「動物を飼うこと」について思うこと
「犬・猫(など感情を示す動物)に好かれる人は良い人が多い」という言説はわりと広く共有されているように思うが、あれは個人的にやめてほしい。
私は犬や猫に出会うとほとんど必ずと言って良いほど、牙を剥いて威嚇されるか、そそくさと逃げられるかのどちらかである。
だから、冒頭の言説にしたがって考えると、私は「(性格の)悪い人」ということになる(何がどう悪いのかは判然としない所があるが…)。
あまり批判めいたことは言いたくないが、そういう言説を支持する人は、結構な確率で、愛犬家・愛猫家を自称する人たちと層が重なっている。(皆が皆、そうだと言いたいのではない。一部にそういう人がいて、そういう人たちの声がデカいという話で、いわゆる"ノイジーマイノリティ"なのかもしれない)
だいたい、犬・猫に好かれる人に本当に(性格の)良い人が多いのなら、世の中にこんなにたくさんの捨て犬や捨て猫が現れるはずがない。
環境省の統計によると、平成30年度(2018年)だけで、犬・猫合わせて91,939頭がセンターに引き取られている。(リンク先、一番上の表の左上、引取り数の欄を参照されたい)
※「飼い主から」は、飼い主が何らかの理由で持ち込むケース。
※「所有者不明」は、捨てられたり、迷子になって捕獲された犬・猫と、やむなく外で暮らすことになった犬・猫やその子孫のこと。
参考:環境省 統計資料「犬・猫の引取り及び負傷動物等の収容並びに処分の状況」
彼ら(愛犬家・愛猫家を自称する人たち)の一部は犬や猫の外見や仕草の可愛らしさに惹かれているだけで、彼らを命の最後まで看とるという責任まで見越して相応の覚悟をもって飼っている者は意外と少ないのではないかと思っている。
犬・猫なんかは長生きするものだと20年くらいは生きるのだから、たとえば、今25歳の人が犬・猫を飼うつもりなら、最低でも45歳になるまではコイツの面倒を見きれるのかということを考えて飼わないといけない(と私は思う)。
長生きのする動物を飼うとはそういうことであって、それなりに(というか、かなり)大きな責任が伴うのである。
私は残念ながら、犬・猫に嫌われるタイプの人間ではあるが、彼らのことは大好きである。大好きであるからこそ、責任をもって飼いたい。途中で世話を投げ出して見捨てるなんてことはしたくない。犬・猫に嫌われる人にもこういう人はいるのだ。だから、安易に「犬・猫に好かれる/好かれない」で、その人の人格を判断しないでもらいたいものだ。
「動物を愛することとはどういうことなのか?」
ときにそれは自分の身の丈にあった(自分が責任を背負いきれる)動物を飼うということでもあると、私は思っている。
話は変わるが、今年の初夏(7月)ごろから、父がカタツムリを飼い始めた。料理をしている際に材料の小松菜に張り付いているのを見つけたが、一度は小松菜と一緒に捨ててしまったらしい。
しかし、次の日になって、どうしても様子が気になったようで、もう一度ゴミ箱を確認してみると、まだ小松菜に張り付いていた。「これも何かのご縁だ」と思ってそのカタツムリを飼育することに決めたらしい。
小松菜にくっついていたものだから、小松菜を好んで食べるのだろうと推測して、小松菜をエサとしてやっていたら、今ではスクスクと成長して、飼い始めた当初の2倍くらいの大きさにはなった。「もともとそんなに大きくなる品種ではないようなので、たぶんうちでも飼えるだろう」と父は言っていた。
小松菜ばかり与えているうちに殻も小松菜のような濃い緑色に変わってきた。殻を近くで見ると縞模様もできている。最近ではエサのバリエーションを増やしてやろうと、白菜やカブの葉を与えたりと、カタツムリも飽きないようにと色々配慮してあげているようだ。
「もうこれ以上大きくなったら自由契約だな笑」とか言いつつ、何だかんだで毎日、エサを取り替えてやったり、住処のボックスを洗って、身体が乾かないように水をかけてやったりと、それなりの手間をかけて世話をしているようだ。
カタツムリは物言わぬ動物だ。こちらのしたことに対するレスポンスが一切ない。犬や猫みたいにエサが欲しいとすり寄ってきたりもしないし、エサをあげても一切喜ぶ素振りを見せない。そもそもあまり動かない動物なので、パッと様子を見ただけでは、健康状態もわからない。いつコロッと死んでしまうかわからない動物である。
寿命は個体の大きさによって左右されるところが大きいらしく、今父が飼っているような小型の種だと、概ね1年が良いところらしい。だから、どんなに長くても来年の夏頃にはお別れだ。「今年の冬を越冬できるかなあ。どうすれば良いだろうか…」というのを今考えているところだ。
父は「世話するのめんどくせえ…」とか何だかんだ言いながらもこのカタツムリを結構可愛がっている、世話したことに対するお礼や喜びの反応なんかなくても、「とりあえず、コイツが天寿を全うするまでは付き合ってやろう。」そんな感じだ。父は父の身の丈にあった(自分で世話を見切れる)範囲で動物を愛しているのだと思う。
生き物を飼うときに愛情を注いでやるとか、可愛がるとか、そういうのも大事なのは間違いない(もちろん、虐待なんかはもっての他だ)。しかし、もっと大切なのは「その動物が寿命を迎えるまで寄り添ってやる」という責任(覚悟)ではないかなと個人的には思う。いくら、一時的に物凄く可愛がっていたとしても、途中で捨ててしまっては、動物を愛する者として、風上にも置けないと思ってしまう。
私が動物を飼わないのは、ひとつの生命に対して背負わなければならない責任の重さを感じていて、それを担える自信が自分にはまだないからである。その責任が自分でも全うできるという自信がついたら、比較的長生きする動物を飼ってみたいとは思っている。ただ、自分の癒しのためだけに動物を飼おうとか、そういう気持ちにはなかなかなれそうにない。それだけ、動物に対する愛が少ないということなのかもしれないが、私にとって動物を飼わないということは、動物に対する愛情の裏返しみたいなところがあるのだ。