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イ・チ・モ・ツ 第2話
1、
夜明け前の武蔵野の空に、突然巨大な煙突のようなモノが出現したらしい――。
汐留テレビのアナウンサー、下平今日子がその一報を最初に聞いたのは五月二十三日の午前五時半、仮眠室で二時間ほど仮眠をとった後、特に緊急のニュースも入ってこなかったしそろそろ宿直勤務も終わりだなと思ってメイクを直しにトイレに行こうと廊下に出た時の事だった。「今日子ちゃん、悪いけどちょっと行ってくれる?」 担当番組のプロデューサーに肩を叩かれそう言われた。
それから四十分後――
何がちょっとよ……ざけんじゃないわよ。爆音を放つヘリコプターの中で悪態をつきながら今日子はヘリポートから東京上空へ飛び立った。
汐留テレビの夕方のニュース番組「LIVE・NEWS・トッテダシ!」のサブキャスターを務めている今日子は今年三十六歳、アナウンス部の中では中堅どころで女子アナの中では上から数えて四番目の年齢だ。
アナウンサーの世界ではよく言われることだが、女子アナというのは三十過ぎると段々厳しくなる。若くてかわいい新鮮な女子アナが毎年毎年下から勢いよく突き上げてくるのでピークを過ぎた三十過ぎの女子アナは段々と土俵の隅へ隅へと追いやられていく。みじめな姿で寄り切られる前にスポーツ選手か実業家と結婚して寿退社というのが一番理想の決まり手なのだが、その決まり手を逃した女子アナはひたすら土俵際で踏ん張るキャリアウーマンの道を選ぶことになる。
今日子は高校生の頃から報道番組に興味があり、将来はアナウンサーになりたいと思っていた。アナウンサーといっても男性キャスターの横で単なるお飾りとして存在しているだけの女子アナではなく、「朝まで生テレビ」の司会者の田原総一郎さんのようなパネリストたちに鋭い質問をバンバンぶつける本格的な女性キャスターになりたかった。そのために大学では放送研究会に入ってビデオカメラ片手にあちこち飛び回り、自分で企画、取材、出演、制作、全てをこなしたドキュメンタリ―を何本も作った。ディベートの授業では相手が男であろうと教授であろうと関係なくバンバン自分の意見をぶつけ相手を論破し、合コンで好きなテレビ番組は? と聞かれた時は躊躇なく「朝まで生テレビ」と答え男子たちを引かせた。
そうした学生時代の活動が評価されたのか、念願叶って汐留テレビに就職が決まりアナウンサーになった今日子だったが、報道志望だった今日子に与えられた仕事は、田原総一郎のようなパネリストたちに鋭い質問をバンバンぶつける本格的な女性キャスター――という理想からはかけ離れたくだらないリポーターの仕事ばかりだった。
「突撃スクープ! ゴミ屋敷の内部へ潜入!」という企画では防毒マスク姿で悪臭が漂いあちこちからゴキブリやネズミがサプライズ登場するゴミ屋敷に潜り込み、「潜入捜査! 主婦売春の真相」ではホテル街で取材中、脂ぎったハゲ頭の中年サラリーマンに危うくホテルに連れ込まれそうになり、「密着! 野良犬45匹・放し飼い男」のロケでは獰猛な野良犬に追いかけまわされ荒川の河川敷をヒールを脱ぎ捨て裸足で全力疾走したり、初めての海外ロケだと聞いてウキウキしていたら行かされたのはパプアニューギニアの原住民の取材でアリの卵の料理を食べさせられ、ヘビの血を生で飲まされ、今日子に一目惚れした現地の若者が今日子のテントの前で一晩中求愛のダンスを踊るという怖い思いを体験し……、数々の身体を張った取材をこなしてきた。
誰だって最初からやりたい仕事が出来る訳はない。若い内は下積みというものが必要だ。だから自分には向いていないと思うことでも積極的にやってみる。やりたくないことでもやる、歯を食いしばってやる。いつしかそれが糧になり道が開ける。そう思って頑張ってきた。でも私はもう三十六だ。そろそろやりたいことをやらせてもらってもいい時期だろう。いつまで下積みをやればいいんだ。最近そんなフラストレーションが溜まってきた。
この間などは、「今日子ちゃん、新企画決まったよ! 新境地開拓だ」と番組のプロデューサーが言うものだから期待して企画書を見てみたら、それは「今日子の今日から始めよう!」というタイトルの新コーナーで、第一回目は「今静かなるブーム! 自衛隊ダイエット」という企画で元自衛隊員の鬼講師のもと、腕立て百回、ヒンズースクワット五十回、ほふく前進二百メートルなど……ハードなメニューを体験するリポートだった。
世田谷の住宅地にある児童公園でえんじ色のダサいジャージを着させられ「前進始め!」の掛け声のもと、ほふく前進をして、近くでゲートボールをしていたお爺ちゃんお婆ちゃんたちから、がんばってー、と声を掛けられた時にはなんだか分からないが涙が頬をつたってきた。
次の日から三日間全身筋肉痛が続いた。通勤電車の中で筋肉痛をこらえてつり革に捕まっていると、私はこのままでいいのかな……? という疑問が湧いてきた。
田原総一郎さんのようなパネリストたちに鋭い質問をバンバンぶつける本格的な女性キャスターになりたくてアナウンサーになったはずなのに、児童公園でほふく前進なんてしていていいのだろうか? もう三十六なのに……。
もう勘弁して下さいよー、昔だったらそう言いながらカメラや周りのスタッフに向かってニッコリキュートな笑顔をつくることが出来た。でも今は素直に笑えなくなっている。爽やかな笑顔が作れなくなってきている。
私はこのままでいいのかな……?
