
イ・チ・モ・ツ 第5話
1、
八王子駅南口にあるネットカフェのブース席で吉村太一は高揚していた。
十二時間一五〇〇円のナイトパック料金で入り、リクライニングシートに座り夜通しAVを観て、マンガを読みながら2ちゃんねるに書き込みをするのが太一の土曜日の過ごし方だった。この日はいつも食べる六五〇円の炭火焼鳥丼とミニうどんのセットに加えちょっと奮発して四〇〇円もする「よくばりパンケーキ」を注文し、いつもよりちょっと贅沢なディナーをお盆に載せブース席に戻った。
「イチモツは日本の領土」のスレッドには今日も沢山の書き込みがあげられていた。
735:2025/8/23(土)21:19:35
で結局いつなのよ? そのデモは
736:2025/8/23(土)21:20:05
来月の17日、3時かららしい
737:2025/8/23(土)21:20:45
俺らもやろうよデモ
738:2025/8/23(土)21:21:15
ネトウヨはバカだからデモの申請の仕方も知らないW
739:2025/8/23(土)21:22:40
<<738在日は黙ってろ
炭火焼鳥丼をかきこみながら、太一もすかさず書き込む。
俺は絶対行く。反日売国左翼の奴らをぶちのめす
今日の掲示板の書き込みは太一を興奮させた。
来月、一七日の日曜日に「平和を愛する会」とかいう左翼系の団体が国会前でイチモツを使って領土拡大を狙う日本政府に対する抗議デモ「反イチモツデモ」を行う予定だ――そんな情報を誰かが書き込んだ。その瞬間からネトウヨと呼ばれる連中が集まるこの掲示板は荒れに荒れていた。
「ふざけんな」、「こ○せ!」、「反日在日野郎は半島へ帰れ」そんな書き込みが次々とあげられ、「反イチモツデモ」に乱入して反日の奴らを叩きのめしてやろうという過激な主張をする奴が現れ、それに同調する書き込みが次々とあげられ、「でも暴力はよくない」とコメントした奴が「お前在日だろう」、「死ね」、「日本から出てけ」とメチャクチャに叩かれ、話はどんどん具体的に発展し「デモ当日二時四五分に永田町駅一番出口付近に集合」、「そこから徒歩で国会に向かい反イチモツデモの奴らと対決」、「金属バットや武器の類、投石は禁止、ケンカは自由、あくまで自己責任で」――書き込みの量はどんどん増え、俺も行く、俺も行く、と日本全国のネトウヨたちが盛り上がっていた。
太一もネトウヨと呼ばれる人間の一人だった。太一は中国と韓国が大嫌いだった。中国のGDPが日本を抜いたとか、韓国のサムスン電子が絶好調とか、中国人観光客が秋葉原で家電製品を爆買いしている、なんていうニュースを目にすると無性に腹が立った。こいつらのせいで日本の雇用環境はズタズタになったんだ。こいつらが俺らの富を奪っている。そんな思いがあった。
太一は大学を卒業したもののちょうどその頃はリーマンショックとギリシャの財政危機により世界経済がどん底にあった時期で日本企業はどこも新規採用を絞っていたため就職活動はまったく上手くいかず、全部で21社を受けて全部不採用が決定した時には自分の全人格を否定されたような気分になり二度とこんなことやるもんかと思い就職するのを諦め、三十五歳になる今までずっとフリーター生活を続けていた。
引っ越し、ガソリンスタンド、居酒屋、ティッシュ配り、ポスティング、コンビニ店員、ピザのデリバリー……などいろんなアルバイトを転々とし、五年前から今の仕事――京王線の駅のトイレ清掃のアルバイトをしている。
世間の人から見ればのんびり気楽にやっているように見えるかもしれないが、駅のトイレ清掃はやってみると結構ストレスが溜まる。まずゲロとウンコ。奴らとの闘いは毎日毎日果てしなく続く。もうずいぶん慣れたとはいえ奴らに再会する度にテンションが下がる。
まあ、だけどゲロとウンコはまだ物を言わないだけいい。清掃員のストレスの一番の原因はトイレの利用客とのトラブルだった。特に朝などは急いでいるサラリーマンが多い。みんな気が立っている。イライラしている。ウンコを我慢していて掛け込んでくる客もいる。そんな時にトイレが清掃中だったりすると彼らのイライラは清掃員にぶつけられる。チェッ、チェッ、チェッ……なんだよこんな時間にやるんじゃねーよ……チェッ、チェッ……なんだよ床ビチャビチャじゃねーかよ……チェッ、早くやれよ、ホラあそこウンコ飛び散ってんだよ……チェッ、チェッ、チェッ……。一日に三十回は舌打ちを聞く。
そんな客とケンカして辞めていったバイトを太一は今まで二人見ていた。一人は客と殴り合いになり、一人は落ちていたウンコを客に投げつけてクビになった。
太一も何度も客と言い争いになった事がある。今まではキレる寸前でなんとかグッとこらえてきたが、自分もいつウンコを客の顔に投げつけるか分からない。まあ、でも、そん時はそん時だ。また新しいバイトを始めればいい。
828:2025/8/23(土)21:25:24
イチモツって満潮時に沈んでないの?
