フローター 第4話
ヒーロー
立川のマクドナルドで監視の目をまいてから一時間後、赤坂のホテルの一室で誠はみどりの仲間たち、「週刊真実」の編集長の内田と記者の小池と対面していた。絶対に信頼できる仲間だ、内田と小池についてみどりは誠にそう説明した。
ピンチの後にチャンスあり、とはよく言ったものだ。誠は痴漢で逮捕された時、立川署で誠の取り調べを担当した「山さん」が言っていたことを思い出していた。「どうしても流れを変えたいんだったら仲間を作ることだ。仲間がいないんだったらその仲間が出来るまでじっと待つことだ。今は不本意でもじっと耐えて待つんだ。いつかチャンスが来るさ――」山さんの言ったことは正しかった。チャンスは意外な時にやってくる。たった一人で戦っていた自分に仲間が現れたのだ。
部屋は広いリビングと奥にベッドルームがあるスイートルームだった。リビングに通されソファに座ると挨拶も早々、編集長の内田が本題を切り出してきた。
「みどりから大体の事は聞いていると思いますが、今回我々がやろうとしていることは天下の三橋製薬のみならず、フロートを承認した官僚や政治家をも敵に回すことになるかもしれない。平林さん、それでも証言していただけますか?」
「ええ、覚悟しています。もう腹をくくりました」誠は答えた。
内田は100キロをゆうに超えるほどの体格で笑うと顔がクシャクシャッとなり、数々の政治スキャンダルを暴いてきた「週刊真実」のやり手編集長というよりはテレビのグルメリポーターのような雰囲気を醸し出していた。
「それからしばらくはこの部屋を自由に使って下さい」内田が言った。
「ここをですか?」
「ええ。今頃三橋製薬が必死になって平林さんを探しているでしょう。彼らはあなたがマスコミと接触する事を恐れているはずです。もしかするとまたあなたにちょっかいを出してくる可能性がありますから、しばらく外出は控えた方がいい」
「三橋製薬だけじゃなくて厚労省も一緒になって探しているかもしれませんよ。だから自宅に帰ったりすると危険だ」内田の隣に座った小池が言った。
「厚労省も?」
小池が頷く。小池は巨漢の内田とは対照的に小柄で痩せている。みどりの話によればスクープを連発している敏腕記者らしい。少し頬がこけ、それが鋭い目つきを際立たせている。小池が続けた。
「これは今僕が調べているネタなんだけど、三橋社長は女性タレントを使って厚労省の幹部に性的な接待をさせていた疑惑があるんですよ。だからね、三橋製薬と厚労省はもう一心同体と言っていいぐらい癒着してますね」
三橋なら当然そのくらいのことはやっていてもおかしくない。なにしろ誠自身、グラビアアイドルと一発やらせてやるという三橋が差し出した餌に魅せられてフロートを発明してしまったのだ。
「じゃあ厚労省もすでにフロートの副作用の事実を把握しているんですね」誠は聞いた。
小池が頷く。
「ヒトが強風で飛ばされて怪我をする事故がいっぱい起きている件は厚労省も既に把握しているし、それがフロートの副作用だということもほぼ確信している。でもね、事が事だけに動くに動けない状態みたいですよ、責任問題が起きるから……」
思わず溜め息が出た。また出た。自分とは人種が違う奴らだ。三橋製薬の役員の爺さんたちと同じ奴らだ。この期に及んで危機の回避より自分たちの責任問題の回避を最優先に考える人種だ。
小池が続けた。
「とりあえず奴らはまだそれらの事故がフロートの副作用によるものという確証は得られていない、という理由で当分お得意の先延ばしをするみたいだね」
「このままじゃいけないと分かっているのに誰も責任を取りたくないから引き返せない。なんか太平洋戦争みたいね、全く変わってないわ」みどりが言う。
「腐ってるよな、この国は……」内田が突き出たお腹をパンと叩きながら言った。「薬害エイズに原発事故もそう。何か事が起きてからじゃないと動かないんだよ、政治家も官僚もマスコミも……」
「新聞やテレビは副作用の事は知っているんですか?」
「さあねー……知ってて報道しないのか、知らなくて報道しないのか……どう思うよ? みどりちゃん」内田が腹を叩きながらみどりに聞いた。
「度胸がないのよあいつらは。スポンサーの言いなりだし、官僚叩くフリしながら官僚に情報をもらってるんだから、茶番よね……」みどりが答える。
「けど、いいじゃないか、そういう腰ぬけどもがいるからこそ俺たちの存在意義があるんだから」小池が言う。
「まあ、そうね」みどりがちょっと笑みを浮かべながら答えた。新聞やテレビの奴らは腰ぬけばかりだ――車の中でもみどりはそう語っていた。
大手マスコミの報道姿勢に対するみどりの怒りは相当なもののようで、「アフガンでもイラクでもさ、危ない紛争地帯で取材してんのはみんな私達みたいなフリーのジャーナリストよ、大新聞の社員なんかみんな危ない危ないって帰っちゃうんだから、そのくせジャーナリストの人質事件が起きたりすると、渡航自粛勧告に従わなかった本人が悪い、みたいなこと社説に書いちゃって……頭悪いにもほどがあるわ――」そう不満を吐き捨てていた。
「で、いつ記事にする予定なんでしょうか? 出来るだけ早くした方が……これから台風の季節になるし……」誠は内田に聞いた。
