【短編小説】便意はある朝突然に・・・
序
「まさか、こんなことで……」
売り上げ5兆円を誇る日本屈指の家電メーカー○×電機の社長であり、経団連の会長を務める川屋良治が人生最大のピンチに陥ったのは、リーマンショック後の大不況の時でもなく、外国企業からの敵対的買収にみまわれた時でもなく、JR五反田駅の公衆トイレでウンコをしていた時だった。
毎日黒塗りの車でお出迎えなんてことされていたら世間一般の常識も社員の気持ちも分からなくなる。そういうポリシーから川屋は毎日電車で通勤することにしていた。しかし、まさかそのことが、こんな危機を招くことになるとは……
1、
その朝、川屋はいつものように朝六時に起き、アジの開きと納豆とみそ汁といういたって質素な朝ごはんを食べいつものように家を出て歩いて駅に向かった。
徳川家康が天下をとった一番の秘訣は軍事的才能でも外交的才能でもなく長生きをしたことだ――約10年前、社長に就任した頃に読んだ司馬遼太郎の小説の中にそんな一節があってなるほどと思いそれ以来健康オタクだったといわれる家康にならって健康に気を使うようになった。歩くのが何よりもいいというので毎朝駅まで15分かけて歩き駅や会社ではなるべくエスカレータを使わず階段を上るようにしている。そのせいか72歳になった今でもいたって健康で肌つやも良く、同年代の経営者たちよりもずっと若々しく見える。それが川屋の自慢だった。
残暑も過ぎ去った10月初旬、今朝もいい天気だ。川屋は暑くも寒くもないこの季節が一番好きだった。食欲の秋、スポーツの秋、読書の秋、この季節は人間の身体が最も活発になる時期のような気がする。さあやるぞ! という気持ちを雲ひとつない爽やかな空が歓迎してくれているように感じた。
駅までの気持ちのいいウォーキングを終え、いつものように井の頭線で会社に向かっていた川屋がかすかな便意を感じ始めたのは電車が駒場東大駅を過ぎた頃だった。終点の渋谷駅で降りた川屋はここで用を足していくかと思い渋谷駅ホームにあるトイレに入ったのだが、午前8時20分、ちょうど通勤ラッシュのこの時間は公衆トイレのゴールデンタイムともいえる時間帯で個室トイレはすでに埋まっていて、学制服を着た高校生、スーツを着た中年サラリーマン、リュックサックを背負った学生風の若者……と3人の順番待ちの乗客が個室の前に並んでいた。
これは待ってられないな……、仕方ない会社まで我慢するか。○×電機の本社ビルは五反田駅から徒歩5分の場所にある。渋谷から五反田まで山手線で7、8分。15分くらいは余裕で我慢出来るだろう。そう判断した川屋は井の頭線渋谷駅のトイレを出て歩き出した。後で振り返ってみれば少々待たされてもあそこに並んでおくべきだったのだ……。
2、
「お急ぎのところ大変申し訳ございません、先程田町駅におきまして車両故障が発生したため現在安全の確認が取れるまで運転を見合わせております。お急ぎのところ大変申し訳ございません――」
そのアナウンスが聞こえてきたのは川屋の乗った山手線内回りの電車が目黒駅を過ぎた頃だった。吊革につかまりながら既に便意が並々ならぬ状態になっていた川屋はそのアナウンスを聞いた瞬間大きな後悔の念に駆られていた。なぜ少し待ってでも渋谷駅で用を足さなかったのだろう、自分の危機管理の無さに川屋は大きく反省していた。ちょっと頭を巡らせればこういう事態も想定出来たはずだ。やはり危機の芽は早いうちに摘み取っておくべきだった――この時点ではまだそんなふうに突然襲ってきた便意を起業の経営危機に置き換えて考える余裕があった。
しかし電車が止まって10分が経過した時、川屋の怒りは自分に対してではなくJRに対する怒りへと変わっていた。こんな朝の忙しい時間帯に車両故障とは。JRはいったい何をやっているんだ。怒りがこみ上げてきた。JR東日本の社長とは経団連の会合でよく顔を合わせる。今度会った時は、経団連会長として厳しく言ってやろうと思った瞬間、
お腹がゴロゴロ、ギュルギュル……と鳴った。便意の第2波がやって来たようだ。
先程から川屋の便意は非常事態宣言を出してもいいくらいの状態になっていて、真っ直ぐ立っているのもつらく、さっきから両手で吊革につかまりながら、かつて巨人の助っ人として活躍したクロマティのバッティングフォームのようにお尻を突き出して音が出ないよう何度もすかしっ屁を繰り返していた。
○×電機は原子力発電所の製造とメンテナンス事業も行っている。原発が事故を起こした時原子炉格納容器の圧力を下げるために放射性物質を含む気体を排出する「ベント」という作業を行うのだが、さっきから川屋が行っている「すかしっ屁」はこのベントの作業に似ていた。