829:2025/8/23(土)21:26:34
お前ニュース見てないのか? イチモツは24時間浮かんだ状態。
だからこれ日本の領土、はいお仕舞い!
830:2025/8/23(土)21:26:41
俺はイチモツ巨大化させるために毎日風呂でお湯と冷水を交互に掛けて
る
炭火焼鳥丼の汁が沁み込んだ最後のご飯粒を口に放り込んでから太一は書き込む。
このイチモツは元寇の時吹いた「神風」以来の奇跡だ。日本はこの奇跡
を生かすべき。尖閣を死守し、東シナ海の資源を確保すべきだ。
スカッとしたい。それが太一の気分だった。
自分は四年制のそこそこのレベルの大学を卒業したのにたまたま就職活動の時に運悪く不景気だったから就職も出来ずに家賃五万のぼろいアパートに住んで毎日駅のトイレのゲロとウンコを掃除する世間から負け組と言われる生活を送っている。そんなフラストレーションをスカッと解消させてくれるニュースや出来事を太一は求めていた。
だからサッカーのワールドカップで日本代表の試合がある日にはわざわざ自宅のある八王子から京王線と井の頭線を乗り継いで渋谷に行き日本の勝利が伝わるとスクランブル交差点で見知らぬ人たちと何度もハイタッチをした。サッカーには大して興味がないし試合も見てないし選手の名前も半分くらいしか知らなかったがそんなことは全く関係ない。あの高揚感はなかなかない。
中国や韓国に対して甘い発言をする在日タレントや、太一たちネトウヨのヒーローである榎本総理を批判する左翼系文化人たちを徹底的に攻撃して相手のブログを炎上させたり謝罪に追い込んだりするのもこの上なく爽快だった。
この間は台場テレビの「新大久保韓流グルメ食べ尽くしツアー」という番組に出演し「映画もグルメもわたし韓流大好き」と番組の最初から最後まで韓国文化を絶賛し、挙句の果てに「(日本と韓国とは)いろいろあるけど仲良くやっていった方が絶対いいですよね」と発言した元アイドルでママタレの春日アイコのブログを、「在日は出てけ」、「半島へ帰れ」、「半島工作員は強制送還」と日本中のネトウヨの仲間たちみんなで総攻撃して炎上させ、それでもなお「私は在日ではありません。パパもママも日本人です。でも国籍で人を差別するバカなネトウヨには負けません。韓流好きもやめないからねー、ベーだ!」と強気で抵抗してきた春日アイコの弱点探しを仲間たち全員で総力を挙げて始め、今年の正月、春日アイコが自身のブログに「家族で実家までドライブ中」と書いて掲載した写真で春日アイコの五歳になる娘がチャイルドシートに座っておらず、なおかつUPされていたどの写真を見ても五人乗りのその車にチャイルドシートが設置されている様子が見当たらない――という疑惑を仲間の一人が持ちだしてきて、そこから「法令違反だ」、「日本の法律守れない反日朝鮮人は祖国へ帰れ!」と猛攻撃が始まり、当時春日アイコは軽自動車のテレビCMに出演していたのだが、その自動車会社に対し「あんな法令違反を堂々とブログで推奨するタレントをCMに起用するのか!」、「あんたらの会社は安全軽視か!」と自動車会社のHPとツイッタ―を炎上させ、ついには春日アイコをCM降板、ブログでの謝罪、タレント活動一時停止へと追い込んだ。