これが一番重要なことだった。出来れば一日も早くフロートの副作用の事実を公表しないと……国民に知らせるのが遅れれば遅れるほど惨事が起こる可能性が高くなる。
「それなんですけどね――」内田がお腹をさすりながらもったいぶった表情でみんなの顔を見まわして言った。「来週号にしようかと思ってます」
「来週号?」
みどりが高い声を上げ、小池は飲んでいたコーヒーをこぼすという大げさなリアクションをみせた。
「ハハッ、わるいわるい。わるかったな。敵を欺くにはまず味方からってな。実はうちの上の方にもいろんなとこから圧力が掛かっててな、一カ月も待ってたらおじゃんになる可能性もある。だから信用するお前たちにも黙ってた」
「でも内田さん、ちょっと早過ぎるでしょ。いくらなんでも来週はない。もうちょっと先に延ばさないと……」小池が言った。
「いやもう決めた。まずフロートの副作用を警告する。フロートの副作用の事実が世間に広まり大騒ぎになった段階でお前がとってきた厚労省のスキャンダル爆弾を投下する」
「でも同時にドーンと出した方が絶対インパクトあるでしょ」小池が言う。
「駄目よ、小池さん、内田さんがこう言いだしたら絶対引かないわよ」
「誠先生の言うようにまずは一刻も早く国民にフロートの副作用の危険性を知らせる必要がある。厚労省のスキャンダルはその次だ」内田が言った。
小池はまだ納得していないようだったが、そんなのお構いなしといった感じで内田はお腹をポンと叩いて言った。
「というわけで、先生、早速インタビューやっちゃいましょうか?」
内田からの質問に答える形で誠はフロートの副作用を発見した経緯、フロートの副作用が起こるメカニズムなどを丁寧に説明し、副作用の事実を公表するよう三橋製薬の幹部に訴えたが全く受け入れられなかったこと、そしてその数日後にやってもいない痴漢の容疑で逮捕されたこと――などを詳細に語った。
みどりは誠がインタビューに応える様子をカメラで撮っている。小池は引き続き厚労省のスキャンダルに関しての取材があるからと言って出掛けて行った。
まるで映画のストーリーの中にいるようだ。誠はそう感じていた。たった4人の人間が政府や大企業を相手に闘いを挑んでいる。
「ちょっとした勇気が世の中を変えることがある」初めて出会った時みどりはそう言った。
確かにそうだ。今の自分の行動は日本を救える。
なんか俺ヒーローみたいだな……。そう思った。
もう自分は失うものは何もない。やるべきことをやらなくては。誠はそんな清らかな使命感に包まれていた。
小池
まずい。展開が早過ぎる……。
エレベーターを降りホテルのロビーへと向かいながら小池は地面がグニャグニャと波を打って曲がっているような居心地の悪さと不安感に襲われていた。中学二年の時、友達と教室の中でキャッチボールをして窓ガラスを割ってしまい、学校一おっかないと恐れられていた担任の山内に謝りに職員室へ行った時のことを思い出した。あの時は山内にほっぺたを二発はたかれ一時間正座させられた。
これから電話する相手――ビルも怒るだろうか……?
ロビーのソファに座り周りに会話が聞かれないことを確認してから電話をかけた。
「もしもし」ビルの声が聞こえた。
「あ、小池です。あの、すいません……来週なんですがフロートの副作用についての記事が発表されそうです」
「……」相手は黙ったままだ。
「出来るだけのことはしてみたんですが……」
「君の失態だな」ビルの冷たい声が聞こえた。
「……すいません」
「副作用の件がこのタイミングでメディアに出ることは許されない。これは君の責任だ」
「申し訳ない……」ビルは反論を好まない。素直に謝っておくのが一番だ。
しばし沈黙が続いた。嫌な沈黙だ。また窓ガラスを割ってしまった時のことを思い出してしまった。
「こちらで対処する。連絡を待ってくれ」ビルの声が聞こえた。
「分かりました」そう言って電話を切った。
フーッと大きな溜め息をついて小池はソファの背もたれに寄り掛かった。ほっぺたをはたかれることもなかったし正座もなかった。電話だから当たり前か……。でも嫌な報告を終え、とりあえず少しホッとした。
小池はCIAの協力者だった。協力者になってくれとCIAに声を掛けられたのは5年前のことだ。
「週刊真実」の記者として大手出版社に勤め年収は700万ほどあり、30代のサラリーマンとしては勝ち組の部類に入ると思うが、家計のやりくりは完全に妻が実権を握っていて、豊洲に買ったマンションのローンが月々20万、小学生の娘2人のダンス教室と塾の月謝が合わせて10万かかり、小池がお小遣いとしてもらえるのは毎月3万円だけだった。学生時代の友達の中には未だに停職につかず年収300万円くらいで結婚も出来ずにいる奴も多く、そいつらに比べれば幸せな家族を持ち、年に二、三回家族旅行にも行けてマイホームと車を持つ自分は確かに恵まれていると思うが、65歳になるまで月3万円の小遣い制が続くのかと思うと俺の人生って一体何なんだろうと思った。
「合コンで知り合った子とその日のうちにやっちゃった」とか、「この間行った風俗でとんでもない地雷踏んじゃってよ」、なんて話をゲラゲラ笑いながらしているアイツらの方がたとえ年収300万でも自分よりもはるかに楽しい人生を謳歌しているように見えた。
