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イ・チ・モ・ツ 第3話
1、
まだ6月になったばかりだというのに三〇度を超える真夏日が続いていた。夕方のニュースで大井ふ頭に保管されているイチモツのレポートをした後、今日子は新橋駅西口、烏森神社へと続く細い路地にあるもつ鍋屋で夕食を取っていた。
暑いのにもつ鍋。この店のもつ鍋の味はどんなに暑い日が続いても食べに来たくなる味だった。学生時代就職活動中に大学の先輩に初めて連れてきてもらって以来、月に一度は必ずこの店に通っている。アナウンサーの仕事をしているとお店の人からサインを書いてくれとか頼まれることもあるのだが、この店を営む70過ぎの老夫婦は今日子のことを見ても「ああ、そう言えばテレビで見たことある」と言うだけで程よい距離感を保ってくれるし、カウンター席が7つと5~6人入れば一杯という奥の座敷席しかない店なので一人で行っても他の客からじろじろ見られることもなくプライバシーが保たれていて、「ポテトサラダ300円」、「だしまき玉子420円」と手書きのメニューが壁にペタペタ貼られているアットホームな雰囲気も今日子は気に入っていた。
「あれ? 先輩!」
弓長徹が声を掛けてきたのは、いつものように一人カウンター席で大きな梅干しの入った梅サワーを飲みながら、締めは雑炊にしようかな? いやちょっと食べ過ぎかな? と考えながらぼんやりとテレビのニュースを観ていた時だった。
「あ、何してんのあんたこんなところで?」
グレーのパンツと白いワイシャツ、シンプルだけど品がいいクールビズスタイルで現れた弓長の顔を見て今日子は思わず言った。弓長は学生時代今日子が所属していた放送研究会の二年下の後輩だが、今はフリーで活躍する日本を代表する人気キャスターだ。お店のご夫婦には悪いがそんな人間が来るような店ではない。
「何してんの?って飯ですよ飯、ここ時々来るんです」
「そうなの?」
「ええ、安村さんいるじゃないですか? 放送研究会のOBの、就活してる時にあの人にこの店教えて貰ったんですよ」
「ホントに?」
「ええ」
「私も安村さんに教えて貰ったのよ、就活の時」
「ハハッ、そうなんだ。ここいいですか?」そう言って弓長は今日子の隣に座った。店のおじさんが「はい、どうぞ」と冷えたおしぼりを弓長に渡し、弓長はおしぼりを顔に当ててはぁーと大きく息をついた。
「私もちょくちょく来てるけど一度も会ったことないよね」
「そうなんですか? 俺も月に1回くらいかな、ね」
店のおじさんがニコッと微笑んで頷く。
「人気キャスターが来るような店じゃないでしょ」
「落ち着くんですよここは、高い店はなんか気取ってるから」
「まあ、確かにそれは分かる」割り箸の先で梅サワーの中の梅干をかき混ぜながら今日子は応えた。おしゃれなお店も好きだけれど、地方出身者にはこういう気取らない店があることが有り難い。
「まあ、まずは乾杯しましょうか」
「そうね、久しぶりだもんね」
グラスを合わせる。顔をクシャクシャッとさせて微笑む弓永の姿は学生時代と変わらない印象を受けた。
「しかし凄いことが起きちゃいましたね」中ジョッキをグイッと傾けて喉を鳴らしてから弓長はそう言ってテレビでやっているイチモツのニュースに目をやった。テレビ画面には大井ふ頭にそびえたつ巨大なイチモツの姿とそれを見物に来たたくさんの人々がスマホを構えて写真を撮っている姿が映っている。
「ホントね」
「自分が生きてるうちにこんなことが起きるなんてね、地震とか津波とか台風とか、ジャーナリストとしてそういう報道に関わることは想像してましたけど、まさかイチモツが巨大化するとは」そう言って弓長は笑った。「はいどうぞ」店のおじさんが弓長の前にアツアツのもつ煮込みを置いた。