この一連の騒動は「恐るべしネトウヨの破壊力」――などと週刊誌などでも取り上げられ、太一らネトウヨは掲示板で高らかに勝利宣言を行った。
中国韓国に対し強気な発言をする政治家たちも太一にとっては気分をスカッとさせてくれる重要なサプリメントだった。もう亡くなってしまったが中国人韓国人の事を「三国人」と呼び、日本人の自虐史観や日本政府の弱腰外交を厳しく批判した石原慎太郎は太一にとってカリスマ的存在だった。
そしてもう一人、太一たちネトウヨのスーパーヒーロー、榎本総理が去年も今年も靖国神社を参拝した時にはわざわざバイトを休んで靖国神社に行き、特攻服を着た見ず知らずの右翼のおじさんたちと握手し一緒に万歳をした。
928:2025/8/23(土)21:45:42
イチモツを切り離すべきだとか言ってる左翼系のコメンテーターってな
んなの? そんな残酷なことよく言えるな。普段は人権人権って騒いで
るくせに、人権侵害も甚だしいだろ
929:2025/8/23(土)21:46:14
もう一本巨大化したイチモツがあれば北方領土に向けるべきだな。寒さ
で凍っちゃうかも知れんがW
930:2025/8/23(土)21:46:43
榎本総理を軍国主義者とか決めつけてる左翼系マスゴミは全部死ね
太一も書き込む。
マスゴミはバカで世論迎合が得意な卑怯者のクズの集まり。今は榎本総
理を批判してるが、そのうちコロッと意見を変えるはず。
電車から降りる時こちらが降りる前に無理矢理乗り込んでくるおばちゃんや、昔は今の若者はだらしないのが多いからフリーターが増加してる、みたいなことを言ってたくせに今ではコロッと変わって非正規社員の給料を上げない大企業は悪だとか言ってるバカなコメンテーターや、テレビのバラエティ番組で太一の給料じゃ手が出せないような高級ステーキや寿司をバクバク食っている大食い自慢のギャルタレントなど――世の中のあらゆるものに対してイライラしていた太一にとってあのイチモツのニュースはこれ以上ないサプリメントになった。
あのイチモツが最初武蔵野の大地に登場した時は不思議で奇妙な事件、くらいにしか思っていなかったのだが、あれが石垣島に運ばれてから事態は一変した。
毎日毎日、あのイチモツがもの凄い勢いで日本の領土を拡大しているという驚くべき現象は太一を含めた多くの右翼や保守派やネトウヨと呼ばれる者たちの心を高揚させた。
太一は家賃五万のワンルームの押し入れのふすまに拡大コピーした先島諸島の地図を貼り付け、毎晩今日はここまで伸びたぞ、と定規で赤い線を引っ張って印をつけた。その気持ちは小学生の頃、大好きだったジャイアンツの松井秀喜のホームランを期待していた時の気持ちと似ていた。このままのペースでいけばいったい何本打つんだろう? 王さんの記録を抜くんじゃないか? とあの頃は毎日ワクワクしながら松井の打席を楽しみに待っていた。あの時以来、久々に味わうワクワク感だ。
972:2025/8/23(土)21:49:24
あれを「ふざけたもの」と言う中国にションベンぶっかけてやればいい
973:2025/8/23(土)21:50:35
あれは日本の象徴だ
974:2025/8/23(土)21:51:44
いや精子発射しちゃえばいいんだよW
太一は書き込む。
みんなで時代を動かそう。平和ボケした日本を変えよう!