二、三年前からちょくちょくそんなふうに今日子が思うようになったのには一つはっきりとした原因があった。
弓長徹――学生時代今日子が所属していた放送研究会の二年下の後輩で、元台場テレビのアナウンサー、そして今はフリーで活躍する人気キャスター。彼の存在があったからだ。
放送研究会在籍時から弓長の才能は光っていた。顔は特別イケメンというわけではないのだがなんとも愛嬌のある顔をしていて、なにより喋りが抜群に上手く、ユーモアのセンスがあって、一年生の秋にはすでにたくさんの芸能人がゲスト出演する学園祭の司会を務めて、その司会ぶりがお笑い系の芸能事務所関係者の目について、キミいいねー、卒業したらうちくる? とスカウトされたほどの実力だった。
だから弓長が台場テレビから内定をもらったと聞いた時、今日子はやっぱりか、とうとう来たか――そう思った。
「先輩、いろいろ業界のこと教えてくださいよー、ボク不安で不安で……」、放送研究会のOB会で久しぶりに再会した時、弓長はそう言って今日子にアドバイスを求めてきたが、その目には自信と野望が満ち溢れていた。きっとこの男は近い将来人気アナウンサーになるだろう。今日子はそう思った。そして同時に、私だって負けない、後輩には負けたくない――そんな思いを強くした。
今日子が予想していた通り、台場テレビ入社後、弓長はバラエティ番組やワイドショーを担当し、メキメキと頭角を現し、放送研究会にいた頃と同じように並みいる先輩たちをごぼう抜きして入社三年目で朝のワイドショーのメイン司会の座を射止め、他の司会者には無いユニークな視点からのコメントや、お笑い芸人顔負けの話術で人気を博し、二十代にしてすでに台場テレビのエース的存在になっていた。
その弓長が突然、新型コロナをめぐる我が社の報道姿勢に疑問を感じた、として番組を降板し、台場テレビも退職すると発表したニュースは世間を大きく騒がせた。
弓長は自らのブログで自分が司会を務めていたワイドショー番組の問題点を痛烈に批判した。
番組では東京の新規感染者数が増えた増えたとセンセーショナルに報道し、PCR検査数が何倍にも増えていることや、重症者用の病床の使用率が低く留まっていることなどは一切報道しない。これはそうやって恐怖を煽った方が視聴率が獲れるからであって、国民が冷静に判断するための情報を伝えないのは、報道機関と言えるのだろうか――
政府のGOTOキャンペーンが始まった時には、こんなにお得! こんなに安い! とあんなにはしゃいで伝えていたマスコミが、今になって感染が再拡大したのは政府のせいだ、GOTOキャンペーンのせいだ、と自分たちのことは棚に上げて政府批判を展開するのは卑怯過ぎるのではないか――
緊急事態宣言を出すべきだと言っていた番組が、宣言が出た途端、緊急事態宣言によって苦しんでいる飲食店がこんなにあるというVTRを流し、政府は飲食店への補償を手厚く出すべきだと言いながら、国の財政悪化のニュースを伝えるときにはバラマキは良くないと言い出す。まったく一貫性がなく、その場その場で世論に迎合してコロコロ意見を変えているだけである――
太平洋戦争は新聞が世論に迎合し国民を煽って戦争へと突入させた。今のマスコミも本質は全く変わっていない。事実を冷静に客観的に伝えるべきだと訴えても、そんなんじゃ数字が獲れないという一言で一蹴される。そんなジャーナリズム精神のかけらもない組織に自分はこれ以上身を置くことは出来ない――
こうした弓長の発言は、ただ政府の批判を繰り返してさえいればいいという従来のマスコミの姿勢に一石を投じ、ネットを中心に大きな反響を呼んだ。
その後弓長のブログはキャスター・文化人部門ランキングで毎週トップになるほどの人気となり、発売した著書『さらばマスコミ!』は五十万部を超えるベストセラーになり、それをまた格好いいことに印税は全額戦争被害に苦しむウクライナの人々に寄付する、なんて言ったものだから弓長への評価は一層高まり、ラジオ番組の司会を任されるようになり、その番組が好評だったためにポスト古館一郎はこの男だ! なんて週刊誌でも特集されるようになって、ついに二年前の春から日曜日のゴールデンタイムにスタートした赤坂テレビの「サンデー・トゥルース」という報道番組でメイン司会に抜擢された。
毎週日曜日、家で一人で「サンデー・トゥルース」を観る度に今日子は強いジェラシーに駆られた。