「弓永くんはどう見てる? 今回の騒動を」アツアツのモツを口の中でハフハフさせている弓長に今日子は聞いた。
このイチモツが巨大化するという異常な現象の原因を巡っては、イチモツの持ち主が食べた食品の中に遺伝子組み換え食品があってそれが何らかの遺伝子操作をもたらしたのではないか……数年前に流行った新型コロナウイルスの後遺症によるものだ……宇宙から飛んできた隕石がぶつかったのではないか……大きな地震の前触れだ……富士山の噴火の予兆かもしれない……などなど、様々な仮説や噂が飛び交っていた。
「まあ、自然現象には間違いないんでしょうけどね、原因なんて僕にはさっぱり分かりませんよ」弓長は笑って応えた。
「そうよね」
「ええ。ただ……」
「ただ?」
「まあ先輩も報道に携わる人間だから重々承知してるでしょうけど、こういう世の中が一つのことで大騒ぎしてる時ってどさくさに紛れてなんか狡賢い奴らがこっそり陰で重要なことを進めてたりするじゃないですか?」
「ああ、確かに」
「だから今回の件もそういう動きには気を付けなきゃなぁとは思ってはいるんですけどね」モツをひと切れ箸でつまんで弓長は言った。
「もしかして何かネタつかんでるの?」
今日子は思い切って聞いてみた。目の前にいるのはライバル局の情報番組のキャスターだが、大学の先輩後輩のよしみでもしかしたらポロッと話してくれるかもしれない。
「今回あのイチモツが出現してからアレを石垣島の自衛隊基地に移送するっていう決定がやけに早かったじゃないですか」
「うん」確かにそうだ。災害でも新型コロナへの対応でも初動が遅いのが日本政府の特徴だったのにやけに手際が良すぎる感じはしていた。「何か他に隠したいニュースでもあった訳?」
「ええ、噂によると官房長官のスキャンダルをもみ消すためだったとか」
「大河内さん?」官房長官の大河内一郎、これまでも財務大臣、外務大臣、厚生労働大臣などを務めた経験のある与党民自党の重鎮だ。
「うん。まあ、うちがつかんだネタじゃないんですけどね」と弓永はもう一口ビールをグイッと飲んで頷いた。「先週ある週刊誌が大河内さんの下半身のスキャンダルを大々的に報じる予定だったらしいんですが、イチモツ騒動のおかげで記事の掲載は見送られたそうなんですよ」
「下半身のネタって不倫とか?」
「SM愛好家だったらしいですよ」
「え、そうなの?」
「ええ」
「ふーん……」
梅サワーの中に入っている梅干を割り箸でツンツンと突つきながら今日子は応えた。
「ハハッ」弓長がこちらを見て笑う。「そうですよね、そういう反応になりますよね」
「え、どういうこと?」
弓長は中ジョッキを片手に今日子の顔を見ながら「やっぱり」というように小さく頷いて微笑んでいる。
「官房長官が不倫しててしかもその相手がSMの女王様ダなんて言ったら普段なら即辞任間違いなしの超ド級のネタじゃないですか?」
「まあね」今日子は頷く。
「だけど、今の先輩みたいに反応薄くなっちゃうんですよ、イチモツのおかげで……日本中が今はあのイチモツがどうなるかで頭がいっぱいだから」
「まあ、確かに官房長官の下ネタなんて、そんなことどうでもいいわって感じね正直」
「でしょ?」
「ええ」
頷いて大きな梅干しの入った梅サワーをごくりと飲む。梅干しの酸っぱさが疲れた身体の細胞を修復してくれるように感じる。
カウンターの中では仕事が一段落したのだろう、店のおじさんが手を休めてテレビのニュースを観ていた。「ご覧くださいイチモツは昨日よりもさらに高く伸びた感じを受けます」テレビの中では女性アナウンサーがイチモツが保管されている大井ふ頭からリポートをしている。ついさっきまで今日子がいた場所だ。