掲示板に熱い思いを書き込みながら、太一は何年か前にNHKで再放送していた七十年安保闘争をテーマにした「戦後五〇年その時日本は」というドキュメンタリーを思い出していた。バリケードの中で決起集会を行う学生たち……、火炎瓶を投げ警察と対峙する若者たち……。それらの映像は太一の憧れだった。自分もあの時代に居たかった。自分もあの時代に生まれていれば……そう強く思った。当時の若者は左翼思想で今の自分は右寄りだが、そういうことはあまり関係なかった。ただ暴力に対する漠然とした憧れが太一の中にあった。
目の前にいる敵に向かって思い切り石を投げつけたい。思いきり叫びたい、燃え盛る炎で敵を倒したい。けど残念ながら自分たちの時代にははっきりとした敵がいなかった。石を投げつける相手がいなかった。就職出来なかったのは誰のせいなのか、毎日トイレのゲロとウンコを掃除するハメになったのはいったいどいつのせいなのか……、それがよく分からない。
駅のトイレで、こんな時間に掃除なんかするなよ、チェッ、チェッ、チェッと舌打ちしていく客は確かに敵だ。が、敵としては小さ過ぎる。そんな奴らにウンコを投げつけたとしてもNHKのドキュメンタリーで取り上げられることはないだろう。単に頭のおかしい清掃員がやらかした痛い事件、その程度の扱いで終わるはずだ。俺が向かっていきたいのはもっと巨大な敵だ。俺がやらかしたいのは時代を動かすような事件だ。トイレの客にウンコを投げつけるようなちっぽけな事件ではない。
今ようやくそのチャンスが思いがけない形で来た。俺たちの時代がやって来た。「反イチモツデモ」に乱入しデモに参加してるナヨナヨした奴らをぶっ倒してやるんだ。
来月一七日、国会前には沢山のマスコミが取材に来るだろう。日本の政治を左右するような何かが起こるかもしれない。いや、きっと起こる。そんな予感がしていた。そして自分がその当事者になれる。自分が主役になれる。あの「戦後五〇年その時日本は」に映っていた若者たちのように……。
狭いブース席で「よくばりパンケーキ」を食べながら、太一はそんな予感に興奮していた。
2、
錦糸町ウインズ東館の裏にある江東寺という小さな小さなお寺で横山亜樹は賽銭箱にチャリンと10円玉を投げ込んで手を合わせてお願いをしていた。
お客さんが来ますように……。
亜樹はここ錦糸町にある「人妻カーニバル」というホテヘルで働いていた。人妻専門店だが人妻じゃない子も沢山働いている。亜樹も人妻ではない。正確に言うと人妻だった。
亜樹は新潟県の佐渡ヶ島の出身で、高校を卒業して東京に出て来て看護学校に通い、看護助手として働きながら看護師の資格を取った。その頃に合コンで出会った前の旦那と23才で結婚して24才で長男が、26才の時に次男が生まれて、2年前、28才の時に離婚した。
別れた旦那は造園業の仕事をしていて、仕事は真面目にする方だしまあ悪い人ではなかったんだけど、とにかく子育てに関して全く無関心で非協力的でパチンコ狂いの人だった。亜樹が出産してから初めての子育てで体力的にも精神的にもきつい時、「2時間でいいからこの子見ててくれない?」と言ったら「今日ダメなんだよ新台入荷だから」と言ってさっさとパチンコ屋に出掛けてしまったり、子供の夜泣きがひどくて寝不足続きで、ご飯の後片付けとか洗いものくらい手伝ってくれたらいいのにな……と思っても寝っころがってテレビを見ているだけだったり、ゴ――ルデンウィークやお盆の時期、看護師をやっている亜樹の仕事と旦那の休みとが重なる日が合って、たまには家族でどっか旅行でも行こうよといっても、「ああ……」と気のない返事をするだけで結局休みの日もパチンコ屋に一人入り浸っていたり……。そうやって段々小さな不満が溜まっていった頃、旦那がパチンコで負けた金額を取り戻そうと消費者金融で金を借り、その金でFXとかいうドルを売ったり買ったりするマネーゲームに費やして300万円以上の借金があったことが発覚して、結局それは旦那の実家が肩代わりしてくれたのだが、ああ、ダメだ、この人といたら将来絶対不幸になると思い、子供たちは亜樹が引き取ることを条件に離婚した。