「ベント開始!」、すかしっ屁をする度に川屋は心の中でそう呟いた。これで少しは俺の格納容器の圧力も下がったはずだ。大爆発は避けられるだろう。今の川屋は、その非科学的な希望的観測にすがるしかなかった。しかしウンコを我慢している72歳の老人が発したすかしっ屁が臭くないはずはない。後ろにいたサラリーマンが広げた新聞をパタパタさせて扇いでいるのが分かり、CSR――企業の社会的責任を重視する経団連の副会長として車内環境を著しく汚染させてしまった自らの行為を大いに恥じ、申し訳ない思いでいっぱいになった。
電車が止まって15分が経過した。この頃になると川屋にはもはや怒る気力もなくなってきていて、肛門へ向かって突き進もうとするそのバクダンをなんとかお尻の筋肉で締め付け、ヒ―ヒ―フーとまるで陣痛の始まった妊婦のように呼吸をしながら電車が動くのを祈るような気持ちで待っていた。ヒ―ヒ―フー、ヒ―ヒ―フー、はたしてこの呼吸法が便意を我慢するのに効果があるのかどうか分からなかったがとりあえず思いついたことは何でもやってみないとこの便意とは闘えそうになかった。ああ、なにか他のことを考えて気を紛らわそう、そう思った川屋は中刷り広告に目をやった。
「いつなのか!? 日本財政破綻のXデー」
週刊秋春の見出しが目に入る。そうだ、この国は1千兆円もの借金を抱えている。だからこそ大きな改革が必要なのだ。そのために私も一肌脱いで規制改革委員の委員長にもなって政府に協力している。そういうことを考えていると便意が少し和らいだ気がした。そうだ私には使命があるんだ。日本を救うための改革を実行するという使命が。今改革をやらなければいつか日本の国債も円という通貨も日経平均株価も大暴落するだろう。そうだ大暴落だ、ん? 大暴落……? 川屋の頭の中にふとリーマンショック時の日経平均株価の大暴落を示すチャートが浮かんだ。大暴落……、ストーンと落ちる……、落下……、ボットン便所……、ボットン便所に落ちるウンコ……、ホッとする俺……。
マ、マズイ!
日本の財政問題について考えていたのがいつのまにかまたウンコに戻ってしまった。再び強烈な便意が川屋を襲った。ウンコが更に肛門に向かって数センチ落下したような気がした。マズイ、このままじゃマズイ、他の記事だ、他のことを考えなければ、そう思った川屋がドアの上のモニターに目をやると――
「出すものは出す! これでオサラバ頑固な便秘」――モニターには「通便快速」という便秘薬のCMが流れていた。
お、おお……。
よりによってなぜこんなCMが……、更に強い便意が川屋を襲う。かわいいウンチのキャラクターがニッコリほほ笑んでバイバイしていた。やめろ! こっちに来るな! 川屋はウンチのキャラクターに向かって大声で叫びたい衝動に駆られた。
駄目だ、広告は駄目だ。そう思った川屋は窓の外に目をやった。窓の外に線路が見える。線路の先には雑草が生えた草むらがあった。あの草むらで野糞が出来たらどんなに気持ちいいだろう……そう思ったとたん肛門の力がふっと抜けウンコが更に数センチ肛門に向け移動してきた。イカン、イカン、気を緩めたらイカン、
きっと間に合う、きっと大丈夫だ。
川屋は頭の中に大好きだったNHKのドキュメンタリー『プロジェクトX』の映像を思い浮かべた。大好きなテーマ曲、中島みゆきの『地上の星』のメロディが流れてくる。あの番組では窮地に陥りながらも希望を失わず奇跡の成功を成し遂げた企業人たちが毎週毎週紹介され、それを観て川屋は何度も涙した。同じ企業人としてもの凄く共感出来るのだ。放送が終わった今でもあの番組はちょくちょく録画したやつを見返して仕事へのモチベーションを上げるのに生かしている。そうだ、あの『プロジェクトX』に登場した企業人たちのように希望を失っちゃいけないんだ。少々大袈裟かもしれないが川屋は必死だった。経団連の会長を務める川屋は、自社の○×電機のことだけでなくこの日本経済全体のことを考えなければならない使命がある。
農業、医療、環境、雇用、育児、観光、ベンチャー育成……日本経済がこれからも成長していくためには突き破らなければならないいわゆる「岩盤規制」というものがたくさんある。規制によって守られた既得権益を手放さない抵抗勢力たちがいる。政府の規制改革委員会の委員長でもある自分はそういった勢力と闘っていかねばならない。
そんな自分が、もしもこんな満員電車の中でウンコを漏らしたりしたら……。山手線の車内でウンコを漏らした委員長の意見を抵抗勢力が聞いてくれるだろうか……? ウンコを漏らした委員長の意見は国民に対して説得力を持つのだろうか……? ウンコを漏らした社長の言うことを社員が聞くだろうか……?
