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イ・チ・モ・ツ 最終話
黒田憲一はその朝柴犬のハチを連れて、日課になっている山道の散歩をしていた。
細い山道をつたって海を見渡せる山の頂上まで上る。海抜一五〇メートルほどの小さな山だが結構な運動だ。
時刻は七時前、辺りはまだ薄暗いがハチはもうすっかりこのルートを把握していてトコトコと小さなシッポを振りながら憲一の前を歩いて行く。リードは付けていない。こんな田舎の山道をこんな朝早くから歩いている奴が俺意外にいるとしたら、死体を埋めに来た殺人犯くらいなもんだろう。
五十五歳の憲一は三カ月前、末期の食道ガンと診断された。ガンは全身に転移していて医者からは余命半年と言われた。手術や延命治療は受けないことに決めた憲一は三十年勤めた東京の出版社を退職し、生まれ育った高知県土佐清水市にある実家に帰省していた。
ガンを宣告されて以来、自分の死ぬ場所はここだと決めていた。もう何年も帰省していなかったのに、自分の命があと半年、と知った瞬間無性に故郷土佐の海が見たくなった。波音が聞きたくなった。土佐の潮風を浴びたくなった。
両親は二人とももう八十過ぎだがまだピンピンしていて親父はいまだに毎日畑に出てナスや生姜を作っている。自分よりも息子が先に死ぬっていう気持ちはどんなものだろうか……? そう思って二人の表情をチラチラと見てみたりするのだが、二人とも前に帰省した時とまったく変わらないのんびりした様子で過ごしているように見える。憲一にまだ目立ったガンの症状が出ておらず一見健康そうなもんだからリアリティが感じられないのかもしれない。そりゃそうだろう。俺だってまだ自分が末期ガンで余命三カ月なんて信じられないんだから……。
「憲一、もっと生姜いっぱいつけて食べや、そしたら治っから」食事の度に母親はそう言う。子供の頃風邪をひいた時にも同じことを言われた。母親はガンも風邪と同じように治ると思っているのかもしれない。
自分も親父も元々無口なもんだから、食事の時間喋っているのはもっぱら母親だった。母親が食器を片付けに行ったりすると親父と二人きりになって変な沈黙が続いてしまう。そんな時憲一は、子供がいればよかったのにな……とつくづく思った。
憲一の前を歩くハチは時々止まっては首をこっちに向け、憲一が付いて来るのを確認してまた軽やかに歩きだす。憲一は少し息が上がっている。
死ぬ前にせめて孫の顔でも見せてあげられたら……。多分最高の親孝行になったろう。そうは言っても、もうここ数年役立たずだからな……俺のムスコは……。ハチの後を追いかけながら憲一はそうつぶやいて笑った。
東京に住んでいる時両親に電話する度に子供はどうだ? と聞かれたが、さすがに俺最近インポでよ、もうアカンわ、とは言えなかった。
インポとイップスは似てるよな……憲一はよくそう思った。
イップスというのは誰でも出来るような基本的なプレイが、たった一度のミスをきっかけに出来なくなってしまうスポーツ選手の精神的な病いだ。高校時代野球部に所属していた憲一は、セカンドをやっていた荒木という先輩がイップスの病に陥った瞬間を見たことがある。ある日の練習試合で、なんでもない平凡なセカンドゴロをさばいた荒木先輩は、十メートル程度の距離のなんでもないファーストへの送球を大暴投してしまい、それが決勝点に繋がって試合に負けてしまい、その日以降荒木先輩はファーストへの送球が出来なくなってしまった。
なんでそんな小学生でも出来るような送球が出来ないんだ! お前ナメトんのか! と監督は荒木先輩の頬を平手で何発もはたき、それがかえって先輩の精神状態を追い詰めてしまい、荒木先輩は二度とセカンドが出来なくなってしまい、野球部も辞めてしまった。
自分が初めてインポになったかも? と気付いた時、憲一の頭に浮かんだのは不安げな顔でファーストへ送球しようとする荒木先輩の顔だった。
今まで当たり前に意識もせずに出来ていたがことが突然出来なくなり、アレ? おかしいぞ……こんなはずじゃ……? そう思えば思うほど深みにはまっていく。自信を失くしていく。あの時の先輩の苦しみが初めて理解出来た気がした。
憲一がガンの療養のために高知の実家に帰りたいと言った時、まあ療養と言っても治る見込みはないから死ぬまでの時間を過ごすためと言うのが正しいのだが、妻の博子は自分も一緒に行くといったが憲一はその申し出を断った。