元々金銭に関してはとことんだらしない旦那だったので期待してはいなかったのだが、別れてから月五万払うようにと約束していた養育費が支払われることは一度もなく、子供たち二人を養うために亜樹は看護師の仕事を続けていたのだけれど、看護師の仕事は夜勤があって子育てと両立させるのは体力的にとてもきつかった。
亜樹は小学校・中学校とバレーボールをやっていて、体力にも自信があったし根性もある方だと思っていたけど、正直子育てがこんなに大変なものだとは思わなかった。看護師の仕事は大変は大変だけどある程度要領をつかんでしまえば何とかなるし、あと何時間で終わりだとか、今日が終われば明日から連休だ! とか思うと、よし、頑張ろうと思えたりする。
だけど子育てはそうはいかない。エンドレスだ。おまけに自分のペースが通用しない。自分の体調の良しあしにかかわらず子供は夜泣きをするし、兄弟ゲンカを始めたり、グズり始めたりする。仕事から帰って来て、ああ、ご飯の支度するの面倒だなぁ……と思いながらやっとこさ作って上げたのに、ご飯の途中でまた兄弟ゲンカが始まって、せっかく作ってあげたお味噌汁を絨毯の上にこぼされた時には2人ともはっ倒してやろうかと思うくらい腹が立った。
子供を虐待した親が逮捕された、なんてニュースをテレビで見ると、以前だったら、何てことするんだろ、ひどい親だなぁ……って思っていたけどそういう行動に走っちゃう親の気持ちもちょっと分かるようになった。
次男のユウトには悪いけど、ああ、なんで2人も産んじゃったのかなぁ……1人で終わりにしとけば良かったなぁ……って思うことがある。特にお兄ちゃんのタクトの方は認可保育園に入れたのだけど弟のユウトは入れずに仕方なく無認可の保育園に入れて、そうなると月に6万円の保育料がかかる。ちょっと前までは幼児教育無償化制度というのがあって無認可でも半分くらいは国からの補助が出たのだけれど、国の財政状況が悪くなったからとかいう理由で去年から打ち切られてしまった。
送り迎えも大変だ。お兄ちゃんと弟と別々の所に行かなきゃならず、朝忙しい時に兄弟ゲンカが始まって泣き出した弟のユウトが「ほいくえんいきたくない」とかグズッたりすると「何言ってんの早くしなさい!」と、近所に響き渡るくらいの大声で怒鳴ってさらに泣いたりして、そんなことが続くと、ああ、これ私マズイ感じのスパイラルに入りつつあるのかなぁ……? このまま2人の息子が成人するまで頑張れるかなぁ……? と思ったりしてちょっと悩んでいた時、同じ病院に勤めていて仲良くなった亜樹より1つ年下のサキちゃんという非常勤の看護師の子から「実はね私風俗のバイトしてるんです」という話を聞いた。
ええ! こんな子が風俗を! と、驚くくらいサキちゃんはフツ―の女の子で明るくて元気良くて、両親や彼氏が借金まみれで大変だからやむなく風俗に身を落とした――みたいな亜樹が風俗嬢に対して持っていた勝手なイメージとはかけ離れていて、悲壮感なんか全然なくて、また後で知ったことなんだけど、サキちゃんは実は新しい女の子を店に紹介すると紹介料としてお店から3万円貰えるシステムだったらしくて、亜樹にお店は本番は無しの口と素股でいかせるサービスで、値段は60分コースで1万6千円、90分で2万2千円、120分で2万8千円で、女の子の取り分は60分で9千円、90分で1万3500円、120分で1万8千円となっている…………とか詳しくお店のことを話してきて、「亜樹さんもし興味あったらちょっとだけ1日だけでも体験入店してみません?」