もっと遊びたい、もっと自由に使える金が欲しい。その思いから小池は100万円の貯金を元手に当時巷で話題となっていたFX(外国為替証拠金取引)を始めた。元手の100万円に25倍のレバレッジを効かせ取引をするとあっという間に100万の元手が200万になった。こんなにいい金儲けの方法があったのかと思い仕事そっちのけでFXに嵌った。目標は1000万円だった。1000万あれば毎月7~8万円の浪費を10年間続けることが出来る。毎月高級ソープに行ける金額だ。最近女房は子育てに追われめっきり色気が無くなってきた。女房相手ではかつてのようにハッスル出来なくなってきて小池の性欲は溜まる一方だった。俺はまだ35歳なのに男として枯れていいのか? そんなはずないだろう……。そう思った小池はこっそり高級ソープ店のホームページを検索しお気に入りの女の子のランキングベスト10を自分の中で勝手に作り毎月一人ずつ順番に指名していく計画を立てていた。
そんな計画が一気に崩れたのがアメリカでそれまで上昇を続けてきたハイテク株が突然暴落し急激な円高が進行した時のことだった。円相場はたった一日で5円近く上昇する日もあるなど荒れに荒れ、多くの投資家がスッテンテンになった。小池もその例外ではなく最高で250万円あった利益がわずか一カ月で吹き飛び、なんとかそれを取り戻そうとしているうちに逆に1000万円の借金を負う羽目になってしまった……。
なんて俺はバカなんだろう。こんなことが女房にバレたら離婚を切り出されるかもしれない。きっとそうなるだろう。1000万の借金を背負った上に慰謝料を請求され、毎月の給料から子供の養育費を払っていかなければならないかもしれない。マンションを売ったとしてもローンは2000万以上残るだろう。会社に前借りする訳にもいかない。一体俺はどうすればいいんだ? 駅のホームで線路に飛び込むことも考えた。白髪が増え食欲が減り頬がこけ、女房からは一度人間ドックに行ってみた方がいいんじゃない? と言われた。
そんなある日、小池の携帯にある男から電話があった。
「あなたの借金に関する事で話がある」、「こちらが力になれるかもしれない」、「あなたのキャリアを生かした副業をしていただければ」、男はそんな話をした。怪しさ満点の内容だったが、ひょっとしたらこれは天の恵みかもしれない。本当に借金がチャラになるかもしれない、という誘惑に負け男と会う約束をした。後日赤坂のホテルでその男と面会した時はビックリした。あの日流暢な日本語で小池に電話してきた男の正体はビルという名のアメリカ人だった。そしてその後ビルから聞かされた話はさらに驚愕の内容だった。ビルはCIAのエージェントで、小池にCIAの協力者になってほしいというのだ。
ビルが小池に求めてきたのは日本の政界工作だった。要はアメリカの国益にそぐわない態度をとる日本の政治家たちのスキャンダルを「週刊真実」で扱ってほしいというのだ。
報酬は十分用意する――ビルはそう言った。
世論を誘導出来るマスメディアの仕事に携わっていてなおかつ金銭問題を抱えていてCIAの要求通りに動いてくれる可能性が高い人物――そのスクリーニングの結果自分の名前が挙がったのだろう。自分の他にも週刊誌やテレビ、新聞に協力者はいるのか? と聞いてみたところビルは詳しくは語らず「協力者は複数いた方が望ましい」とだけ答えた。こんな話にのっていいのかという思いはなくもなかったが、一時も早く借金の苦しみから解放されたいという気持ちの方がはるかに勝っていて、小池はビルの提案を飲んだ。
CIAの協力者として小池が初めて仕事をしたのは日本とアメリカがFTA(自由貿易協定)に関してガチンコの交渉を行っている最中のことだった。ビルからある男のスキャンダルを翌週発売の「週刊真実」にねじこんでほしいという電話があった。スキャンダルのターゲットは当時の経済再生担当大臣、渡辺仁だった。
この時期、中間選挙が半年後に控えていたアメリカのハワード政権は外交での成果を求めていたため農産品の関税に関して日本に厳しい要求を突き付けていたのだが、これに強硬に反対していたのが財務大臣の渡辺だった。
その甘いマスクと鋭い弁舌で次期総理候補と言われていた渡辺は、いつまでもアメリカの言いなりになっている時代は終わらせるべきだと公言し、もしアメリカがこれ以上無理な要求を突き付けて来るならば、日本がアメリカから購入を予定したF35ステルス戦闘機に関して計画を見直すこともちらつかせ、今までのおとなしい大臣とは違う「サムライ大臣」が現れた、と海外のメディアからも注目されていた。
ある日小池はビルの赤坂のオフィスで一通の封書を受け取った。封書の中に入っていたのは財務大臣の渡辺が腰にバスタオルを巻いただけの姿でベッドに座り隣にいる白人女性の肩に手をまわしてキスしようとしている写真と現金50万円だった。小池は早速編集部にこの写真を持ち帰り編集長の内田を説得し翌週発売の「週刊真実」にこのスキャンダルを掲載することに成功した。これが政界に激震をもたらしたのは言うまでもない。この「週刊真実」発売の数日後、渡辺は大臣辞任に追い込まれ、その後日米貿易協定は終始アメリカのペースで進むことになり、小池はビルから成功報酬としてさらに50万円を受け取った。