弓長は与野党の大物政治家相手にも臆することなく鋭い質問をぶつけ、かつ、ただただ批判ばかりを繰り返す従来の司会者とは全く違った切り口で、こうしてみてはどうでしょう? こんなのは駄目ですか? と新しい提言をしていく。しかも難しい政策の話を分かり易い例え話に変換して説明し、時々絶妙なタイミングでウィットにとんだジョークも挟むものだから、自然と視聴者は惹きつけられ視聴率も平均で一六%とその時間帯のトップを走っている。弓長は間違いなく人気実力ともに日本を代表するキャスターになりつつあった。
それに比べて自分は……。
なにが「今日子の今日から始めよう!」だ。児童公園でほふく前進してる場合じゃないだろ……。毎週日曜日、弓長の番組を観る度に今日子のフラストレーションは溜まっていった。
「だったらさ、もう結婚しちゃえば?」――周りの友達にはよくそう言われる。
結婚か……。
三十歳を過ぎた頃から島根の実家に電話する度に母親から結婚しろ、結婚しろ、とうるさく言われるようになった。
スマートフォンが普及し、リニアモーターカーの開通も間近というこの二一世紀の文明社会の中にあっても、島根という田舎では三十過ぎた女性が独身でいることは非常にネガティブな事実としてとらえられる文化がいまだに根強く残っていて、毎年お盆や正月に帰省すると親戚のおばさんたちに取り囲まれ一斉に縁談話を持ちかけられる。
今年の正月に帰省した際には母の姉のミカコおばちゃんに「今日子ちゃん、まさかー、男の人に興味がないわけじゃなかでしょう……?」と聞かれた時にはさすがにビックリした。すでに地元で結婚して子供が二人いる二つ下の妹に話を聞いてみると、東京で働くキャリアウーマンにはレズが多い、という記事をミカコおばちゃんが週刊誌で読んだらしく、その噂を親戚中に広めて、もしかして今日子ちゃん……? という話になったらしい。
そんな時代錯誤の田舎の空気にはうんざりするが、五歳と二歳の甥っ子と姪っ子の面倒を見ていると可愛くてたまらず、子育てに奮闘している妹を見ながらこういう人生もありかな……、私もそろそろキャリアを捨てて上がる時期なのかな……と、ふと思ったりもするようになった。
学生時代から付き合っていた彼氏と別れたのは八年前のことだ。それ以来彼氏はいない。学生時代から付き合っていた彼は山岳部に所属して世界の山々を登り歩いていた人で、いつでも夢に向かって進んでいて目がキラキラしていてカッコ良かった。唯一の欠点は浮気癖があったことで三度目に浮気された時にもうダメだと思って別れた。
その時はまだ二十八だったし、仕事に夢中だったし、世の中にはもっといい男はいっぱいいると思っていたし、自分で言うのもなんだが、一応女子アナだからルックスはそこそこイケてる方だし、モテないことはないから出会いは自然と訪れると思っていたが、この八年間、不思議なくらい素敵な出会いとは縁がなかった。
妹からは、お姉ちゃんはプライド高過ぎるのよ、と言われる。確かにそうかもしれないなと思う部分はある。チャラチャラした男につまみ食いされるようなみっともない女にはなりたくなかったし、合コンなんかに参加して婚活に必死になっていると思われるのも嫌だったし、男受けするような胸チラを見せつけるようなファッションをするのも嫌だし、やだーと言いながら意中の男性にさりげなくボディータッチするモテ女の恋愛テクニックを駆使するのもなんだか自分らしくないと思うのでやったことはない。
職場にはいい男いないの? ともよく聞かれるが、今日子の目から見るとテレビ局に勤めている男たちは事なかれ主義で上司の顔色ばかりうかがっている「ザ・サラリーマン」という感じの男ばかりでまったくセクシーさを感じなかったし、妥協して大して好きでもない男の人と付き合うのは嫌だったし、アナウンサーとしてやりたい仕事を、大きな仕事を出来ないまま結婚、寿退社、というお決まりの道を選んで終わっていくのはなんとなく「負け」のような気がした。ただ最近その気持ちが揺れている……。
宿直明けで寝不足気味の今日子を乗せて東京ヘリポートから飛び立ったヘリコプターは五分程で新宿のビル群の上を超えた。
すると、「オイ、あれじゃねーか?」とディレクターが指差した先――西の空にうっすらと細長―い煙突のような物体が現れた。
練馬、杉並、世田谷にはゴミ集積場の煙突が何本かあるがそれとは違う。それよりもっと長いその物体は、井の頭公園と思われる緑色の木々が生い茂った場所にほど近い地点からニョキニョキっと上空に向かって伸びていた。
なんだ……あれ? 双眼鏡を覗いてその先端を見た瞬間、今日子は思わず息をのんだ。
まさか…………やだ、もしかしてアレ……?