弓長はもつ煮込みを頬張りながらテレビを見ている。
「たださっきも言ったけどそういう時こそ僕たちジャーナリストは政治家や官僚がこっそり重要なことを進めてないかチェックしないといけないかなとは思いますね」
「そうねー、マジシャンが右手に注目させておいてその隙に左手でタネを仕込むみたいなね」
「そうそう、それ学生の時、ホラ名前忘れちゃったけど、国際政治学の先生がよく言ってましたよね」
「時田先生ね」今日子は授業にクソ真面目に出ていたタイプだったので先生の顔もよく覚えている。
「あーそうそう、あの先生が授業で言ってたの俺よく覚えてるんですよ。昔、北朝鮮の不審船が日本海に出没してなんだか危ないことしてるぞって報道が続いた後に日本の安全保障政策の大きな転機となる周辺事態法案が成立したとか、中国人民解放軍の潜水艦が沖縄の近くを通過したってニュースが連日放送された直後に武器輸出三原則の見直しが発表されたとか」
「すごい、よく覚えてるわね」
「ええ、やっぱり官僚とか政治家っていうのは狡賢いですからね」
「そうね、気を付けないとね」
後輩ながらやっぱり弓長の世の中を見る視点と鋭さはさすがだなと今日子は思った。と同時にそういう視点をもつ弓長の才能にジェラシーも感じた。
カウンターの中のテレビでは引き続き大井ふ頭にそびえたつ巨大なイチモツの姿とスマホを構えてそれを撮影してる野次馬たちの姿が映っている。
自分もあのテレビ画面の中にいる野次馬たちと一緒であのイチモツに気を取られて他のことなど全く気にしていなかった。マジシャンの右手にばかり注目して左手を見ていなかった。ジャーナリストとして失格かもしれない。私はやっぱり凡人で才能ないのかなぁ……? そんなことを思いながらまた焼酎の中に入っている梅干を割り箸でツンツンと突ついていると――
「しかし立派なもんだなぁ」隣から弓長がぽそりとつぶやく声が聞こえた。
「え?」弓長はビールのジョッキを握りながらテレビの画面をボーっと見つめている。
「ああ、立派だなぁ、俺なんか敵わねーわ」今度はカウンターの中から声がして今日子は店のおじさんを見た。おじさんは頭に巻いていた白いタオルを外し大きく溜め息を吐いている。
「もー何言ってんのよ、ねー」店のおばさんが笑いながらそう言ってこっちを見て今日子もなんとか笑顔を作って返した。
ジャーナリストとして鋭い感性を持った弓長くんもあのイチモツ見て「立派だなぁ」とか思うんだ……。そう思うとなんだか弓長に親しみを感じた。別にいいのかもしれないなぁ……私は私で凡人なりの感覚で取材すれば……。焼酎の中の梅干を箸でつまんでぽんと口の中に放り込んだ。
「ウワッすっぱ!」思った以上のすっぱさに思わず声を出す。その声に振り返った弓長と店のおじさんに今日子は笑みを返した。
2、
昼過ぎから降り出した雨が止み、夏の始まりを感じさせる蒸し暑さと中華料理店が吐き出す麺の匂いが混じった蒸気が漂う路地を歩いて、その夜岡山剛志は新宿二丁目、太宋寺というお寺の近くの雑居ビルの前で立ち止まった。
「2F 占いの園」――ビルの入り口にある薄汚れた看板にその名前がある。二丁目界隈のおネエたちの間で「二丁目の母」と呼ばれる占い師、アキラさんが経営する店だ。噂はちょくちょく耳にしていたが訪れるのは初めてだった。
剛志の同僚であり、剛志が想いを寄せる伸一のイチモツが突如巨大化するという信じられない現象に直面してから約一ヶ月。この間剛志はまったく仕事が手につかなかった。会議でも上の空、取引先とのアポをすっかり忘れてすっぽかしてしまったり、週末にゲイバーに行って羽目を外して朝までカラオケをやって公園のベンチで寝て風邪をひいて週明けの月曜日のプレゼンの時には「すいません声が枯れちゃって」と取り組み直後のお相撲さんみたいな声を披露して赤っ恥をかいたりした。