、 「全然思ってるより楽だから……」、「介護の仕事だと思ってやれば大丈夫」、「亜樹さんだったら絶対稼げますよ」と誘われ、それに加えて、「わたしの常連さんの中に一人凄いダンディで言葉攻めが上手い人がいてその人と初めてした時いろんなとこいじられたり舐められたりしながら耳元でHな言葉いっぱい言われて、わたし恥ずかしいけど人生初の潮吹きしちゃったんですよ……」なんて赤裸々な告白をされて、亜樹も夫と別れてからそっちの方は随分の間ご無沙汰だったので、ホテルの部屋でHが上手なダンディなお客さんにいっぱい言葉攻めをされていかされちゃう自分の姿を毎晩想像してムラムラするようになってしまい、ちょっとだけ、一回だけ体験入店してみるか、と思い去年からこの店で働くことになった。
お店には「リカ」という源氏名で出た。お店の人が適当に決めてくれた名前だった。
風俗の仕事にもちろん抵抗はあったがやってみるとすぐに慣れた。そこは他人の身体に触れることが当たり前の看護師の仕事を長くやって来たことが幸いしたのかもしれない。最初の頃はお客さんの中にはすっごく怖い人がいたり、乱暴な人が来たり、キモい人が来たりするんじゃないか……とビクビクしていたが、今のところ幸運なことにごくごくフツ―なお客さんばかりだし、たま―に体臭や口臭のきつい人とかもいるけどこのお店はちゃんとシャワーを浴びてうがいをしてからプレーに入るのでそれも我慢できた。
朝8時に子供を保育園に預けてから9時にお店に出勤し夕方の5時まで、少ない日でも2人、多い日は5~6人のお客さんの相手をして本指名が多い時は指名料もプラスされて1日で6万円くらい稼げた。
ただ子供たちが大きくなってからもこの仕事を続けるのは嫌だったので、とりあえず貯金が2千万貯まったら辞めよう、そう決めていた。それだけ貯めれば子供を塾や大学に行かせるお金も何とかなるだろうし、2千万貯まる頃には子供たちも大きくなっているので今ほど手がかかることもない。日々の生活費は看護師の仕事で稼げばいい。だから看護師としての腕がなまらないように週に2日は非常勤で看護師の仕事も続けていた。
お店のホームページのプロフィールには「未経験スレンダー美女降臨!」とか大層な謳い文句を書かれちゃっていて恥ずかしいのだが亜樹は特別美人という訳ではない。それでも毎月指名してくれる常連さんが3人いて、みんな「リカちゃんかわいいね」、「かわいいね」、と褒めてくれて、やっぱりそれは一人の女性として凄く嬉しいことで、結婚して子供を産んでからすっかり忘れかけてた「モテ気分」を味わえることで精神的にも凄く満たされて、サキちゃんが言ってたようにたまーにHがもの凄い上手なお客さんがいたりして自分でもびっくりするくらいヌレちゃったりすることがあって肉体的にも満たされて、金銭的にも余裕が出来たので今までだったらちょっと手が出しにくかった一万円以上するジャケットを買って着たりすると保育園の送り迎えもなんだかちょっと気分良く出来て凄く充実した日々を過ごすことが出来ていた。
しかし、そんな亜樹に最近困ったことが起きていた――。
客が来ないのである……。
3カ月くらい前からだろうか、最近なんだか少しずつ指名が減って来たなぁ……と感じ、以前は暇な日でも1人か2人の指名は必ずあったのだが、最近は指名ゼロで朝から夕方まで1日中待機なんていう日がちょくちょくあるようになった。
最初は自分の接客態度になにか問題があるのかなぁ……? とか、やっぱりお店のホームページで顔だし写真を載せてないのがダメなのかなぁ……? 病気が怖くて避けていたオプションの口内発射つけなきゃ駄目なのかな……? 他の子がやってるみたいにたまには本番やらせてあげなきゃダメなのかなぁ……? とか色々考えたりしたのだが、よく理由が分からない。
今朝も今のところまだ指名が入ったという店からの連絡はラインに入っていなかった。
パンパン。「今日は指名がありますように」
本堂にお参りした後その脇にあるこれまた小さな神社にもう一度お願いをして亜樹は店の待機所へと向かった。