ダメだ。俺はこんなところでくじける訳にはいかん。川屋は必死で肛門の筋肉を締めつけ、心の中で中島みゆきの『地上の星』を歌った。
(つばめよ高い空から教えてよ地上の星を、つばめよ地上の星は今何処にあるのだろう――)
つばめよ教えてくれ、あと何分で電車は動き出すのか、いったいいつになったら俺は便器に辿り着けるのか、地上の便器はどこにあるんだ! つばめよ教えてくれ、助けてくれ!
川屋は祈った。
そして、絶対大丈夫だ。絶対に間に合う。俺には出来る俺には出来る……クロマティ―のバッティングフォームの体勢でそうつぶやきながらも、川屋は一方で、もしもこのままここで漏らしてしまったら? という最悪のケースを考えていた。
もちろん全力は尽くす。しかし優れたリーダーというのは常に最悪の事態を想定しそれに対する策を準備しておくものである。
1951年生まれの川屋は大正生まれの厳格な父親から「人様にだけは迷惑をかけるな」と言われて育った。その教えは今も身にしみついている。だからどうしてもここでウンコを排出しなければならなくなった時でも、他の乗客になるべく迷惑をかけてはいけない、そう考えていた。
どうしても我慢出来なくなった場合はどうすればいいだろうか……?
「申し訳ございません、わたくしウンコをしたくなってしまいました、ご容赦ください」と大きな声で叫んで、座席に座っている乗客にどいてもらい窓を開け放ってそこからお尻を出して線路に向かってブリッと一気に発射する――それが一番迷惑のかからないやり方かもしれない。車内に匂いが充満することもない。顔をしかめる人もいるかもしれないが、電車が動かないというこの状況だ。どうしてもウンチが我慢できなかったんですと誠心誠意説明すれば、きっと他の乗客の方々だって分かってくれるはずだ。
10年前、社長に就任して間もない頃に大規模なリストラを行った時がそうだった。社内からは大反発が起こったが、川屋は自ら全国の支社や工場に足を運んで現在の会社の経営状況を説明し、もはやリストラはやむを得ないんだということを誠心誠意説明して回った。あの時と同じだ。トップとして大事なのは情報公開と説明責任だ。私のウンチは現在発射寸前という状況です。車内に発射するよりは線路に発射した方がいいでしょう。そう説明すればきっと理解してくれるはずだ。川屋はそう考えていた。
しかし車内にはこれだけの人数がいる。70を過ぎた今、若い頃と比べたら羞恥心は大分薄れている。が、大勢の前でウンコをするのは初めての経験だ。これだけの視線に自分は耐えられるだろうか? しかも最近は皆スマホを持っているから自分がウンコをする様子を動画で撮影する奴もいるかもしれない。そしてその動画がSNSにUPされ日本中に、いや世界中に拡散されてしまう恐れもある。さすがにそれは避けたい。
そしてこの「窓から脱糞作戦」には大きなリスクも伴う。