これまでは月に一つか二つは必ず周囲を唸らすくらいの企画の提案をしてきた剛志だったが、人間の脳の情報処理能力にはやはり限界がある。せめて仕事中は伸一のイチモツのことを何とか忘れよう忘れようと思っているのだが、あの事件以降、街を歩けば電光掲示板にイチモツのニュースが流れていて、電車に乗っても中刷り広告でイチモツの話題が載っているし、社員たちの間でもイチモツの話題がしょっちゅう出るし、スマホを見てもヤフーのトップニュースでイチモツの最新情報が取り上げられていて、どんなに忘れようとしてもいたるところでイチモツのニュースが剛志の目に耳に飛び込んで来て、剛志の脳の情報処理能力のほとんどは伸一のことを考えることにその能力のほとんどを費やされてしまっていた。
報道によると伸一とそのイチモツは石垣島の御神岬という岬に建設された自衛隊の施設で厳重に保管されているそうだ。イチモツは巨大化しているものの伸一本人の命に別状はないという。巨大なタンカーに特別なベッドが設置され伸一はそのベッドに身体を固定されていて、会話も出来、食事も一日三食きちんと取り、厳重な管理体制のもと暮らしているらしい。
しかし無事だとは分かっていても、毎日イチモツのニュースに触れる度に伸一は今どうしてるのかな? 冷たい海水にあそこを浸したままで寒くないのだろうか? 石垣島の海水温ってどのくらいなんだろう? とかいろんなことを考えたりスマホで検索して小一時間ほど費やしてしまったり……、「イチモツLIVE」という御神岬の灯台に設置した定点カメラがとらえたイチモツの映像を二十四時間リアルタイムで配信しているサイトを三十分に一回くらいのペースでチェックしたりしてしまう。
そりゃ気になって当然だ。自分の一番大事な人のイチモツが急に巨大化して石垣島まで運ばれるなんてことを経験して普段通りでいられる人がいるとしたらちょっとおかしい。ただ剛志はこれまでも男の人を好きになって付き合ったことはあったし、自分は仕事と恋愛は割り切って考えられるタイプだと思っていたので、こんなにも自分のペースが乱されていることに少し混乱して、そのストレスを発散するためにチョコレートのたっぷりついたドーナツをドカ喰いしたり、ハーゲンダッツのアイスクリームを買い溜めして毎日寝る前に食べたりして、このひと月で八キロも太って顔もむくんでしまった。
普段なら寝る時間にベッドに入っても、スマホで伸一のイチモツに関するニュースを漁ってしまい睡眠不足に陥り、そうやって生活のリズムが乱れているせいだろうか、最近では部下たちが上げてきた企画書のデザインが甘いとか、説得力に欠けているとか、独創性に欠けるとか、部下のちょっとした落ち度やミスに「何度言えば分かるんだよ!」と言ってから自分でもビックリするほどの大声でキレたりしてしまうこともあり、とうとう先週社長の西條博子からランチに誘われ「最近疲れてるみたいだけどどうしたの?」と心配されてしまった。
社長の話ではこれまで見るからにスマートで頭が切れてミスもなくクールで完璧なビジネスマンのように見られていた剛志がそんな状態だったから、社員たちの間でも「岡山さん最近どうしちゃったのかな?」という声が上がっていたらしい。
これはマズイな。何とかしないと……。
そんな悩みをいつも通っているゲイバーのママにポロッと打ち明けた所、「それならアキラさんのお店行ってみなさいよ、きっといいアドバイス貰えるから」とこの店を紹介された。
