【小学校】はい、経験者は右手使っちゃダメ【体育】
開いた口が塞がらないお話です。
子供が学校の体育の授業でバスケをやることに。
普段バスケチームでガードとフォワードをやったりしてるうちの息子。
「今度授業でバスケあるんだ!楽しみ!」
と、自分が得なバスケができると喜ぶ息子。
「みんながみんなバスケができるわけじゃないんだから、うまい子だけでやるんじゃなくて、やったことのない子にもパスを出して、どうすればみんなでうまくプレーできるか考えてプレーするんだぞ!」
と伝え、
「わかってるよ!大丈夫!」
と、まぁチームの中でも周りの子に気をつかえる方でもあるうちの子は楽しみにしていました。
ところが。
数日後、学校から帰ってきた息子が落胆した様子で、
「バスケが上手な子は右手使っちゃダメなんだって。左手だけでやれって言われた。」
その話を聞いた瞬間、
(ん?なんかの罰ゲーム??)
(何か悪い事してそういう縛りにされたのか??)
(うまい子だけ??線引きは??)
と混乱しました。
学校の先生もいろんな人がいます。
身を削ってまで子供のために頑張る先生もいれば、
仕事だと割り切ってる先生もいます。
今の時代、桃太郎の演劇だといえば桃太郎が5人も6人もいることも珍しくもない時代です。
そして言いたい事もわかります。
うまい子がパスを出さず、下手な子を除外し、特定の子供だけで楽しんで、物静かで普段運動をしない子がコートの端っこでいたたまれない空気感でぽつんと立ってるだけ・・・みたいな状況も生じえます。
こうならないようにするために、考えた策なのでしょう。
プレイヤーのスキルレベルを平準化し、
全員がなんとなく同じ程度のプレーをさせたい。
相手チームにうまい子がいたら勝てない!
〇〇君と同じチームになりたい!
〇〇君はへたくそだから一緒にやりたくない!
といった状況になることは当然想定でき、これを回避したい。
これが思惑でしょう。
個性を排除し
突出した者にハンデを与え
下のレベルに合わせて全体を調整
悲しいかな、これが学校の教えですか。
単刀直入に言って呆れて何も言えません。
もしかして教育委員会がそう通達した?とも思い、学校に聞いた結果、
教員でそう決めた、とのこと。
いろんな意見が出るかとも思いますが、
学校が教えるべきは、
いろんな人がいてこの社会が成り立っていて、
いろんな人がいてみんなそれぞれの個性があり、
その個体差や思想の違いをお互いに理解しあい、
お互いにどうすればよい状況を作ることができるのかを考える
ではないですか?
指導者が努力を怠り、手っ取り早く全体を納めようとするからこそ
経験者は左手しか使ってはいけない
という、とんでもルールを考案するとしか私は思えません。
そんなやり方で、バスケができる子、うまい子はその授業を楽しめますか?
左手だけに制限すれば、本当にそもそも能力差は埋められますか?
左手しか使えず仮にその子が負けた場合、
その子はやりきれない気持ちになりませんか?
集団のごく一部の誰かが我慢をすればいい、
という考え方を子供たちに押し付けていませんか?
もう少し子供の事を考えて指導してください。
自分の息子に関しては、仮にそうしたルールを強いられても、
「だったら左手だけなのにすごい!と言わせるだけのプレーをしてこい」
「普段そんなルールでバスケできないんだから、むしろそんなルールでどこまでできるか自分で試してこい!」
と、ネガティブイメージを持たせずにゲーム感覚で楽しませる事ができます。
ですが、必ずしもどの親もそんなポジティブにとらえる事ができるわけでもないし、子供のケアができる余裕がない親もいるでしょう。
だからこそ学校は子供たちに無駄な不安やストレスをかけないでほしい。
子供の事、考えてますか?
教員になるということは、指導を受ける者の上に立ち、正しい方向へ導くことが役割であり責任です。
小学校、中学校、高校、大学の教員もみな一緒です。
ですが "学校" とは、下級クラスになればなるほど、人格形成や志向性に影響を与えます。
そうした面の指導を怠り、勉強だけを教えたいのであればある程度人格形成ができている高校や大学、塾の教師や予備校の教師など、勉学に特化した職種に転向してください。
子供たちにとってもその方が幸せです。
その先生はこれまで団体スポーツをやったことがないのかもしれません。
その先生には子供がいないのかもしれません。
その先生にはそうした経験をしたことがないのかもしれません。
ですが、先生になることができるのがこの国であり、
その国で自ら小学校の先生になると決めたのはその先生自身です。
自らがどういった職務を持っていて、どういった責任を持っていて、
どういった事に感謝され、どういった事がやりがいになる職業なのか、
今一度考えてみてください。
ただでさえ教員不足のこの日本において、教員を志した事は
立派なことだと思います。
最初から子供たちをないがしろにするつもりで教員になった人などいないと思います。
はっきり言って、私には務まりません。
あんな聖職につけるほど、私は人間ができていません。
教員になりたいと思ったきっかけが何かあったと思います。
自分が教わった小学校の頃の先生が素敵な人だったとか、
子供たちに何かを教えて純粋に喜んでくれた事に感銘を受けただとか、
子供たちにとってよくない何かに直面し自分が解決したいと思っただとか、
今一度志した気持ちを思い出してみてください。
子供たちも親の影響を受けて生意気な子供や、親が終わってるから正直どうしようもない子もいたり、現場は大変だと思います。
ですが、大変だからこそやりがいもあり、一部には響かなくても必ず生徒は先生を見ています。
伝わっている子にとっては、その先生は一生の良い思い出です。
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