その物体は男性のアレ――そう、イチモツのように見えた。
いや、まさか、そんなはずはない。イチモツがこんなところにあるはずがない。
しかしその物体の先っぽはまるで男性器の先っぽのように亀の頭のような形をしていて真ん中に割れ目があった。
なんなの? あれは……。
胸がドキドキした。なんなんだろう? この感覚は……。
何か凄いことが起きるような予感がした。
パプアニューギニアの原住民の村に取材に行った時のことを思い出した。今日子に一目惚れした現地の若者が一晩中今日子のテントの前で求愛のダンスを踊っていたあの夜のことを。
怖くて仕方なかったが、その一方で求愛の歌とダンスがどんなものか気になって何度かこっそりと、恐る恐る、相手に絶対に気付かれないようにテントの隙間から覗いてみた。仄かな月明かりだけが頼りの暗闇の中でひたすら求愛のダンスを踊る若者を見ていると不思議な時間と空間の隙間に迷い込んでしまったような気がした。決して見てはいけないものを見てしまったという恐怖心と、それとは裏腹の好奇心とが渦を巻くように混じり合い、胸騒ぎが止まらなかった。そして若者の歌声と時折始まる激しいダンスによる震動は、パプアニューギニアの空気と大地を通じて今日子の子宮に伝わってきて奇妙な性的興奮をもたらした。
今、武蔵野の空に突如現れたその物体を双眼鏡で覗きながら今日子の胸の中で起きているこのドキドキはあの時の胸騒ぎに似ている。そしてあの時の性的興奮に似ていた……。
ヘリはそのイチモツのような物体に近付いていた。もう肉眼でもはっきりと見える距離だ。
今日子は双眼鏡を外し、しばしその物体を見つめた。武蔵野の大地にそびえ立つソレはなにか強い意志を持って真っ直ぐ上に伸びているようにも見えるし、なんだか神々しいもののようにも見えた。その物体を見つめながら今日子は知らず知らずのうちに自分の股間に手をやっていた。渦を巻くような興奮が止まらない。これから何かとんでもないことが起きる、いや、起きるに違いない――そんな予感と確信を子宮に感じた。
「じゃあ始めよう」
隣にいたディレクターの声にハッとなり今日子は股間から手を離し、その代わりにマイクを強く握りしめた。
「今このヘリコプターは東京都武蔵野市の上空、地上から約五百メートルの位置を飛んでいるんですが、こちらをご覧ください、この物体、今朝この空に、突如としてこの巨大な煙突のような物体が現れました――」
リポートしながら今日子の身体は震えていた。ヘリコプターの振動のせいではない。あの物体が何かを私に伝えている。何かのメッセージを発している――今日子はそう強く感じていた。
私だけ……?
今日子は周りのスタッフを見た。ディレクターはインカムでパイロットに何やら指示を出し、カメラさんはその物体を撮ることに集中している。特に表情の変化は見られない。
私だけなのだろうか……このメッセージを感じているのは……? 今日子は目の前の物体を見つめた。そのイチモツのような物体は何かを象徴しているように見えた。
「この北西の方角には、田無タワーという百九十五メートルの高さのタワーがあるんですけども、そのタワーより遥かに高いように見えます。この物体は真っ直ぐ、真っ直ぐと天を目指して進んでいるように感じます――」
自分はあんなに真っ直ぐに生きているだろうか……? あんなふうに何にも邪魔されず上を上を目指しているだろうか……? なぜだか分からないが自然と目に涙が浮かんできた。
今日子は学生時代アナウンサーを目指し放送研究会に所属して必死に活動していた自分を思い出していた。あの頃の自分は真っ直ぐだった。自分自身に正直だった。今の私はどうだろう……?
そりゃキー局のアナウンサーだから給料はいい。三十六歳で一千万近い給料をもらっている女はこのご時世なかなかいないだろう。大学の同期の中には結婚はしたものの旦那の給料が安くて、スーパーのパートをやったり宅配便のアルバイトをやったりしている子もいる。それに比べれば自分は恵まれている方だ。このままじっと我慢して問題を起こさず汐留テレビという大きな組織に属してさえいればベイエリアのタワマンの高層階の部屋を買うことだって出来るし、高望みさえせず地道に婚活していれば結婚相手だって見つかるはずだ。老後の年金だって心配のない、何一つ不自由ない生活が保障されている。だけど……だけど、それがなんなんだろう……?
「スゴイ! スゴイ現象です。今このヘリコプターは十分ほどこの巨大な物体の周りを旋回しているのですが、十分前よりも高さが、背丈が伸びているように感じます。この物体は今もなお、真っ直ぐに、真っ直ぐ天に向かって伸びている模様です――」
お前が望んでいた人生はそんなものなのか……?
目の前のイチモツのような巨大な物体は自分に向かってそんなふうに問いかけているように思えた。
そんなものなのか……?
そんなものなのか……?
そんなものなのか!
頭の中でこだまするその声を聞きながら今日子はヘリコプターの爆音に負けない程の大声でリポートを続けた。
「スゴイです! このイチモツは……このイチモツのように見える物体は、これはいったい何なのでしょうか!」
2、
一番初めにその物体が人間のイチモツであることを確認したのは警視庁三鷹署の井の頭公園駅前交番に勤務していた今脇浩二という二十四歳の警察官だった。
五月二十三日午前五時前、まだ薄暗い中ジョギングウェアを着た新聞配達のお兄ちゃんが交番に向かって走って来て「スゴイのが、スゴイのが」と言って空を指差すものだから、今脇が何かと思って外へ出て空を見上げてみると――
何だあれは!