あと数回この仕事をやれば借金が返せる――そう思って小池はビルからの仕事を懸命にこなした。政治家のスキャンダル、大手新聞社論説員のスキャンダル、ニュースキャスターのスキャンダル……。小池は次々と大きなスクープを連発した。編集部内では一体小池はどんなネタ元を持っているのか? といぶかしむ声もあったが「週刊真実」の売り上げも伸びたおかげで社員のボーナスも増えたので特に小池の行動を詮索する者はなかった。
借金は確実に減っていった。小池の借金の残高があと200万になった時である。あるテレビ局のディレクターからこの春始まる「スクープ連発! 日本の裏街道」というタイトルのバラエティ番組にレギュラーコメンテーターとして出演をお願いしたいという依頼があった。俺もそんな依頼を受けるほど偉くなったのか……そうだよな、今まで頑張って来たもんな……という感慨が湧いた。番組の担当ディレクターは橋下マナミのような顔をした30代半ばの綺麗な女性だった。打ち合わせを兼ねて何度か飲みに行っている間に親しくなり小池は女性ディレクターと関係を持った。
数日後ビルのオフィスで、また100万円の報酬である政治家のスキャンダルを掲載してほしいと依頼された。その依頼をOKした上で小池はそろそろこの仕事から足を洗いたいと切り出した。一度に100万円のギャラを貰えるおいしい仕事ではあったが、借金返済のめども立ったしテレビ出演という副業も貰えるようになった。なにより小池が一番心配していたのはあまりにスクープを連発したことであらゆる方面に敵を作り過ぎてしまったことだった。自宅や携帯に脅迫めいた電話がかかってくることもあったし、政治家や官僚に取材に行っても「週刊真実」の小池には話すな! というお達しが出ているケースもあってこれでは記者としてやっていけなくなると感じていた。取材は相手との信頼関係がなくては成立しない。
「なるほど……」小池の話を聞いていたビルはおもむろに立ち上がって「ところでちょっとこれを観てほしい」と言ってテレビをつけた。テレビの画面には小池とテレビ局の女性ディレクターとのセックスの一部始終が映っていた……。小池は一瞬にして全てを理解した。死ぬまで自分はCIAの協力者であり続けなければならないことを――
フロートの副作用についての記事は絶対に掲載させるな。それが今回のビルからの指令だった。
指令を受けた時点から頭の中で黄色信号が点滅していた。嫌な予感がした。今回のケースはいろいろな点で今までと違った。今まではビルが用意してきたスキャンダルのネタを編集部に持ち帰ってゴリ押しして掲載すればよかった。しかし今回は逆だ。編集長の内田がやる気になっているのを小池が止めなければならない。これは難しいとビルに言うと「掲載を一、二カ月先に延ばすことが出来ればいい」という返事がきた。
そこで小池は厚労省の幹部に対し三橋製薬がタレントやアイドルを使った性接待を行っていたというスクープを内田に持ち掛け、フロートの副作用だけでなくこの疑惑を同時に記事にすればより大きなスクープになると主張し掲載の先延ばしを計ってきた。この性接待のスクープもビルが用意したものだった。「ちゃんと裏は取れているのか?」と確認したが「君はそんなことは気にしないでいい」とビルに一蹴された。
なんだかよく分からなかったがビルの言われた通り動いていればいい。そう思っていたのだが、みどりの奴があの平林とかいうフロートの発明者を連れてきちゃったもんだから話が急展開してしまった。まったく……みどりの奴め、余計なことをしてくれたもんだ。
もう一つ気になる点があった。今までのビルからの指令はアメリカの国益にそぐわない人物のスキャンダルを掲載することだった。しかし今回の、フロートの副作用についての記事を掲載させるなという指令はアメリカの国益とどうつながっているのかさっぱり分からなかった。何か嫌な予感がする……。
ロビーでは結婚披露宴から帰る客だろうか、顔を赤らめた老人たちが賑やかに談笑している。「ジジおしっこ!」、「おお、そうかそうか、いそげいそげ」と老人が孫をトイレに連れて行く。
のどかな時間。微笑ましい光景。
俺にもいつかあんなふうにのどかな時間を過ごせる日々がくるのだろうか? 先が見えない何とも言えない嫌な予感が生み出す重力を身体に感じながら、小池はソファから立ち上がりロビーを後にした。
事件
「うわ! なに今の?」みどりが驚声を上げた。
ホテルの部屋のリビング。テーブルの上に置かれた大きなケージの中では数匹のマウスが扇風機の送り出す風を受けフワッと身体を浮き上がらせていた。みどりの隣にいる内田はケージに顔を寄せ眼鏡を上げたり下げたりしながらマウスの動きに見入っている。
「もう一回いきます」誠はもう一度手に持った扇風機のスイッチを入れた。
フワッとマウスの身体が浮き上がる。
「凄いなこれは……」内田がつぶやく。冷房は十分過ぎるくらいに効いているのに内田の額には汗が浮かんでいる。
「見た感じは普通のネズミちゃんだけどねー……」みどりが感心しながらそう言った。