昔から全てをビジネスライクに論理的に処理するタイプの剛志は悩みなんていうものは人に相談したりするものではなく自分で何とかして解決するものだと思っていたので占いなんて頼ったことはなかったし信じてもいなかったのだが、なんせ好きな人のイチモツが巨大化してしまい国の管理下に置かれてしまうなんていう前代未聞、人類史上初ともいえる問題はどんなに冷静に論理的に分析しようとしてもお手上げ状態だったので何でもいいから頼ってみようとすがる思いでやって来た。
雑居ビルの入り口を入る。電球が切れかかって点滅してる薄暗く長細い廊下を進むと奥に階段がある。埃をかぶった雑誌や段ボールや汚い雑巾やバケツなどが脇に並んでる階段を昇って行くと正面に「占いの園」の看板が見えた。
玄関の扉は空いていて紫色の透け透けののれんのようなカーテンが垂れ下がっていた。中からはエスニックなアロマの香りとシタールの音色が漂ってくる。紹介が無かったら絶対入らない怪しげな店だよなぁと苦笑いしながら「すいませーん失礼しまーす」と言って剛志が店に入ると「あーどーもいらっしゃーい」と声がして「二丁目の母」ことパッと見六十歳くらいのおネエで占い師のアキラさんが出て来た。
噂には聞いていたが凄いインパクトだ。まずアキラさんはガタイがいい。185センチくらいはありそうだ、そして肩幅が広い。身体を鍛えているのだろうか? 胸板がすごく厚い。その逞しい身体に子供の頃『マンガ日本の歴史』で見た卑弥呼みたいなオレンジ色の着物を纏っていて四連の長―い鎖のような金色のネックレスをぶら下げ両腕にも鎖のようなシルバーのブレスレットを付けていた。
二丁目のゲイの中には時々化け物みたいな奇抜なメイクやファッションをした人もいる。週に一度は二丁目に出入りしていたので剛志としてはそういう人たちには慣れているつもりだったがアキラさんの見た目のインパクトは想像を軽く超えていた。
「あの予約をした者ですが……」恐る恐る尋ねる。
「あー、まーちゃんのお友達の方ね」とアキラさんはニコッと微笑んだ。化け物が微笑む効果は絶大で、あぁ、この人は私に危害を加えようとしている訳ではないんだという動物が本能的に感じる安堵感からなのだろう、緊張が一気に緩むのが分かった。
「どうぞこちらへ」奥の部屋に進むアキラさんに付いて行く。
アキラさんが歩くと首からぶら下げた鎖のようなネックレスとブレスレットがジャラジャラと音をたて、その音は部屋にかかっているシタールの音楽と部屋に漂うアロマの香りと不思議なハーモニーを紡ぎ、そのまま付いて行くと本当に卑弥呼のいた時代に連れていかれそうな感覚に陥った。
タロットカードが何枚か無造作に並んでいるテーブルをはさんでアキラさんと向かい合って座る。
「初めてよねここは?」
「はい」
「男でしょ、悩みは、顔に書いてある」アキラさんは、剛志の顔を見ると微笑んでそう言った。
「はい」
「で、どうしたいの?」
「え……?」剛志は戸惑った。
伸一のイチモツが巨大化して以来、そのことで悩んでいることは確かだったし、なんとなく元に戻って欲しいとは思っていたが、自分が主体的にどうしたいか? ということは考えたことがなかった。自分はどうしたいんだろう……? そう考えていると
「好きな人を自分のものにしたいの?」園児に話し掛ける幼稚園の先生のような表情でアキラさんが言った。
「ええ、いや……というか…………」剛志は万引きで捕まって店長に叱られる中学生のように押し黙った。伸一を自分のものにしたいと言えばその通りなのだが、伸一はゲイではないし若い女の子が大好きだしついこの間までキャバクラの女の子を口説き落とすことに夢中になっていたみたいだし伸一を自分のパートナーにして毎日セックス出来るような関係になれるとは思っていない。その確率は月が地球に落っこちてくるくらい低いだろう。そのことはよく分かっていた。