交番の裏手数百メートルの地点から昨日まではそこに無かった巨大な煙突のような物体がそびえ立っていた。
いったい何なんだ……あれは……。
今脇はその巨大な物体の迫力に圧倒された。
学生の頃、屋久島に行って見た縄文杉を今脇は思い出した。あの縄文杉もなかなかの迫力だったが、今見ている物体はそれ以上のエネルギーを……、いや、というより巨大な怒りのようなものを感じた。その物体は、なにか現代人のモヤモヤした、鬱屈した、何万、何億という怒りのカケラをかき集めてそれをエネルギーにして爆発させた形のように思えた。
そんなことを考えながらしばしその物体を見上げて立っていると、ホラ、おまわりさん、ホラ早く行かなきゃ! と言う新聞配達のお兄ちゃんの声が聞こえ、そうだ、俺は警察官だったんだ、マズイ、しっかりしないと、そう我に帰った今脇は、多分公会堂の辺りだろう、とその煙突のような物体が生えている地点に大体の見当をつけ、慌てて自転車を飛ばして行った。
今脇がその現場とみられるアパートに駆けつけた時、朝五時にもかかわらず、すでにアパートの住人やら近所の人たちやら、ジョギングをしていて通り掛かった人やら十数人が集まっていて、アパートの屋根を突き破って空に伸びたその巨大な物体を見上げていた。
そしてその巨大な物体の根元と見られる二〇五号室の前では「タケウチさーん、タケウチさーん、聞こえますか?」とそのアパートの大家である一柳伸子という女性がドアを叩いていた。アパートの階段を駆け上り今脇が「鍵はあるか?」と一柳伸子に聞くと一柳は「ある」と言い、首からぶら下げた鍵の束を見せた。
一柳に二〇五号室の鍵を開けてもらい今脇はゆっくりと部屋の中に入った。
その瞬間だった。ジャ―ンという音がした。
いや、実際にはそんな音は一切していないのだが、今脇の頭の中では映画やドラマで登場人物が驚いた時に鳴るジャ―ンという大きな効果音が響いていた。そしてその音と共に目の前に現れたその物体の迫力に驚いて今脇は「ワ!」と声を上げ、思わず携帯していた拳銃を構えて発砲しそうになってしまった。
その部屋の主である男の股間にその巨大な煙突のような物体が刺さって男は絶命している――今脇は最初そう思った。
しかし……。いや、違う……逆か……?
よく見てみると巨大な煙突のような物体が男の股間に刺さっているのではなく、男の股間から巨大な煙突のような物体が伸びていた。まるで縄文杉のようだ……再び今脇は思った。その物体は生命力に満ちていた。パワーが漲っていた。そしてよく見ると黒い毛が生えていて、青い筋がたっていた。
まさか…………イチモツか……?
ようやく落ち着きを取り戻した今脇は、握っていた拳銃をしまって手でその物体を触ってみた。あったかい……。人の皮膚のような感触がする。
ガ―……グー……。
そしてその時初めて今脇はその音に気付いた。いびきだ。
その男は絶命しているのではなく大きないびきをかいて寝ていたのである。「タケウチさーん、タケウチさーん」今脇と大家の一柳伸子が何度呼びかけてもその男が目を覚ますことはなかった。
最初警察はテロの可能性もあるとみてその部屋の住人でありそのイチモツの持ち主である竹内伸一という人物の経歴を探ってみたが、竹内はFLYING FLOGSというIT関連企業に勤める三十二歳のどこにでもいるような平凡な独身サラリーマンで、彼の自宅を捜索してみても、彼のツイッタ―のツイートを見てみても、過激な政治的思想や宗教に傾倒していたという事実は認められなかった。また彼の両親や交友関係を調べてみても革マル派やアルカイダやオウム真理教の残等などとの関連性はまったく見当たらず、警察はテロの可能性は低いと判断した。
大体イチモツを巨大化させるなどという手法のテロがある訳はないし、そんなことをした実行犯に一体どんなメリットがあるんだ? という疑問も当然浮かんだのだが、警察としては巨大なイチモツが出現するというこの訳の分からない事態に対して一体どう対処していいのかまったく分からず、仕方がないのであらゆる可能性を想定して柔軟に対処していくという体制をとったのである。
そして肝心のイチモツだが、もしも巨大なイチモツが強風に煽られて倒れたりしたら電線を切断したり付近の住宅を破壊するなどの被害が出る可能性があり、このままここに放置しておくわけにはいかないということで、まずは現場近くの井の頭公園・西園の四百メートルトラックがある競技場に一時的に保管し、そこで政府からの指示を待つことになった。
イチモツの井の頭公園への移送は大騒ぎとなった。
不測の事態を避ける為、半径五〇〇メートル圏内に住む住民に避難命令が出され、大手ゼネコンから大型トラックと技術者が派遣され、その指示に基づいてイチモツは荷台に固定され、決して傾いて電線などをショートさせることがないように慎重に、慎重に移送された。
上空にはマスコミ各社のヘリコプターが何台も飛び交い、また、それが人間のイチモツであると分かった瞬間から熾烈な報道合戦が始まった。
現場の下平さーん? 何か新しい情報でしょうか? はい、こちら巨大な煙突のような物体が出現した東京三鷹市井の頭の現場なんですが、たった今ですね、驚くべき情報が入ってきました。警察関係者に取材したところ、この物体の正体が巨大化した男性器、男性器の一部であるという事実が確認されました。なぜ男性器がこれほどまでに巨大化したのかは原因不明です。繰り返します。この物体の正体は巨大化した男性器の一部であることが警察への取材で確認されました――