マウスは後輩の井上に頼んでこっそり研究室から持ってきてもらった。今朝、ホテルの駐車場に井上はマウスの入ったケージを運んできてくれ、それと一緒に「また痴漢しないようにこれでもどうぞ」、そう言って誠の好きな巨乳アイドルグループ「GHI」の発売されたばかりの写真集を持って来てくれた。いちいち気が利く奴だ。いつかアイツにもアイツの好きな熟女もののDVDのコレクションをプレゼントしなきゃいけないな、そう思った。
聞くところによると井上は「先輩は確かに巨乳好きのむっつりスケベだが、あの人が痴漢なんてするはずがない。あの人にそんな度胸なんてない!」と言って研究所の他の仲間を説得し誠の無実と研究所への復帰を訴える署名活動をしてくれているらしい。その言い回しにはちょっと引っ掛かるところもあったが自分を信じてくれる奴がいるんだと思うと涙が出るほどうれしかった。
「あ、小池さん、これだって、副作用の症状が出たネズミちゃん」
トイレから戻って来た小池にみどりが言った。
「2年間フロートを毎日与え続けたマウスです。このマウスによってフロートの副作用が確認されました」誠が説明する。
「へえー、これか……信じられないな、これと同じ事が人間にも起きるなんて……」
そう言って小池もケージに近付きマウスに見入った。
内田がカメラを三脚にセットし撮影の準備を始める。来週号の「週刊真実」でフロートの副作用の記事を発表するのと一緒に、ユーチューブにこのマウスが風で浮き上がる動画をUPさせ一気に世間の関心を引くというのが内田の戦略らしい。
ピンポーン。部屋のベルが鳴った。
「誰?」
みどりが警戒した表情を浮かべ、レフ板をセットしていた内田も手を止めた。
「いや、大丈夫、大丈夫。僕です、僕……」
そう言って小池がドアに走っていった。なんだろう? と内田とみどりが顔を見合わせているところへ「ちょっと休憩しませんか? カレーライス頼んだんですよ、腹ごしらえ、腹ごしらえ」そう言って小池がホテルのボーイを連れて帰って来た。ボーイがガラガラとルームサービスのワゴンを運んでくる。
「あら、いい匂い、賛成賛成!」
みどりがそう言い終わる前に撮影の準備をしていた内田は120キロの巨漢とは思えないフットワークの良さでワゴンに突進し鍋のふたを開けていた。部屋の中にスパイシーなカレーの匂いが充満する。
「さすが小池ちゃんは気が利くねー。先生もどうぞ、ここのカレー美味いんですよ、レディ・ガガが5杯お代わりしたって噂があるくらい」
「また嘘ばっかり」内田のジョークにみどりが呆れた声を出した。
この三日間、誠は内田に言われた通りに一歩も外に出ずずっと部屋に閉じこもっていた。特にやることもなく退屈だし自然と気が塞いでくる。そんな中で内田とみどりのくだらないやりとりは心を和ませてくれた。
「いいよ、俺がやるから君はルーをよそって」と内田がご飯をよそりながらボーイに言う。いつものことだ。別に気を利かしている訳じゃなく自分の分をたくさん確保するためなのだそうだ。みどりがそう言っていた。
「もうちょっと多めに、うん、いやもうちょっと」みどりは内田にいつものように注文をつけている。その皿には体育会系の男子学生が食べるような山盛りのカレーがよそられていた。
「何見てんの? よく喰う女だなーとか思ってんでしょ」誠に向かってみどりが言った。
「いや、とんでもない……」図星だったので焦った。
「いいじゃないねー、ほーら、君も食べるかい? いい匂いでしょう」
みどりがカレーをスプーンですくってマウスに近付けた。「おっと……あら、ごめん、ちょっとこぼしちゃった、サービスサービス」
みどりがこぼしたカレーにマウスが群がった。「あらあらお腹すいてたのねー、ハハッ」みどりが一人で喋り一人で笑っている。
一緒に過ごして気付いたことだが、みどりは本当によく食べよく笑う。図太い女だ。感心する。さすが戦場で生き抜いてきただけある。そう思った。もし明日世界が滅びる、そんな状況になってもみどりは最後まで好きなものを食べていつものようにケラケラと笑っているんじゃないか? そんな気がした。この女には叶わない。誠は心の底からそう思った。
みどりにはどんなことでも笑い飛ばしてしまうような強さがある。そして圧倒的な生命力を感じる。クヨクヨ悩むのが得意な自分とはまったく違うタイプだ。
「内田さんは特保のウーロン茶でしょ? 先生は水にする? それともウーロン茶?」
「じゃあ、水を」
内田はみどりよりもさらに山盛りのご飯をよそっていた。ボーイが呆れた顔で見ている。内田やみどりのようにどんな状況でも食欲が落ちない、というのはタフな証拠だ。精神的にタフであるためには肉体的にもタフでなきゃならないのだろう。よし、俺も見習って食べるか。そう思った時だった。
ん? 視界の隅で何かが動いた。
「いただきまーす」と言うみどりの声が聞こえる。
「ちょっと待って!」
スプーンを口に運びかけていたみどりに向かって誠は大声で叫んだ。
「なによ、びっくりした―」みどりが驚いた顔でこちらを見ている。内田と小池も、何事か? と言う目で誠を見ている。
「そのまま動かないで!」そう言って誠はケージに近付いた。
ケージの中で数匹のマウスが痙攣していた。痙攣しているマウスの口の周りにはカレーのスープが付いていた。さっきみどりがこぼしたものだ。
毒物だ!