博子はIT関連企業の社長だ。業界では知らない者がいないほど有名なやり手の経営者で、彼女が自伝を出版した時、憲一が編集を担当したことが縁で付き合いが始まった。
博子の会社FLYING FLOGSはまだまだ成長を続けていた。その成長ぶりは、女に経営が出来るはずないとか、あんなベンチャーなんかすぐポシャるに違いない、などとバカにしていた経団連の頭の古い爺さんたちがビックリして腰を抜かすほどのスピードだった。日本経済を活性化させるためにも頭の錆びた爺さんたちを蹴散らかして欲しい、お前には仕事に集中していてほしい、だから高知には俺一人で行くからお前はこのまま東京に残って仕事を続けてくれ、憲一はそう言って博子を説得した。
が、博子の申し出を断った本当の理由は、自分でもうまく説明出来ないのだがもう少し違うところにあった。
博子には悪いことしたな、という思いが憲一にはある。
博子は今年五十になったが、まだまだ綺麗だし、女としてはイケてるし、西條博子といえばキャリアウーマンの憧れの存在だし、言い寄って来る男だっているはずだ。そんなイケてる女を自分は満足させてあげられなかった――そんな後ろめたい思いが憲一の胸にあった。
夫婦というのはいつまでも新婚気分でいられる訳じゃない、とか、夫婦の愛の形というのはセックスをするとかしないとかそういうものを超えたところにある、とか……、ネットでセックスレスの相談サイトを見るとそんなことが書いてあったがそんな綺麗事や慰めは憲一には全く効果がなかった。男として自分は妻を満足させてあげられていないという思いはどうやっても振り払うことが出来なかった。
博子がこっそりパソコンでエッチな動画を見ながら自慰をしていたのも知っていた。博子が寝ている間にこっそりその動画を見たことがある。その動画には若いマッチョな男優の逞しくそそり立つイチモツに女がしゃぶり付き、息を切らしての正上位、騎乗位、駅弁に立ちバック……これまでかというくらいにあそこをバンバン突かれ、悶え、乱れる姿が映っていた。深夜のリビングでこっそりそれをみた時の敗北感……。あれは忘れられない。
その夜憲一は久しぶりにイップスになった荒木先輩の夢を見た。スーパーにドリンクの買い出しに行っていた憲一が学校に戻って来る途中、校庭の外で野球部を辞めた荒木先輩は野球部の練習をこっそり一人で眺めていた。荒木先輩は、「先輩」と声を掛けるのもためらわれるくらい気の毒な悲しい顔をしていた……。
目の前に急な階段が見えてきた。
ハチがその前で振り返り、大丈夫? 付いて来られる? という表情をこちらに向けている。心臓破りの階段――憲一はこの階段をそう名付けていた。海抜一五〇メートルしかないこの山道の中で一番急な上りだ。ここが一番きつい。ここを越えれば山頂まではもうすぐだ。
山道は不思議だ。山頂まで行きたいのだからずっと同じ傾斜の上り坂にしてくれれば楽なものを、上り道の中にわざわざ下り道が混じっている。せっかく五十メートル上っても下り道でまた二十メートル下がって……また上って、また下って……そんな行程が続く。
よし、行くぞ、心臓破りの階段の一段目を右足で強く踏み込む。ハチは軽やかに階段を上って行く。その後ろを憲一は息を切らしながら上った。
ピッピッピッ、ポーン。
階段を上っている途中、腕に取り付けたスマホから七時の時報が聞こえ、ラジオのニュースが始まった。
七時のニュースをお伝えします。今朝未明、昨日まで東シナ海に浮かんで
いたはずのイチモツの姿が見えなくなっているとの情報が石垣島の自衛隊
基地より官邸に寄せられました。これを受けて大河内官房長官はさきほど
会見を開き、イチモツの大部分が一夜にして消失したのは事実であり、そ
の行方についてイチモツが海に沈んだのか、何者かによって切断された可
能性があるのか、現在、衛星写真などの解析を進め、真相を究明している
と述べました。NHKが政府関係者に取材したところ、昨夜石垣島の自衛
隊基地に常駐していた複数の自衛隊員が、イチモツがもの凄いスピードで
縮む様子を目撃した、との情報が上がっているようです。この事態を受
け、昨日行われた国民投票の結果をどう処理するのか、官邸では至急対応
を協議するということです――
へえー、あのイチモツが……。
階段を上りながら憲一はつぶやいた。
この半年ほど日本中があのイチモツのニュースで持ちきりだった。まるで日本中がおかしな熱に侵されていたようだ。
あのイチモツが出現したせいで妊娠件数が減った、あのイチモツのせいでインポの男性が増えた、いや、あのイチモツこそ日本男児の象徴だ、強い日本の象徴だ……、そんな論争がイチモツ支持派とイチモツ反対派の間で繰り広げられた。
