みを相談しに行ったのが約二週間前のこと。そこからの剛志の行動は早かった。
早めの夏休みを申請して伸一のいる石垣島に行くことに決めた。もちろん石垣島に行ったところで厳重な監視下にある伸一に会える訳ではない。最近就航を開始した遊覧船でイチモツを見学するだけだ。だけど不思議なもので石垣島に行く、と決めた時点から剛志の心のスランプは消えて、仕事にも集中出来るようになった。人間行動してれば悩みなんて忘れるものなのかもしれない。立ち止まっているから悩むんだ。そんなことを考えながら剛志は石垣島へと飛び立った。
 
 遊覧船はグヲ―ッという音を出しガソリンの匂いを漂わせながら進んで行く。

「オ―、イッツナイス、ハハッ……」

 剛志の横、アメリカ人だろうか? 小さな男の子と女の子の兄弟が「イチモツTシャツ」という土産売り場に売っているTシャツを着せられてその姿をその子たちの両親が携帯のカメラで撮りながら声を出して笑っていた。
 可愛らしくポーズをとる男の子と女の子のTシャツの胸には島からニョキニョキッとヘビのように伸びたイチモツがお腹から背中へお腹から背中へとグルグルッと身体を二周して胸の辺りでウインクしているイラストがプリントされていた。
 まったく日本人の商魂はたくましい。他にもお土産売り場には「イチモツ最中」という煙突のような形をした最中やイチモツの姿がプリントされた風船や扇子などが売られていた。
 そのうちきっとうちの会社でもイチモツを扱ったゲームやアプリを開発することになるんだろうな……。こっちを見ている女の子と女の子のママに笑みを返しながら剛志は思った。


 遊覧船は進んで行く。
 やがて前方に万里の長城のような灰色の物体が見えてきた。
 いよいよだ。いよいよ伸一との再会だ。そう思うと胸がドキドキしてきた。
「皆様ご覧ください、前方右手に見えるのが御神岬、そこから左手、北西の方向へ向かって真っすく伸びているのがイチモツでございます。レディース&ジェントルメン……」
 船内にアナウンスが流れデッキに客が集まり始め、中国、韓国、タイ、アメリカ、フランス、ブラジル……あちこちの国の言葉が飛び交った。
 遊覧船がゆっくりイチモツに近付いていく。
 イチモツは海面から三メートルくらいの高さがあった。

 あれは貝だろうか? 打ち寄せた波が引いて時々現れるイチモツの下の部分にはびっしりと黒い貝殻のような物がへばりついていてそこから白っぽい海藻のようなものが生えていた。なかなかグロテスクな光景だ。数羽の海鳥がイチモツの上に並んでとまっている。餌をとっているのだろうか、時折足元のイチモツをツンツンと口ばしでつついている。

 ワオー、アンビリーバブル、○×○×……。外国人観光客たちはそれぞれの国の言葉で興奮を表現し写真を撮っている。
 あんなことされて痛くないのだろうか……? 海鳥がイチモツを口ばしでつついているのを見ながら剛志は顔をしかめた。みんな喜んで写真を撮っているが、このイチモツの持ち主と知り合いである自分は彼らのようには楽しい気分にはなれない。

 そう言えばフィリピン近海で台風が発生していると天気予報で言っていた。もしも台風が来たらどうなるのだろう……? この海が荒れてイチモツが伸一の身体もろとも強い波にさらわれてしまったらどうなるのだろう……?
 もしも伸一がイチモツごと流されて中国海軍に捕獲されたりしたら……? 東シナ海を北へ北へと流されて北朝鮮の領海まで辿りついたりしたら……? 想像すると恐ろしかった。人権意識の低い中国や北朝鮮はきっと伸一の身体を解剖したり人体実験をして、どうしてこんなにもイチモツが伸びたのか、その謎の解明を行うだろう。日本政府がどんなに返還を要求しても向こうは応じないはずだ。そうなったら二度と会えない。

 もう二度と……。

 その言葉を頭の中でつぶやいた瞬間、突如自分の身体が巨大な真っ黒な波の渦に飲み込まれ、真っ暗な闇の下へ下へと引き込まれていくような感覚に陥り剛志は思わずしゃがみ込んだ。

「ダディー! ルック!」

 女の子の声が聞こえた。

「前方をご覧ください! トビウオです! トビウオの群れがイチモツの上をジャンプしていきます」

 ワ―ッと歓声が響き、剛志の周りにいた客たちも船の前方に移動していった。
 取り戻したい。伸一をここから取り戻さないと……。
 冷たい雨に打たれるイチモツを見つめながら剛志は一人強くそう思った。



#創作大賞2024  

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