仕事上マウスが毒を投与され死ぬ姿は何度も見てきた。毒物だ。間違いない。でもさっきまでマウスはピンピンしていたから、おそらくみどりがこぼしたカレーの中に何らかの毒物が入っていたのだろう。どんな種類の毒物かは分からない。しかし、マウスがカレーを食べてから1~2分くらいしか経っていないはずだ。これだけ短時間でマウスに症状が現れたということは相当強力な毒物と考えていい。
痙攣していたマウスが動かなくなった。
「何なのこれ?」みどりが聞いた。
「このカレーには強力な毒物が入っています。人を殺せる程度の。誰かが僕らを毒殺しようとした可能性がある。すぐ調べた方がいい」誠は言った。
みどりも内田も小池もキョトンとした顔をしている。
誠の頭の中も情報で混乱していた。
誰かが俺たちを殺そうとしている……カレーの中に毒物……? 毒殺……? 何のために? 誰の命令で?
「何してんの!」突然、みどりが叫んだ。
何事かと思いみどりの視線の先を見てみるとホテルのボーイが何かを手に持ってこちらに向かって構えていた。
ピストルだ。
なんでこの男がピストルを持っているんだろう? そう思った瞬間、男の指がゆっくりと引き金を引くのが見えた。
プシュンという小さな銃声が響くのと、男の身体に小池がタックルをかましたのと、みどりが「危ない!」と叫び誠に飛びかかってきたのはほぼ同時に起きた。
顔のすぐ近くを銃弾がかすめ壁に当たった音が聞こえた。いったい今何が起きているんだろう……? 理解できないまま誠はみどりと一緒に床に倒れこみ頭を強打した。
強力な毒物……? 人を殺せる程度……? 一体どうなっているんだ……?
小池は混乱していた。
予定ではホテルのボーイに扮した男が睡眠薬入りのカレーを部屋にもって来る。それを内田とみどり、平林誠の3人に食べさせ3人が眠ったら拉致して別の場所に連れて行き、しばらくの間軟禁状態にする。ビルからはそう聞いていた。
それが今、平林誠の口から信じがたい言葉が発せられた。
強力な毒物……、人を殺せる……、毒殺……。
小池は瞬時に察した。
ビルは――CIAは――彼らを消そうとしている。ということは――。
チッという舌打ちが聞こえた。ボーイに扮した男を見た。髪をきっちり七三分けし良く出来るビジネスマンというタイプの30歳前後のその男は銃を握っていた。
訳も分からず男にタックルをかました。男と一緒に床に倒れ込む。プシュンという銃声が響いた。平林誠を狙った銃弾は彼には当たらず壁に穴を開けたようだ。
なぜCIAは平林誠を殺す必要があるのか。彼はそんなに重要な人物なのか? しかも「強力な毒物」が入ったカレーなんて食べたら内田もみどりも死んじゃうじゃないか……それも計算のうちなのか? 平林誠だけじゃなく内田もみどりもターゲットなのか? それはアメリカの国益にどう関係するのか――さっぱりわからない。
借金を何とかしたい。ただその思いでCIAに協力した。でもそれはただ政治家や財界人のスキャンダルを記事にするだけの話だった。だからOKした。人を殺す仕事にまで関わるなんて聞いていない。そんなことを聞いていたら協力なんてしなかった。
もしかしたら俺も殺される。そんな恐怖が小池を襲った。奴らは俺も消すつもりだ。だから俺に毒物の事は話さなかった。そうに違いない。立ち上がろうと膝をついた瞬間、腹に衝撃を感じた。
ん?