たった今情報が入りました。今私の後ろに見えているこの巨大化した男性器なんですが、現場となったアパートの部屋に住む男性のモノであることが分かりました――
この男性なんですが、渋谷に本社があるIT企業に勤めている三〇代の独身男性で、このアパートにはもう一〇年ほど住んでいてご近所の方のお話を聞くと、どこにでもいるようなごく普通の若者で、いつも笑顔で挨拶をしてくれる感じのいい人だったと……そんな声が多く聞かれました――
現在このアパートでは男性の部屋の解体が終わり、その巨大な物体の搬送のためのトラックが待機しています。今来ました、来ました! 男性の姿は見えませんが、あのブルーシートの中に横たわっていると推測されます――
「いや、私、こんなことがあるもんかと……もーホントに、びっくりしましてね――」と取材陣に囲まれてインタビューに答えていたのは、警察官の今脇と一緒にその巨大化した物体を最初に見たアパートの大家、一柳伸子だった。
警察からは事の真相が分かるまでマスコミの取材に対して答えるのはなるべく控えて欲しいとお願いされていた一柳だったが、赤坂テレビの情報番組「生生」のディレクターから彼女が大ファンであるキャスター、さのピンタと直接生で会話出来ると聞かされ、こんなチャンスはめったにないと思い出演を快諾し、その後も他局からQUOカードをもらったり、演歌歌手のコンサートのチケットをちらつかされて次々と各局のインタビューをハシゴして、最後の方になると話もすっかり整理されてきて、「まるでジャックと豆の木のお話みたいにアレが伸びていたんです」と表現の仕方も豊かになってきて、警官と一緒に部屋に入った時、巨大化したイチモツを見て驚いた警官が拳銃を構えて発砲しそうになったシーンなどはアクション付きで再現して見せ、ネット上では、あのおばさんホントに素人か? と話題になり、一柳伸子は一夜にしてちょっとした有名人となった。
記者クラブに所属する大手新聞社、テレビ局はイチモツの持ち主の実名を公表すべきかどうか、そしてこの物体が巨大化した男性器であると分かった以上、イチモツにモザイクを掛けるかどうか慎重に検討していたのだが、そんなことはお構いなしだ! と言わんばかりにいち早く東スポが「武蔵野の空に巨大なイチモツ出現!」と一面にデカデカと巨大なイチモツの先っぽ、亀頭部分のモザイク無しの鮮明な写真を掲載し、その記事の中で「イチモツの持ち主は竹内伸一という三十二歳サラリーマン」と暴露してから各社が雪崩を打つように実名報道に走り、お茶の間にはモザイク無しの巨大化したイチモツの映像が流された。
事件を伝えるテレビ各局のアナウンサーたちは当初「武蔵野の空に巨大な煙突のような物体が出現した事件」とか「巨大化した男性器とみられる物体が現れた事件」という遠まわしな表現を使っていたのだが、ベテランキャスターのさのピンタが「次はイチモツ事件の続報ですね」、「CMあけてからもイチモツ事件続けます」と「イチモツ」、「イチモツ」というストレートな言葉を連呼して以降、各局ともに「イチモツ事件」いう表現で統一するようになり、台場テレビの人気女子アナ、吉村佳織が少し恥じらいの表情を浮かべながら「次はイチモツ事件の続報です……」とイチモツ事件のニュースを読む度に視聴率が跳ね上がるという現象が起きた。
竹内伸一という男が自らのイチモツで奏でたこの狂騒曲は、イントロの時点で観衆を魅了した。
テレビのニュースやワイドショーは予定を変更して連日このイチモツ事件のニュースを放送した。人気芸能人のゲス不倫を伝えるはずだった芸能コーナーも、話題のワンコインランチを特集するはずだったグルメコーナーも、巨人に入団した注目のルーキーの活躍を伝えるはずだったスポーツコーナーも……、全てこのイチモツ事件のおかげでふっとんだ。
退屈なテレビに、退屈なニュースに、退屈な日常に飽き飽きしていた人々はイチモツ事件の次の展開、さらなる劇的な展開に期待を寄せていた。
3、
この事態に対し政府は国内外を問わず、あらゆる方面の学者、研究者を集めて分析を行っていますが、今のところこのイチモツがどうしてここまで巨大化したのか、このイチモツがいったい何をエネルギー源として上へ上へと伸びているのか、それに関してはまったくもって分からない状況ということです――
しかし、こいつは、なかなかのもんだな……。
その夜、内閣官房長官の大河内一郎は議員宿舎の自室でステテコに白い肌着姿でソファに腰掛け、地元鹿児島の芋焼酎を飲みながらテレビから流れるイチモツ事件の報道を見てそうつぶやいた。
武蔵野の空に巨大化したイチモツが出現したそうです――最初にその報せを聞いた時には何のことやら分からなかったが、このニュースは大河内にとって思わぬ僥倖と思った。
実は今週、大河内のもとに来週発売の「週刊春風」が大河内の女性スキャンダルに関しての記事を出す、という情報が入っていた。馴染みの記者に電話してその真意について尋ねてみたところ、記事が出るのは間違いなく、その内容は大河内が会員制SMクラブのメンバーになっていて、先々週の金曜日の夜、米国大使との夕食会に参加した後赤坂のホテルでそのSMクラブに所属する「K」という女王様と二時間みっちりプレイを楽しんだ――というものらしい。それを聞いた瞬間、そんな出鱈目書きやがって! と怒りの声を発した大河内だったが、記事の内容は全て事実だった。
どうせ榎本内閣の改革に抵抗する奴らの仕業だろう。アホどもめ、大河内は吐き捨てた。