もしもお尻を出した時に電車が動き出したらどうなるだろう……? バランスを崩してクソまみれになりながら座席の上ででんぐり返ししてしまう可能性がある。そうなったらわが社の評価はどうなるのだろう? 株価はどうなるのだろう? なんとかバランスを崩さずに踏ん張ったとしてもそのままケツを出したままの姿勢で五反田駅のホームに辿り着いたらそれこそ末代までの恥だ。上場廃止、なんてことはないだろうが、きっと世間を騒がせ会社のイメージを著しく棄損させた責任を取って自分は社長を辞任することになるだろう。自分の経営手腕が原因で辞任するなら納得出来る。しかし、ウンコを漏らして社長のイスを譲るなんて不本意過ぎる。
ダメだ。「窓から脱糞作戦」は中止だ。となると――。
川屋はふと、さっきから右腕と右のわき腹の間にきつく挟みこんでいるイタリア製のセカンドバッグを見つめた。
そうだ! これだ! いざとなったらこのセカンドバッグで受け止めよう。それしかない。我慢に我慢を重ねたせいで肛門はいつでも発射OKな状態になっている。ズボンを下ろしてしゃがみ込めば一瞬でブリブリッと三秒もあれば全て出しきれそうだ。それをこのセカンドバッグで受け止めればいい。チャックを閉めれば匂いの拡散も最小限に防げるだろう。人様に迷惑をかけるなという両親の教えを守ることも出来る。それに加えてこの作戦のいいところは電車内が満員なことが幸いしてウンコをしたことに気付かれるのが周りにいる数人で済むことだ。彼らが人間のカーテンになってくれる。
よし、決めた! 川屋が思い切ってしゃがみこんだその時――
「皆様大変お待たせいたしました、只今安全の確認が取れましたので発射いたします」
車内アナウンスの声が響いた。
「ごたんだー、ごたんだー」
電車が五反田駅に止まった瞬間、川屋は夢中で駆けだした。
3、
フー。なんて厳しい闘いだっただろう。コロナショックの後、大赤字の決算を発表し株主総会で株主たちから締め上げられた時も厳しかったが、今日の便意との戦いはその時以上の厳しさだった気がする。
ハー、この達成感、出すべきものを出せる、なんて幸せなんだろう……。
出す物を出してホッとしたその時である。川屋はふと違和感を覚えた。
ん? 何だこの匂いは……?
トイレの中に漂う匂い。自分のウンコの匂いの中に時々甘ったるい化粧のような香りが混じっていることに気付いたのだ。そして次に――
ん? 何だこの音は……?
トイレの個室の外からカツカツカツという足音が聞こえてきたのだ。それは男性の靴音よりも細いハイヒールのような音だ。ん……? 嫌な予感が川屋の全身を包んだ。これはもしや……? そう思った瞬間、個室の外から若い女の声が聞こえた。
「マジちょー混んでんだけど、」、「ってゆーか超くさくなーい?」、「お父さんの入った後みたい」、「マジ超ウケる」
砂浜に打ち寄せた波がサーッと音を立てて引くように、顔面の血が引いていく音が聞こえた気がした。
もしかして、ここは、ここは女子トイレか……?
女子トイレなのか!?
やっちまった、やっちまった、これは完全にやっちまった!