お店が用意してくれている待機所は、錦糸町のホテル街にほど近い12階建てのマンションの7階の一室にある。部屋は20畳くらいの広さがあってそのスペースがマンガ喫茶のように全部で15個の小さなブースに分けられている。女の子同士のケンカやトラブルを防ぐため個人待機出来るようにこうしているらしい。
エレベータを降り鍵のかかっていない無防備な玄関を抜け、亜樹がそーっと入って行くと部屋は冷房がキンキンにかかっていて入り口近くで亜樹より若いギャルっぽい茶髪の2人の女の子がブースから椅子を出して「マジありえないんだけど、ヤバくなーい?」と、大きな声でお喋りをしていて、亜樹が「すいません、失礼します」と言ってその横をすり抜けるように通るとチラッとこちらを品定めするような目で見てまたお喋りを始めた。
ああ、やっぱり慣れないなぁ、待機所は……。
実は亜樹がこの待機所に来るのは今日でまだ3回目だった。やっぱり風俗嬢にはガラの悪い子もいるだろうし、そういう子とトラブルになったりするのは嫌だったし、万が一知り合いのママ友とバッタリなんてハプニングはゴメンだったし、知り合いの知り合いに顔を見られて風俗で働いていることがご近所にバレてしまう、なんてのも絶対に嫌だったので、これまでは待機中は喫茶店やマンガ喫茶などで時間を潰していた。でも最近あまりにも指名が減って収入も減ってしまい、そうなると今までは全然気にならなかった喫茶店の500円のコーヒー代や、3時間810円というマンガ喫茶の料金ももったいなく思えてきて、余計な出費は出来るだけ控えようと思い、先週から無料で使えるこの部屋で待機することにした。
待機所にはなんとなく聴いたことのあるようなJPOPが小さい音で流れていて、その音と同じくらいの音量で天井のエアコンが稼働している。窓はあるのだけどあまり換気をしていないのだろう。奥の部屋でタバコを吸ってる子たちが吐き出すタバコの匂いとそれぞれの女の子たちがつけた香水の匂いやシャンプーの香りやらがミックスしていて正直長い時間ここにいると健康に悪そうだなぁと思う。出来るだけ空気が良さそうな窓のそばの席を選んで亜樹は腰を下ろした。ここなら空気が悪いなぁと思った時はちょっとだけ窓を開ければいい。1センチくらいなら窓を開けても気付かれないだろう。
さて、今日も暇なのかな……? 何をして暇をつぶそうかな……? あんまりここに長い時間居たくないから指名が入って欲しいなぁ……。そんなことを考えながらとりあえずスマホでインスタを見ていると後ろからさっきの女の子たちの喋り声が聞こえてきた。
「マナミさんいるじゃん、昨日夕方から夜10時くらいまでずっとここ居たんだよ」
「うっそ、まじで?」
「マナミさんですらお茶ひいてんだよ、うちらに指名くる訳なくない?」
「まじヤバくない? ウチの店」
あんまり他の女の子の事を大声で話すのはマナー違反でしょ……と思いつつも、「マナミさん」というワードに亜樹の耳は敏感に反応した。
あのマナミさんでさえ客が減ってるのか……。
マナミさんというのはこの店の指名ランキングでいつも不動のトップで風俗情報サイトなんかでもグラビアをやったりして業界の中ではちょっとした有名人だ。亜樹も何度かお店の近くで見かけたことがあるが、美人でオシャレで見るからに高そうなバッグを持って、高そうなワンピースを着て髪も綺麗にウェーブをかけていて、すれ違う男性は大体振り返るようなフェロモンをまき散らしていた。
あの人でさえ指名がつかないなら私なんかが暇になるのは当たり前だ、私の接客姿勢に何か問題がった訳じゃないんだ……と一瞬ホッとしたが、いや、ダメでしょそれじゃ、この先も当分稼げない日が続くってことじゃない、と思い直した。
稼げると思って看護師の仕事をわざわざ常勤から非常勤に変えてこの仕事を始めたのに、このままじゃまた常勤で働ける病院を探さなきゃならない。