この年、日本の国と地方を合わせた借金の総額は一八〇〇兆円を超え、市場では日本国債の暴落は時間の問題との声が出始め、IMFからは日本は財政再建に真剣に取り組んでいない、と強い懸念が示されていた。財政再建、公共事業に頼らない地方経済の自立、年金制度改革……などなど、榎本内閣はこれまでの政権が先送りしてきた難題を一気に片付けるべく大胆な改革を進めていた。今回のスキャンダルはきっとそれらの改革に反対する党内の抵抗勢力が仕掛けたものに違いなかった。
大河内は今年七十五歳、当選十五回、与党民自党の第一派閥吉田派のナンバー2で、財務大臣、外務大臣、厚生労働大臣を務めた大ベテランだ。そんな大河内に一年前、まだ五十歳という若さで総理大臣に就任した榎本義彦から直々に、官房長官として経験の浅い自分を支えて欲しい、と要請があった。
榎本は党内で三番目の勢力小池派に属し、総理の女房役とも言える官房長官に他派閥の人間を起用することは稀であったし、改革派の榎本があえて抵抗勢力となる吉田派の大河内を一本釣りしたこのサプライズ人事は党内でも様々な憶測を呼んだ。
大河内自身も、あの小僧何を企んでいるんだ? という警戒心があったが、なにより官房長官というポストに惹かれ、もしもここで上手く立ち振舞えば榎本が失脚した時には年齢的にもう諦めていた総理の椅子に座るチャンスが巡って来るかもしれない。そう考えて大河内はこれを引き受けた。
党内の抵抗を振り切って改革を進める為には高い支持率が不可欠だ。そう考えていた榎本は古い民自党のイメージを払拭すべく閣僚に、若手、女性、民間人……、フレッシュな人材を多く起用した。そんな若いメンバーの中で、最年長の大河内は内閣の引き締め役として内閣発足以来ことあるごとに若い閣僚らに対し「改革に反対する勢力はこちらのあらゆる弱みに付け込んで攻めてくる。軽はずみな言動には十分気をつけるように」、そう口を酸っぱくして言い聞かせてきた。経験の浅い若い閣僚らは、永田町政治を知り尽くす大河内の意見に耳を傾けていた。大河内を頼りにしていた。それがまさか……俺のスキャンダルが最初に出るとは……。
永田町においてスキャンダルとは核兵器のようなものだ。弱みのない政治家なんてまずいない。だからどの派閥も大抵敵対する派閥の幹部クラスのスキャンダルは握っているものだ。そのことはお互いよく分かっている。それによって、もしそっちがスキャンダルを出してきたなら、こっちも出しますよ、とお互いがそのカードをチラつかせることによって抑止力が働き、永田町のパワーバランスは微妙な均衡を保っているのだ。
永田町に四十年以上いる大河内はその辺りの事情は熟知していた。
党内の抵抗勢力は、内閣が強引に改革を推し進めようとした時、大抵まずは小物クラス、副大臣や政務官あたりのスキャンダルで攻めてくる。ボクシングで言うならまあジャブのようなものだ。そしてそれでもダメなら大臣クラス、その次が幹事長、官房長官クラス、そして最後のとどめが総理のスキャンダル……というように徐々にパンチのレベルを上げていくのが基本的なケンカの仕方だ。
それがまさか……いきなり官房長官のワシからきた……。いきなり右ストレートを打ってきよった。喧嘩には喧嘩の作法というものがある。それをわきまえもせず、なんて無礼な奴らだろう。
こういったことには慣れておらず、「先生、どういたしましょう?」と不安そうに聞くまだ若い中内という秘書に対し、慌てる必要はない、こんなことは今まで何度も経験してきているからたいしたことはない、大河内はそう言って、あちこちに電話してあらゆる人脈と官房機密費を使って記事が出るのを押さえ込もうとしたが、「週刊春風」の強硬な姿勢に全く変化はなく、大河内自身も段々焦ってきて、それは表情にも表れ顔に汗が浮かび息も荒くなってきて、持病の不整脈の心配をして「先生、少し休憩なさった方が……?」と言う中内に対し「バカモンが! 休んでなんかいられるか、この一大事に!」と罵声を浴びせた。
こんな時に良さんがいてくれたら……。大河内は去年亡くなった私設秘書の平松良三郎の事を思った。
平松は大河内が初当選して以来ずっと秘書として長年大河内を支えてくれた文字通り大河内の右腕と言うべき人物だった。女好きで、かつSM愛好家だった大河内がここまでスキャンダルで潰されることなく出世の階段を上って来られたのも、全ては裏で平松が動いてくれたおかげだった。
こういう時に良さんはどう対処していたっけか……。思い出してみたが細かい煩わしいことは全て平松に任せっきりにしてきたので思い出せなかった。そんな訳で大河内は、妻が突然入院してしまって食器がどこに置いてあるかも分からず洗濯機の使い方も分からない高齢男性のように、ただただ右往左往し何度も舌打ちを打つだけの状態になってしまった。
こうなったらシラを切るしかない。知らぬ存ぜぬで通すしかない――。そんなふうに大河内が半ば諦めかけていた時に入ってきたのが、このイチモツ事件のニュースだった。
イチモツ事件が起きて以来、テレビも新聞もマスコミはイチモツ事件のニュース一辺倒になった。そのおかげで、大河内の女性スキャンダルに関する記事の掲載は見送られることになった。大河内にとってあのイチモツはまさに僥倖であった。