電車の中でウンチを漏らすことも相当屈辱的なことだ。しかし、それはやむを得ない生理現象で同情してくれる人も多かったはずだ。しかし70過ぎたおっさんが女子トイレに入っているのは法に触れる犯罪行為だ。変態行為だ。誰も同情する者はいないだろう。ただ間違えただけだといういい訳が通るだろうか? いや無理だろう。
なぜだ、なぜ神はこんなにも多くの試練を与えるのだろう……。キリスト教徒でもないのに、川屋は思わず「オウ、ジーザス……」とつぶやいていた。
日本経団連で副会長を務め、政府の規制改革委員会で委員長も務め、TPPや派遣労働に関する規制緩和などを提案している川屋には敵も多かった。左翼系の新聞や雑誌には、「アメリカの手先」、「悪の権化」などと批判された。社内にも敵は多い。その川屋が五反田駅の女子トイレで痴漢行為をして逮捕されたなんてことになれば連中は大喜びするに違いない。きっとマスコミも大騒ぎだ。
そんなことは断じて許されない。日本経済のためにも、この国のためにも俺はここから脱出しなきゃいけないんだ。ここに入るところを誰かに見られただろうか? ウンコを漏らさないことしか考えていなくて周りなど見ていなかった。しかし、誰も騒がなかったところをみると運良く誰にも気付かれなかったのかもしれない。不幸中の幸いだ。よし、何とかしてここを抜け出そう。しかしいったいどうすれば……? 日米貿易摩擦、リーマンショック、外資による敵対的買収……固定観念にとらわれない思い切った決断とアイデアで数々の経営危機を切り抜けてきた川屋にも、誰にも気づかれずに女子トイレから抜け出すための名案は思い浮かばなかった。
そうだ! こういう時は恥を忍んで人の力を借りるしかない。優秀なリーダーの条件とは優秀な部下を持っていることである。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康……天下人となった彼らに共通するのは優秀な家臣を持っていたことだ。そうだ、俺にも優秀な部下がいる。こういう時は彼女の力を借りよう。そう思って川屋はスマホを取り出し秘書の江藤幸子にメールした。メールを打つのは苦手だったがこの状態では電話は無理だ。声も出せない。震える手で川屋はメールの件名に「SOS」という文字を打ち込んだ。
4、
江藤幸子のもとに川屋からのメールが届いたのは午前8時32分、五反田にある〇×電機本社の秘書室でメールチェックをしていた時だった。
「SOS」という件名のそのメールを読み終えるや否や幸子は秘書室のドアを開け駈け出していた。エレベーターに向かって廊下を走りながら総務の平山に電話をかける。「あ、平山部長、社長に緊急事態です、至急車を地下駐車場に回してください」
秘書の仕事はどんな無茶ぶりに応えることである。
「1時間後に神楽坂の料亭でのランチをセッティングしろ」、「明日のゴルフは中止して野球観戦にするからドームのチケットを取ってくれ」、「孫が乃木坂なんちゃらとかいうアイドルのサインが欲しいって言ってるんだけど手に入るかな?」……突然社長の口から発せられる要求に即座に対応する、これがわたしたち秘書の仕事だ。
こういう話を学生時代の友達にすると、「わー大変だね、よく辞めようと思わないね」と言われたりするのだが、確かに大変な仕事であるが幸子はこの仕事は自分の転職だと感じていて、むしろ「そんなの無理だよー」と思うような無理難題を突き付けられれば突き付けられるほど幸子の秘書魂は燃える傾向があった。
そう、自分はトップの人を支えることに喜びを感じる「THE秘書タイプ」の人間なのである。
昔から自分は前に立つタイプではなく、小学校の国語の授業の時みんなの前で教科書を朗読するときも顔が真っ赤になって声が震えてしまうような子で、とにかく人前で発言したり目立ったりすることが大嫌いだった幸子が自分の居場所を発見したのは中学の軟式テニス部のマネージャーになった時だった。
元々は選手として入部した幸子だったが、入部から3カ月たってもボールがラケットに当たらないというあまりの運動神経の悪さに時分でも辟易し、そんな幸子を見かねた顧問の先生の「どうだ江藤、マネージャーでもやってみるか」という一言で幸子の人生は大きく変わった。