男が寝そべった姿勢で無表情な顔をしてこちらにむかって銃を構えていた。俺は撃たれたのか? そんなバカなことあるわけないだろ、だって痛みも何も感じていないんだから。
アレ? でもおかしいぞ、天井が見える……部屋が傾いてるのか? ん? もしかして傾いているのは俺の方か? やっぱり撃たれたってことか? 小池! と叫びながら巨漢を揺らし男に突進する内田の姿が見える。フフッ、内田さんラガーマンみたいだな。でも内田さん危ないよ。アイツ銃もってるんだから。内田さんやみどりには悪いことしたな。こんなことになるなんて思ってなかったんだよ。俺は借金を何とかしたかっただけなのにな……。いろいろあってさ、しょうがなかったんだよ……。
「さな」と「りな」。小学6年生と4年生の娘たちの顔が浮かんだ。最近は毎晩家のリビングで2人でダンスの練習をしていた。「不協和音を僕は恐れたりしない……支配したいなら僕を倒してから行けよー……」欅坂46の曲に合わせて一生懸命踊っている姿が浮かんできた。
ごめんな……。
欅坂の曲に合わせ小池の意識はゆっくりとフェードアウトしていった。
「小池!」そう叫ぶ内田の声が聞こえた。
ハッと気が付くと自分の上にみどりが覆いかぶさって苦しそうな顔をしている。
「大丈夫か!」
誠の声にみどりはなんとか頷いた。
みどりの身体を起こし、立ち上がって部屋を見渡す。小池が血を流して倒れている。その横でホテルのボーイの身体に覆いかぶさった内田が男と揉み合っていた。なんとかしなくちゃ! そう思いながら足がすくんだ。次の瞬間、プシュンプシュンと数発の銃声が聞こえ120キロある内田の身体が跳ね上がった。
なんてことしてくれるんだ! 怒りが恐怖を制した。
「ウワ―!」と叫びながら誠は突進し、熱々のカレールーが入った鍋を男の顔に目掛けて叩きつけた。「ギャッ」と声をあげた男の右手を思いきり踏みつけ手からこぼれた銃を払いのけた。よし! と思った瞬間だった。男に足を取られ転ばされた。逃げようとしたがもの凄い力で後ろから首を掴まれた。息が出来なくなった。男の腕が誠の首を締め付けている。苦しくて気が遠くなる。
そりゃ敵う訳ないよな……ケンカなんてしたことがないもんな……。しかも相手はプロだもん。こりゃだめだ……。そう諦めかけた時だった。
プシュンという音が聞こえ、誠の首を絞めつけていたはずの男の腕の力が抜け一気に酸素が肺に流れ込んできた。
横になったまま視線を上げると、銃を構えたみどりが立っていた。
正解
男は床に倒れたまま動かない。死んでいる。
ついさっきまでニコニコ楽しそうに話していた内田と小池も倒れたままピクリとも動かない。脈を確かめてみたが残念ながら死んでいるのは明らかだった。
「駄目だ……」
そう言ってみどりの方へ目をやる。銃を持ったまま立ち尽くしていたみどりはゆっくり頷いた。
「大丈夫か……?」
「え?」
「ケガしてる」誠はみどりの左肩を指した。
みどりの紺色のTシャツの袖口から赤い血が滴っていた。ホテルのボーイに扮した男が銃を撃った時、誠をかばおうとして弾がかすめたのだろう。
「あ……」
興奮していたせいだろう。みどりも今気付いたようだ。
「ちょっと待って」
みどりをソファに座らせ、隣の寝室からベッドのシーツを持って来てそれを破き包帯替わりにして止血をした。
「痛い?」
「うん、少し……ありがとう……上手だね」
「学生時代に応急手当の授業受けたから」
「真面目な生徒だったんだ」
「まあね」そう言ってみどりの顔を見た。平静を装っているが痛みは相当なはずだ。かなり出血している。
「救急車呼ぼうか?」そう言うとみどりは首を横に振った。
「でも早く手当てしないと……」そう言うとまたみどりは首を横に振った。
「大丈夫、我慢出来るから」
みどりは歯を食いしばって痛みをこらえている。とても大丈夫そうには見えないが、何かみどりなりに考えがあるのだろう。
「じゃあとりあえず警察に連絡しよう」そう言ってポケットから携帯を取り出すと、
「ちょっと待って!」みどりが少し大きな声を上げた。
「ん?」その声に驚いてみどりを見る。
「なんか嫌な予感がするの……」倒れて動かなくなった3人の男の身体を見ながらみどりが言う。
「嫌な予感?」
みどりが頷く。死体が3つも転がったこの状況だ。そりゃ嫌な予感しかしないのは当然だろう、そう思っていると、
「どうしてここが分かったんだろう?」みどりがつぶやくように言った。
「え?」
「この男。誠さんを狙いに来たわけでしょ?」
「ああ、多分、そうだろう」
「でも誠さんがここに居ることは私と内田さんと小池さんの3人とマウスを持って来てくれた井上さん、その4人しか知らないはずなのに、なんで分かったんだろう?」
「さあ……でもマウスを持って来る時に井上が後をつけられてた可能性はある、それに電話が盗聴されてた可能性も」
左腕を押さえながらみどりは小さく頷いた。
「この殺し屋を雇ったのは誰だと思う?」みどりが聞く。