はい、私は今こちら、巨大化したイチモツが一時的に保管されている大井ふ頭にきているんですが、ご覧ください、今大きな飛行機が羽田空港から飛び立つのが見えます。ご覧いただいた通りですね、ここ大井ふ頭の近くには羽田空港がありまして、国土交通省によりますとこのままイチモツをこの場所に置いておくと飛行機の離着陸にも影響が出てくる可能性があり、そして万が一強風にあおられてイチモツが倒れた際にはですね、その倒れ方によっては東京湾を行き交う船舶や、高速道路、モノレールなどと衝突して重体な事故になりかねないということで、一刻も早くこのイチモツを他の場所に移さなければならないという声が上がっています。そしてつい先程新しい情報が入ってきました。政府関係者の話によりますと、このイチモツの移送先なんですが、石垣島の自衛隊基地が候補としてあがっているそうです――
芋焼酎の入ったグラスを傾けながら大河内はテレビのチャンネルを変えてみた。民放五社のうち三社がこのイチモツ事件の続報を伝えている。今日も一日中テレビはこの話題で大騒ぎしていた。
あのイチモツを石垣島に移すよう総理に進言したのは大河内だった。これでまたしばらくはイチモツ事件の話題でマスコミは持ちきりになるはずだ。
もしこの事件が無かったら……それを考えるとぞっとする。
きっと今頃大騒ぎの対象は俺のイチモツだったはずだ。「七十五歳、現役のドスケベ官房長官」とか、「変態ドM官房長官のハレンチ介護プレー」とか、週刊誌や夕刊紙は好き放題書くだろうし、野党の連中はここぞとばかりに辞めろ! 辞めろ! と言い出し、国会での答弁では、いくら払った! 窓口負担は一割か? とか、叩かれて嬉しいか? 女王様が見てるぞ! などと容赦ない野次を浴びせられ、定例の記者会見では記者たちに、国会を停滞させた責任をどう取るつもりなのか、辞任するつもりはないのか、と連日絞り上げられることになったはずだ。そんな状況を想像している内に大河内は段々腹が立ってきた。
大体政治家を仕事が出来るかどうかでなくてスキャンダルがあるかないかで評価するマスコミや有権者のレベルが問題なんだ。昔の政治家は豪快だった。ある総理大臣などは総理在任中、一時間程の昼休みの時間を利用して公用車で都内のマンションに囲っていた愛人の所に乗り付け一発やってから何食わぬ顔でまた国会に出席していた――この話は永田町の伝説だ。当時は記者たちもそれを知っていて書かなかった。そんなことより、総理大臣にはもっと大きな仕事――高度経済成長とか、列島改造とか、日中国交正常化だとか――を期待していたからだ。大きな仕事をさせる為に少々のミスや欠点には目をつぶる、そういう懐の深い社会だったからこそスケールのでかい政治家が生まれた。長嶋や美空ひばりや石原裕次郎のようなスーパースターが生まれたのだって同じ理屈だ。
それに比べて今はどうだ。漢字を読み間違えたとか、失言とか、女性問題とか、何十年も前に年金払ってなかった時期が数カ月あったとか、地元の秘書が政治資金でSMバーに行っていたのをチェック出来ていなかった……とか、そんなくだらないことで政治家を潰そうとする。小さい奴らだ。
大体秘書や事務所の職員が切った何百枚という領収書を一枚一枚全てチェックして、領収書に書いてある店がいかがわしい店かどうか全て確認するなんてことをやってたら本来の政治家としての仕事なんてやってられない。なのに連中は目くじらを立てて批判する。日本はいつからそんなせせこましい国になったのだろう。そんな小さいことばっかりつっ突いてばかりいるからスケールの小さい政治家しか育たなくなるんだ。まったくどいつもこいつも……。
しかしまあ、そんな奴らに比べると、こいつは、なかなかのもんだな……。
東京湾大井ふ頭に移送された巨大なイチモツの映像を見ながら大河内はそうつぶやいた。イチモツが巨大化したなんて、こんな痛快なニュースは初めてだ。そう思いながら芋焼酎をまたちびりとやる。うーんうまい。なぜか今夜はやたら酒がうまく感じる。あ、そういえばさつま揚げもあったはずだぞ。そう思って大河内は立ち上がり冷蔵庫へ向かった。
きーたぐーにーのー、たーびーのーそーらー……。さつま揚げを探しながら大河内は小林旭の『熱き心に』を口ずさんだ。大河内はこのイチモツをめぐる騒動がもっともっと続いて自分のスキャンダルが永遠に表に出ないことを願っていた。そしてそれだけではなく、このイチモツが日本に蔓延したせせこましい空気を、そして日本中に増殖した人の揚げ足をとることだけが生き甲斐の雑魚どもを蹴散らかしてくれることを期待した。
熱き心に、時よ戻れー、懐かしい想いー、つれてもどれよー、お、あったあった……。冷蔵庫からさつま揚げを取り出す。さつま揚げに芋焼酎、最高の組み合わせだ。こんな美味い物がある地元鹿児島とこんな美味い物を発明した先祖たちを大河内は誇りに思う。
大井ふ頭の夜空にそびえ立つイチモツを見上げながら報道陣が中継している。ライトアップされたイチモツの後ろには綺麗な月が静かに輝いていた。
なんて美しいんだろう……。
大河内にはこのイチモツが日本のあるべき姿を象徴しているようにみえた。自分が初当選した高度成長期、あの頃はよかった。貧しかったがみんなが上を上を目指して必死に頑張っていた。新宿副都心に高層ビルが次々と建設され、キャンディーズやピンクレディの曲が一世を風靡し、大阪では万博が開催され太陽の塔がそびえ立ち、ジャイアンツのV9、王貞治のホームラン世界新記録……、みんなが見上げる夢があった。
いつからかこの日本には見上げるものが無くなってしまった。経済成長が止まり、給料が上がらない時代になり、非正規社員が増えた。だから他人の失敗を叩いたり、揚げ足をとって喜んだりするくだらない連中が増えてしまったのだ。
日本を取り戻さにゃいけん……。
夜空にそびえ立つイチモツの映像を見ながら大河内はグラスに残っていた焼酎をぐっと飲み干した。