観察力だけは異常に人より長けていて、あ、今先輩汗かいてるなと思えばさっとタオルを持って行き、太ももやふくらはぎの筋肉を痛めている選手がいると知って、ケガ再発と痛みを和らげる最新のテーピング技術をネットで検索してマスターし、夏の合宿ではみんなが熱中症にならないように自家製の梅ジュースを作って行き「わー、これおいしいー」、「幸子が作ったの!?」、「すごーい」と褒められ、美人でカッコ良くてテニスも超上手いみんなの憧れの羽生田エリカ先輩からも「さっちゃん、わたしこのドリンクの味ちょー気に入ったから今度の大会の時も作ってきてくれる?」と言われあまりの嬉しさに目眩がしそうになりながらも「はいもちろんです!」と答え、エリカ先輩が挑んだ最後の大会で先輩がベスト4まで進み最後惜しくも準決勝で敗れた後に「さっちゃん、ありがとね、このドリンクのおかげでここまでこれた」と言われた時には「幸子が負けたみたいだったね」と後々部員のみんなにからかわれるほどみんなの前で号泣してしまった。
自分は生まれながらの「THE秘書タイプ」なのだ。
そのことに気付いたこの時から幸子は組織における自分のポジションを確立し生まれてきた意味を把握した。高校では生徒会副会長として会長を支え、大学では文化祭実行委員会の副委員長として委員長の仕事を献身的に支え、その仕事ぶりは後輩たちから「伝説のナンバー2」と評された。当然それだけ仕事が出来る幸子がトップに立つよう推す声も上がったが、幸子はトップに立つことはかたくなに拒み、トップを支える役割に徹した。
自分は人が喜ぶところを見るのが好きで、人に尽くすことが好きで、人の役に立つことに快感を覚えるタイプなのだ。上京して初めて渋谷の駅前のハチ公像を見た時は他人とは思えなくなり目頭が熱くなった。
そんなマゾヒスティックなまでの秘書魂を備えた幸子にとっては今日の社長からの要求は魂が震えるほどの興奮を覚えた。
「間違えて五反田駅の女子トイレの個室に入ってしまった。ここから誰にも気づかれることなく脱出させてくれ」――こんな任務は今まで聞いたことがない。しかしハードルが高ければ高いほど幸子の秘書魂は燃え上がる。
社長からのメールを受け取ったその瞬間から、幸子の脳みそのCPUは社長を女子トイレから脱出させる作戦についてフル回転でシミュレーションを開始していた。
チン!
エレベーターが一階のエントランスに着いた。時刻は8時47分。9時の始業に合わせ大勢の社員たちが歩いて出社して来る。
エントランスの隅に立ち幸子は監視カメラのように出勤して来る社員たちをチェックした。ちがう、ちょっと背が高すぎる、ううん、あれも違う、やせ過ぎだ。うーん、あれか? いや違う、あ、いた! あの人だ!
身長165センチくらいで少しぽっちゃり方の女性社員。幸子はその女性へ向かって勢いよくダッシュして話し掛けた。
「すいません、わたくし秘書課の江藤と申しますが、只今緊急事態が起きまして是非ご協力を願いたいのですが、もちろん報酬はお支払いいたします」
「は、はあ、」と驚いた様子で女性が頷く。
「それではこちらへ」と言って幸子は女性を役員専用のエレベーターへ案内した。
5、
「どれも、パッとしねーなー、なんか大きなニュースねーのかよ」
そんな風に一人愚痴っていた汐留テレビの朝の情報番組『採れたてワイド』のディレクター、田崎誠の元に「五反田駅で何か大きな事件があったようです」という情報が入って来たのは午前9時15分のことだった。何人かの記者に電話で確認したところ現場は五反田駅構内で不審物が見つかり現在警視庁の爆発物理団が出動したらしい。その話を聞いて田崎の脳細胞が勃起したかのような興奮で満ちた。
「取材班、今すぐ現場へ向かえ!」
周りに指示を出しながら田崎は小さくガッツポーズをした。ここから五反田までは車で15分くらい、渋滞しても30分はかからないだろう。よし。『採れたてワイド』の放送は10時まで、これなら放送終了までに十分間に合う。
世間から見れば不謹慎な話かもしれないが、ワイドショーのディレクターとしては大きな事件が起きれば起きるほど番組の数字は上がるので、社会が平和であってはならない。世の中に不幸な人が増えれば増えるほどワイドショーのディレクターは幸せになるのだ。
神社にお参りするときには必ず「何か大きな事件が起きますように」と願っている。立てこもり事件、大臣の辞任発表、ゲス不倫、泥沼離婚……不幸なニュースよやって来い、でっかい事件よ降ってこい……それが田崎の口癖だった。
五反田駅構内で見つかった不審物は小さな赤いキャリーバックらしい。多分おっちょこちょいな乗客が置き忘れた可能性が高いような気がするが、退屈な日常に飽き飽きしている視聴者はこういう速報に喰いつく。「一体何が起きるんだろう?」、「もしかしたらすごい事件かも」視聴者の逞しい想像力によって数字はグングン上がるのだ。