「さあ……」
「副作用の事実が表に出て困るのは?」
「三橋製薬か、厚労省……」
「三橋製薬は殺人までやると思う?」
「いや……」
誠は首をひねる。三橋製薬の本社で会った三橋社長や役員の連中の顔を思い浮かべてみた。確かに彼らはあれだけ誠がフロートの副作用の危険性を訴えても、その事実を公表することに後ろ向きだったろくでもない連中だ。しかし、しかし人を殺すことまで計画するとは思えない。
「じゃあ、厚労省は?」みどりが聞く。
「うーん……」再び首をひねって考える。こんなショッキングなことが起きた直後だ。何が何だか訳が分からなくてなかなか頭が回らない。
「フロートの認可にかかわった政治家は?」みどりがまた聞いてくる。腕をケガして殺し屋の男を撃ち殺し、そんなことがあったのにこの女はよく冷静に頭が回るな……誠は感心した。さすが戦場を取材で歩き回ってただけのことはある。胆が据わっている。情けないけどみどりが頼もしく思えた。
「その方が可能性はあるかもしれない」少し考えてから答えた。冷静なみどりを見ていたら、なんだか少し自分も落ち着いて頭が回転してきたような気がする。
「もしこの殺し屋を雇ったのが厚労省や政府の人間だとしたら警察に電話した時点でまた別の殺し屋が来るかもしれないわよ」
「まさか……」
「でもその可能性は否定出来ないでしょう?」
「……」
確かに可能性はなくはない。
「いったんここを離れた方がいいと思う」みどりはそう言って立ち上がった。
「いや、でも……」
やむを得ない状況であったとはいえ、みどりは男を殺している。現場から逃げたら罪に問われるんじゃないか? そう思った誠の頭の中を見透かしたようにみどりが言った。
「私はこの男を殺した。でも正当防衛よ。捕まったとしてもブタ箱に入るだけ。裁判で争えるし。でも警察にも協力者がいて次の殺し屋が来ちゃったらもうアウトよ、命がなくなるわ」
「……」
またブタ箱か……。痴漢の容疑で捕まった時ブタ箱でヤクザのおっさんにいじめられ、謎のパキスタン人から片言の日本語で「あんたスケベねー、スケベねー」と言われた時のことを思い出した。あの時はプライドがズタズタになった。またあの思いをするのか……。そう思いながら目を上げるとみどりがじっとこっちを見つめていた。
力強い目だ。こんな状況で腕に大ケガしてるのに生命力にあふれている。
その目を見ながら思った。ブタ箱に入るのは嫌だ。でも確かにみどりの言うように、死ぬよりましかもしれない。じっと目を見つめてくるみどりに誠は小さく頷いた。
「早くしないと、この男の仲間が来るかもしれない」
みどりはソファに置いてあったバッグをケガをしていない右手でつかんだ。
何が起きているんだか訳が分からない。正解も分からない。ただここに立ち止まっていることが一番危険な気がした。
「分かった」
そう言って誠はみどりと一緒に部屋を出た。
ゲーム
「そうか、分かった。仕方ない」
赤坂のオフィス、昼前にかかってきた電話はマクリーの気分を少々不機嫌にする内容だった。
テレビではヤンキースとレッドソックスの試合が放送されている。9回2アウト2塁の場面でレッドソックスの9番バッターがショートゴロを放ち誰もがこれでゲームセットと思った瞬間そのゴロをヤンキースのショートストップがエラーしセカンドランナーがホームに帰り同点になった。ダッグアウトのヤンキースの監督が頭を抱え放送禁止用語を叫んでベンチを蹴っ飛ばしている。
物事が自分の思い通り運ぶことなど滅多にあるものじゃない。だから指揮官はいつでも冷静でなきゃならない。冷静でない指揮官は無能な指揮官だ。無能な指揮官ほど感情を表に出す。マクリ―はペットボトルのエヴィアンを一口飲んだ。なにも慌てることはない。ゲームにはエラーが付きものだ。そのためにプランB、プランCを用意している。
ヘイ、冷静になれよ、冷静に、悪態をつくヤンキースの監督に向かってマクリ―はそう言い聞かせた。
電話を切り、立ち上がって両手を上にあげストレッチをする。頭を動かすには身体を動かすのが一番だ、じっと座ったままでは最良のアイデアは産まれてこない――CIAに入って間もない頃、よく先輩にそう言い聞かされた。確かにそうだ。毎日欠かさずやっているストレッチが自分の頭も柔軟にしてくれている。壁に手を付けアキレス腱を伸ばしながら窓の外を眺める。赤坂の空をフロートしている何人かのサラリーマンの姿が見えた。ストレッチによって身体中に血が巡り始め、脳がスムーズに走り始めるのを感じた。
再びマクリ―は電話を取った。
「少々計画が変わった。前倒しで実行する、いつでもいけるよう準備しといてくれ」電話の相手に向かって言った。
テレビ画面、ヤンキースのブルペンからリリーフ投手が歩いてきた。
「ここで追加点を与えないことがゲームの重要なポイントになる」そう解説者が言った。
「そうだ、ゲームはこれからだ」
そう言ってマクリ―は電話を切った。