「そばにいるだけで……」
剛志はゆっくり口を開いた。アキラさんは相変わらず幼稚園の先生のような表情でやさしく剛志を見つめている。ついさっき会ったばかりの人になんで自分は心をこんなに開いているのだろう……。剛志はそう思いながらも怪しげなシタールの奏でるメロディに乗せるように喋った。
「彼のそばにいられるだけで……それでいいんです」
部屋にはシタールのメロディがゆっくり漂うように響いている。
「でもそれが難しい状況なのよね、きっと」
「はい」
「つらいよねー、かなしいよねー、よくがんばってるわねー、えらいえらい、ほんとえらい」アキラさんはゆっくり頷きながらそう言って、不覚にも剛志はポロリと涙をこぼしてしまった。
「みんな悩みって根本から断ち切らないとダメだって思うのよね、でも根本から断ち切ることが出来るケースなんて滅多にない。だからみんな悩むのよね」
「はい」それは当り前のことだなと思いながらも剛志は応える。
「だからね、悩みとはね、寄り添うしかないの。今自分が出来ることを全部やってこれだけやっても願いが叶わないならそういう運命だったと割り切れるくらいまで寄り添わないとダメなのよ……いい? 悩みを断ち切ろうとしちゃダメ、いい、悩みを根っこから抱き締めてあげるの、分かる? そこから逃げちゃ駄目だから……」
アキラさんの解きほぐすような声の後ろでシタールのメロディが響いている。まるでアキラさんがヴォーカリストでシタールが伴奏者になった演奏会のようにアキラさんの声は歌声のように剛志の身体の中に沁み込んできた。
エスニックなアロマの香りが揺れるように漂っている。ブルーとオレンジの間接照明の照らされたアキラさんの姿は魔女のようにも女神のようにも見えた。時折アキラさんが手を動かすたびに腕につけた鎖のようなブレスレットがシンバルのようにシャリーンと音を立てる。
剛志の頭には伸一の巨大なイチモツの根っこにしがみつく自分の姿が浮かんだ。
そこから自分がアキラさんとどんな会話を交わしたのか覚えていない。気が付くと剛志は雑居ビルの前に立っていた。そしてこじれていた商談が成立した時のようなスッキリした気分になっていた。
アキラさんの言ったことに何か鋭い指摘や目新しい部分は全くなかった。ただ相談したことで問題がクリアになった。企画を立てやるだけのことをやってみる。それでだめなら仕方ない。次のトライに進む――なんだビジネスと一緒じゃないか……。剛志はそう思った。
FLYING FLOGSというベンチャー企業に入社して以来、社長の西條博子にさんざん言われてきたことだった。「うちみたいなベンチャーはね、大手みたいに時間をかけてマーケティングなんてやってる暇はないの、どんどんトライしてどんどん失敗する、それが出来るのがベンチャーの強みよ」――毎年新入社員が入るたびに社長はそう言い聞かせていたし、自分も事あるごとに新米たちに口うるさく伝えていることだ。
なんだ、いたってシンプルじゃないか……そんな風に思いながら何処へ向かう訳でもなくただ何となく歩いていたら白い門で閉ざされた小さな公園の前に出た。「閉門19時45分」と書いてあって中に入れないようになっている。閉じられた白い門の向こうに小さな滑り台が見える。そう言えば昔読んだ村上春樹の小説に主人公が滑り台の上に上って夜空を見上げると月がふたつ見えるっていうシーンがあったな……と思い出しふと見上げてみると綺麗な半月が出ていた。半月は餃子のような形にも見えるし、夜空が聞き耳を立てているようにも見える。
伸一も今この時、石垣島でこの月を見上げているだろうか……?
「悩みを根っこから抱きしめてあげなさい」というアキラさんの声が蘇ってきた。
石垣島に行ってみよう……。剛志はそう思った。