昨日はあのイチモツの是非を問う国民投票が行われたが、憲一は投票に行かなかった。余命三カ月の人間にとって遠く離れた東シナ海で起きている領土問題なんてどうでもいいことだ。おやじもおふくろも、隣の仙田さんも郵便局のあんちゃんも……みんなあのイチモツについてああだこうだと話していたが憲一はまったく関心が持てなかった。
でも……あのイチモツが縮んだということは俺のインポも治るのかな……? ふと憲一は思った。
まあ関係ねーか。俺のアソコが役立たずになったのはもう何年も前からだったし、あと三カ月の命の人間がビンビンになってもしょーがねーだろ。ご臨終です、と告げられた自分の股間がもっこりしている姿を想像して憲一はちょっと笑った。ビンビンになったイチモツがつっかえてお棺のフタが閉まらなかったら末代までの恥だよな……。残された家族も恥ずかしくてたまったもんじゃないだろう。葬儀屋と看護師たちがイチモツを収めるのに四苦八苦している姿を想像したら笑いが止まらなくなってきた。
地面から盛り上がった木の根っこを足場にしながらハチが心臓破りの階段を器用に上って行く。
そういえばあのイチモツの持ち主の竹内伸一という男は博子の会社の社員だったらしく、そのことで博子も何度か新聞やテレビからインタビューを受けたと言っていた。博子によれば竹内伸一という男はどこにでもいるようなごくごく普通の若者だったらしい。
しかし不思議なことが起きるもんだよなー……。自分のイチモツが巨大化した時の本人の気持ちはどんなものだったんだろう……? インポになるのも辛いが、あんなに巨大化しちゃって世間の注目を浴びるのはもっと辛いし恥ずかしいだろう。
と、突然、ワン! と吠えたハチが心臓破りの階段の頂上近くで道を外れ急な斜面を上り始めた。
「オイ、ハチ! どこ行くんだ?」
ハチは興奮した様子で振り向きもせず勢いよく上っていく。
「オイ、ハチ、俺は余命三カ月なんだぞ……」
そう言いながら仕方なく憲一は軍手をはめた手で木の根っこをつかみ、ズボンを土で汚しながら斜面を上ってハチの後を追いかけた。
息が切れる。ハチは必死に走って行く。
十二月の早朝だというのに今朝は凄く暖かい、というより暑いくらいだ。額の汗を拭いハチを追いかけながら憲一は小学生の頃を思い出していた。
あの頃もよく山の中を探検した。服が汚れてしまうことも、シャツが汗でビショビショになることも全く気にしなかった。こんなにでかいヘビがいたんだとか、虹色の蝶々を見つけたとか、誰も知らない滝を見つけたとか、謎の洞窟があったとか……そんな発見をしてみんなを驚かせるのが楽しみだった。この山の中にはきっとまだ誰も見たことのないものがあるはずだと信じていた。それを発見して母親や、父親や、友達や、学校のみんなをビックリさせてやりたかった。
「オイ、ハチ! どこまで行くんだよ」
木の幹につかまり、剥き出しになった木の根っこをステップにして、草を掻き分け、ハチを追いかけて道の無い斜面を上った。
二、三分かけて上るとそこだけ木がない小さな広場があり、そこでハチがこっちを向いて舌を出して待っていた。
「なんだよハチ、なんかあったのか?」
ハチがもう一度ワン! と吠えた。
ハチはその小さな広場の奥の方に立っている。その先は崖だ。近付いて行くと海が見えた。
「なんだよ、なんか見つけたか?」そう言って憲一が近寄って行った時である。夜明けの陽射しと共に崖の斜面に明るいものが見えた。
なんだ……これは……?
海に面した崖、その斜面一面に季節外れの黄色い菜の花が咲き乱れていた。
なんだ……? これは……?
憲一はしばし呆然とその菜の花畑を見つめた。
いつから咲いていたんだろう……?
今までまったく気付かなかった……いや、多分昨日まではなかった。山頂を過ぎた後の下り道からこの崖の斜面が見える。昨日の散歩の時にはなかったはずだ。
上ってくる太陽の光が少しずつ夜の闇を溶かし、朝日に照らされた菜の花が黄色くほんのり輝き出した。海から強い風が吹いている。強烈な春の匂いがした。
凄いな……これは……。
美し過ぎる。こんなに美しいものを見たのは初めてかもしれない。自然と目に涙があふれてきた。
ありがとな、ハチ、こんな凄い景色見つけてくれて。憲一は隣でクンクン鼻を鳴らしているハチを抱き締め頭をなでた。
週末に博子がやって来る予定だ。博子にこの景色を見せてやろう。きっと驚くはずだ。
憲一はそう思った。
《完》