常勤か……。ハー……。思わず溜め息が出た。
常勤となると大体どこの病院でも週に1~2回は夜勤を担当しなきゃならない。
旦那と別れてから一年ちょっとの間、夜勤をしながら子育てをしていた時のことが頭に蘇った。夜勤は本当に大変だ。夜勤から帰って子供を保育園に迎えに行って子供に朝ご飯を作って「ママ眠いから一緒に寝ようね」と言っても子供は言うこと聞かずまた兄弟ゲンカが始まってほとんど一睡も出来ずにイライラも限界に来て「もうやめなさい!」って子供たちに怒鳴り散らす――。ああ、またあの辛い思いをしなきゃいけないのか……、と思うと心と身体にじわじわとイヤ―な重力を感じた。
それに託児所のある病院に勤められればいいが、そうじゃなかったら最悪だ。しかも来年から上の子は小学校だ。病院の託児所は預かってくれるのは未就学児まで、というところが多いと聞く。そうなると夜間に小学生を預かってくれる託児所を探さなきゃならない。その手間を想像するだけでもイヤになる。
こういう時に親を頼れればいいのだろうが亜樹の両親は亜樹が小学校3年生の時に離婚し、父は12年前に死んで母は再婚相手との間に子供が2人いて今も佐渡に住んでいる。母は亜樹が小5の時に亜樹と亜樹の2つ上のお兄ちゃんを連れて新しいお父さんと再婚したのだが、ちょうどその頃は亜樹が反抗期に入り始めた頃で新しいお父さんとの仲が上手くいかず、亜樹が中1の時に弟が、中3の時に妹が生まれるとその子たちに対する新しいお父さんの愛情の注ぎ方は当然ながら連れ子の亜樹たちに対するものとは全く違って、家庭の中で疎外感と両親に対する反発を膨らませていた亜樹は高校卒業と同時に母親の反対を振り切って東京へ出て来た。
母とは今も半年に1度くらい電話で話すが、母は母で今の家庭が大事だろうし、今更そんな母のところへ2人の子供を連れて帰れるはずがないし、帰りたくもないし、両親に反発して東京へ出てきた亜樹には亜樹の意地があった。
ハー……。どうしたらいいんだろう……。置いてあった週刊誌をペラペラとめくりながらそんな事を考えていると――
「やっぱイチモツのせいでしょ」
「マジやっぱそうなのかな?」
ブースの外からまたさっきの女の子たちの会話が聞こえてきた。
「絶対そうでしょ、みんなイチモツ不況って言ってるもん」
「他の店の子も?」
「うん、デリもソープもヤバイらしいよ唯一マシなのがSMだって、でもSMとか絶対やじゃない? 縛られたりさ、ジジイとかがさ、おしっこかけてとか言うだんよ」
「ムリムリムリ」
「もうさ、あのイチモツマジで沈めて欲しいんだけど……」
イチモツ……? イチモツ不況……? 何のことだろう……?
突然耳に入って来たその言葉が気になって亜樹は週刊誌をめくっていた手を止めた。
3カ月前に突然東京に出現したイチモツが石垣島に移送されその後も伸び続けて日本の領土を拡大して毎日テレビのニュースで取り上げられ世間を騒がせているのはもちろん亜樹も知っているが、それがうちの店の客が減ったのとどう関係あるのだろう……? しかも「イチモツ不況」って何だ……? 沈めて欲しいってどういうこと……?
気になってしょうがなくて耳をダンボにしていたが既に彼女たちのお喋りは「AV男優とかもインポなのかな?」、「AV男優誰が好き?」と話題が変わってしまっていて、ここから出て行ってあの子たちに「さっきの話なんだけど?」と聞く訳にもいかず、仕方なく亜樹はスマホで「イチモツ不況」とググってみた。すると――
何これ……?
スマホの画面には「イチモツ不況を語る35」、「イチモツとインポ増加の関係」、「徹底検証! イチモツとED急増に関連はあるのか?」……など、イチモツに関する記事や掲示板のスレッドが何件もヒットした。
何これ……? どういうこと……?
ブースの外の女の子たちのお喋りと天井のエアコンのノイズを遠くに聞きながら亜樹はスマホの画面に見入った。