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#1 1977年 全ては自主製作8ミリ怪獣映画『フウト』から始まった!

「ウルトラマン」や芸術映画、オペラなどで有名な天才といわれた実相寺昭雄監督は、わたしにとって「先生」と呼べる存在であった。ただし監督はわたしのことを「年の離れた友達」と言っていた。本当の弟子の人たちには申し訳ないが、かなりフランクなおつきあいをさせていただいた。
その監督の著書に『闇への憧れ』という本がある。1977年発売のこの本は、難解な映画でも有名だった監督のエッセイなどを紡いだ分厚い本だったが、わたしはこの本の後半にある『わたしのテレビジョン回顧録』を読んで、憧れて監督になってしまったのである。このエッセイというか文が、矢鱈面白かったのだ。

早稲田大学を卒業し、試験を受けTBSに入社したところからはじまる。そしてAD時代の珍妙なエピソード、ディレクターになってから独創的すぎる番組を作って干され、たまたま円谷プロがひろってくれて「ウルトラマン」をやることになった顛末。その後の映画・CM・舞台などの監督の仕事の絶大な面白さが、短いその文章だけで十二分に堪能できたのだ。こんな楽しくもすごく、笑う世界にわたしも漬かりたい。そして監督の後をつけて、というかせこく真似しつつ、プロになってからなんとか30年以上生きてきたわけだ。
監督のこの回顧録にならって、思いつくままにわたしの映像作品の回顧を綴っていきたい。
普通の人が経験しえないことを散々やってきたわけであり、「バカ映画の巨匠」と呼ばれるまでになるのもいろいろあったんだな、と読んでいただければ幸いと思う。そして、わたしは「結局ただ笑いたいだけ」の男であることがおわかりいただけるだろう。

1977年 全ては自主製作8ミリ怪獣映画『フウト』から始まった!
後楽園球場がスキヤキ鍋となるトンデモ映画!

わたしは明治大学に入学した。付属の明大中野高校からのエスカレーター進学。とはいえ、平均点70点以上とらなければ夜間のほうになる。わたしはギリギリで、昼間のほうに入れた。ただし、農学部の農業経済学科だ。いまは向井理などが出身で明治農学部は人気があるが、当時は農学部なんてダサい、という認識だった。わたしもいっさい興味はなかった。ただ、ラッキーなことにここだけが農学部の中で唯一の文系だったのだ。おまけに卒論がないという、ちょっとおかしい学科だった。
明治の昼間なら、どこでもよかったのだ。しかしあとで考えたら、こういう環境だったからこそはじめての8ミリ特撮映画が作れたのであり、他の学科だったら撮れなかったのだ。

キャンパスは小田急線の生田にある。牛がいるような、東京の近郊なのに田舎のような環境。ビートたけしさんも明大工学部に入ったのだが、女もほとんどいないし農家のような環境に嫌気がさし、ほとんど通わなかったというからおしてしるべしだ。
わたしは小学校の時よりウルトラ特撮怪獣既知外。そして若大将・クレージー映画愛好者。当時はビデオなどなく、映画は映画館で見るしかない時代だ。情報誌「ぴあ」が全盛期で、これを片手に都内の名画座めぐりをするのが至福のときだった。授業などはもちろん片手間。そして名画座めぐりと同時に、映画も作ってみたいなぁ、と思っていた。
当然映画研究会、生田の場合「シネまぞ」と言っていたが、このサークルに入るのだ。当時はネットもないから、ウルトラなどの同好の士と会うすべはほとんどない。特撮の場合「小型映画」という8ミリ映画の専門誌にたまに記事が載る程度。それをむさぼり読んだ。横浜に「ノグア」という8ミリ怪獣映画を作ったサークルがあり、もちろん上映会に行った。三木さん、伊藤さんというわたしより少し年長の特撮愛好家の人たちと接したりして、ますます自分で怪獣映画を作ってみたい、という思いは強くなるばかりだった。シネまぞに入ったはいいが、当時の学生は学内で酒を死ぬほど呑む。ここも名うての酔っ払い揃いで、新歓コンパでわたしは泥酔した。サークルのメンバーは、基本的に映画が好きで見たいというだけのごく普通のやつらばかりだった。
しかし、この中で一人だけ気の合う先輩がいた。海老沢さんといって、学科も同じの四年生だ。この人がなんと今で言う怪獣オタクで、ゴジラ映画と東宝映画の話が唯一できる先輩だった。非常に盛り上がり、サークルから予算が出る映画ではなくて、勝手に怪獣映画を作ろう、という話がまとまるのは早かった。

こうして大学一年の夏休みで撮影されたわたしの処女作『フウト』が誕生したのだ。

フウトコンテ01

『フウト』の手描き絵コンテ すべてが手作りの味がある 

フウトコンテ02

隅田川に少年の落としたスキヤキの具が、放射能の影響で巨大化。大怪獣「フウト」が出現する。フウトは自衛隊を蹴散らし、肉とネギの怪獣「クーニ」と「ギーネ」もあらわれ、三大怪獣の死闘で東京は火の海に。自衛隊は後楽園球場に三大怪獣をおびきだし、戦闘機で上空から砂糖と醤油をまき火をつける「スキヤキ作戦」を敢行、ついに三大怪獣は倒された…。
こう書くとすごい映画に思えるが、単なる子供の遊びだった。ビルのミニチュアを紙で一個一個手作りし、大学校舎の屋上に並べる。そしてそこにガソリンで火をつけ、連発花火をスポンジ製の怪獣に打ち込む。一歩間違えば火事。もちろん撤収はするが、コンクリートには焼け焦げの跡がつき当然直らない。しかし人は来ないので、なんのお咎めもない。
許可もなにもとらずよくこんなとんでもないことができたものだ。これは、学生運動の火がまだあった和泉校舎や駿台校舎では当然ありえない。これが先に言った、農学部以外では特撮映画が作れなかった、というわけである。これも運命だろう。
監督クレジットは海老沢さんになっているが、半分を撮っただけで、編集ダビングの仕上げはわたしにまったくおまかせ。実質のわたしの監督作と言っていいものだ。

フウトフィルム

「フウト」の初上映は1977年12月1日、明治大学生田校舎の工学部2003番教室で、併映は東宝の特撮映画『海底軍艦』と『ウルトラQ』の『カネゴンの繭』であった。料金は100円で朝10時から5時まで何回も上映した。当時はフィルムレンタル専門の会社があり、アマチュア向けにも安く提供していたのだ。そして、この上映会から、わたしの映像人生は意外な展開となっていくのである。

1978年  『ウルトラセブン』のコピー8ミリ映画『√ウルトラセブン』を製作、皆唖然

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