「他の局がまだ気づいていませんように……」
スタジオへ向かうエレベーターの中で田崎は目をつぶって一人祈った。
6、
コンコン、コン、コンコンコンコン。
ようやく来てくれたか……。トイレの個室にこもっていた川屋はそのノック音を聞いた時、合格発表の掲示板に自分の数字を見つけた受験生のように「あぁ」と喜びの嗚咽を漏らした。
「私がトイレに付いたら周りに人がいないのを確認して社長のいる個室のドアを二回、一回、四回、とノックします。そしたらドアを少しだけ開けてください」先程秘書の江藤幸子からはメールが届いていた。
扉を開けるとそこには紙袋を提げた江藤幸子が立っていた。
「ありがとう、江藤くん!」と言った川屋に対し、
「シッ! 声を出さないで下さい!」と江藤が指を口に当てて制した。
いかんいかんマズイ。そうだった。確かに江藤くんの言うとおりだ。危ない危ない。見慣れた秘書の顔を見てホッとしたせいでついつい「絶対に声を出さないでください」という江藤くんからのメールでの忠告を忘れてしまっていた。
まだ終わったわけじゃない。仕事と言うのは最後の仕上げが肝心だ。油断は禁物。しょうがないなぁ……いつも自分が部下に言っていることじゃないか。川屋は狭い個室の中で反省した。
するとメールが届いた。
(紙袋に入っている服に着替えてください)
メールにはそう書いてあった。
おお、何て優秀な部下なんだろう。「SOS」のメールを発信してからたった20分でここまで対処するとは。彼女は一生我が社で面倒を見なきゃいけないな。まずは俺のポケットマネーから今回のお礼をして人事に計らって昇給もしてあげよう。これは決して俺の私心ではない。こんな緊急時に冷静に迅速に対応出来る彼女は我が社に、いや、この日本に絶対必要不可欠な人材だ。
そんなことを考えながら川屋はバッグの中のその洋服に着替え始めた。
終章
「おーい、長谷川、準備はいいか?」
スタジオのディレクションルームから田崎は五反田駅にスタンバイしているリポーターの長谷川由紀恵に声を掛けた。由紀恵は汐留テレビ入社1年目の新人アナウンサーだ。
「はい聞こえます」
モニターにカメラの前に立つ長谷川と五反田駅前の様子が映る。駅前のロータリーにはたくさんのパトカーと停まっていた。
「どうだ、他の局は来てるか?」
「あ、ちょうど今、あちらに台場テレビさんが来ました」
カメラが台場テレビのクルーを映す。
「よし、じゃあ急ごう、2分後にそっちに振るからよろしくな、あ、あと、長谷川、分かってんだろうけど、大袈裟にな、大袈裟に伝えるんだぞ」
「了解です」
由紀恵から快活な声が返って来た。由紀恵は新人だけどセンスのいい子だ。きっと上手くこなしてくれるだろう。
「スタジオ、いいか、じゃあ、五反田の現場に振って」
田崎はスタジオにいるADに指示を出した。
「ここで速報です、たった今事件の情報が入ってきました、東京のJR五反田駅構内で不審物が発見された模様です、現場と中継がつながっています、五反田駅の長谷川さーん」
「はい、こちらJR五反田駅前です。ご覧ください先程からたくさんの警察車両が集まって来て騒然とした様子です。こちらがJR山手線の改札口なんですが、こちらの奥、駅構内で不審物が発見されたということで現在警察により規制線が張られ入場が制限されている状態です! 先ほど白い防護服に身を包んだ爆発物処理班とみられる方々が5人ほど構内に入って行きました。現場は非常に緊迫した状況です!」
「長谷川さん、不審物が見つかったとのことですが、それはいったいどのような物なんでしょう?」
「はい、駅員の方に取材したところ、小さな赤いキャリーバッグとのことでした」
「赤いキャリーバッグ?」
「はい」
「なるほど、で、現在乗客の皆さんは全員駅構内から避難されたということでしょうか?」
「はい、先ほどから駅員の方、警察の方の誘導によって続々と乗客の方が駅の外に避難していまして、もう駅の構内には一人も乗客は残っていないと思われ……あ! 今、奥の方から2人の女性が走ってきました、まだ駅の構内に残っていた乗客かと思われます! あちらです!」
「オイ、まだいたぞ!」
「ピーピー早く避難してくださーい」
「オイ! カメラそっち向けろ!」
多くの報道陣と野次馬たちが集まった五反田駅改札口に向かって、江藤幸子と長髪のカツラをかぶりOLの格好をした川屋が全速力で走ってくる姿がテレビに映し出されたのは午前9時46分のことだった。
【完】