アレックスの宇宙CG小戦争「スター・ファイター(1984)」
いにしえの1980年代。いまやあらゆるジャンルの映画に空気の如く溶け込んでいるコンピューターグラフィックスも、その黎明期においては誰も見た事がない異質な映像であり、むしろその異質さを売りに耳目を集める役割を担っていた(レガシーじゃない方の「トロン」とか「ゴルゴ13」とか)。もしくは劇中のコンピューターがモニタに表示する映像の素材。イチローが演じるイチロー役だ。
そんなご時世に、ジェネリックスターウォーズ映画「スター・ファイター」は、アナログSFXの代わりにCGを大々的に採用して歴史に名を残した。宇宙船や宇宙戦艦がブンドドするシーンでミニチュア撮影を一切行わず、まるっとコンピューターに一任したのだ。
「トロン」からわずか2年後の1984年に、この ↑ クオリティのCGを出したのだから相当にスゴイ……とはいえ実写にはまだまだ程遠く、実際に見れば一瞬でCGとわかってしまう。人類が「ジュラシック・パーク」に到達するには、ここからさらに9年の歳月が必要だ。
あと、戦闘シーンの尺が結構あるわりにメカの頭数がチョー少ない。1984年といえば「ジェダイの帰還」の1年後。帝国軍と同盟軍が総力を尽くしてぶつかり合う一大艦隊戦が渾身のアナログ特撮で描かれ、観てるこっちは既にさんざん度肝を抜かれてるわけです。なのに「スター・ファイター」は味方戦闘機が1機だけ。迎え撃つ帝国艦隊も旗艦一隻+ザコ戦闘機が数十機程度。すっくな! ていうか一隻で艦隊を名乗るか普通!
でもこの映画はこれでいいのだ。ビデオゲームだから。
未熟CGと実写をゲームが橋渡す
「ビデオゲームの戦いが現実になる」という夢のシチュエーションが、この映画のキモだ。現実並みにリアルなゲームが山ほどあり「ジュマンジ」までROMカセットになるこのご時世にンなこと言われてもなんのこっちゃかもしれないが、ワイヤーフレームのスターウォーズゲームが最先端な1984年において、それは確かにキラキラの夢だった。
ゲームの腕を見込まれた主人公アレックスは正義の同盟軍にスカウトされ、自機がそのままデカくなったような本物の宇宙戦闘機と対面して目を剥く。映画のコンセプトを体現する名シーンだが、鑑賞上の問題がひとつある。その‘’本物‘’もやっぱりCGにしか見えないのだ。現実とは……リアルとは……。
しかし、冒頭で見せられていたゲーム画面のローポリCGのおかげで、観客はCGRS(コンピューターグラフィックスリアリティショック)に陥らずに済む。なるほどアレに比べれば全然リアルだね! と精神の安定が取り戻され、CGシーンのリアリティラインが固まる。「これを‘’本物‘’とする!」というディレクターの宣言が聞こえてくるようだ。
クライマックスで実写主人公がCG戦闘機に乗ってCG宇宙を飛び回る頃には、むしろ「メリー・ポピンズ」や「ロジャー・ラビット」にも通じるメタい旨味すら味わえることだろう。設定一発で違和感のハードルを下げるアイディアの妙だ。
物量不足をゲームに落とし込む
ところで2020年3月現在、ヴィンテージVHSなどの非常手段を除き「スター・ファイター」を日本国内で視聴する手段はない(なんてこった)。
おれはやむなく輸入盤ブルーレイを購入したのだが、特典メイキング映像でスタッフが興味深い証言をしていた。CGのレンダリング時間がめちゃくちゃかさんだ結果、スケジュール遵守のためバトルシーンを単純化したというのだ。
味方1機vs敵艦1隻のシチュエーションがその結果だとすれば、ビデオゲームは制作上の物量削減にもひと役買ったことになる。
単独で出撃した自機がザコを蹴散らしながら突き進み、最後にチョーデカイボスキャラと一騎打ち。映画のストーリーは80’sシューティングゲームの定番に倣い、主人公が宇宙戦士最後の生き残り(すなわちLast Starfighter)として敵艦隊に立ち向かうべく、周到にお膳立てされている。
何が何でも単機で戦わせようとする運命の圧が大変ヤバイが、「現実でやったらさすがに死ぬよ!」というツッコミは主人公が先にやってしまうので、観てるこちらもそれ以上強くは言えない。「歌は気にするな」効果だ。
かくして「ビデオゲームを題材にする」というアイディアは、CGシーンの質的問題と量的問題をみごと一気に解決したのだった……が、実はそれだけではない。むしろ、ビデオゲームがもたらすストーリー面の滋味こそ、この映画の本質かもしれない。
80's身の丈アドベンチャー
世界初のスターウォーズことエピソード4「新たなる希望」は、シケた日常にくすぶる若者がひょんなことから大冒険に巻き込まれ、成し遂げる話だ。いまや伝説となった偉大なるルーク・スカイウォーカーも最初は「なんか親父がすごかったらしい」程度の銀河片田舎ティーンネイジャーでしかなく、伝説の幕開けはささやかな青春の旅立ちだった。
スターウォーズの大ヒットに触発され、世界中で様々なジェネリックスターウォーズ作品が作られた。しかしその大半は宇宙戦艦の底面やおもしろドロイドやビームドンパチの再現に血道を上げ、青春の旅立ち要素はあまりフォーカスされなかった。(若さを持て余した宇宙暴走族が冒険の果てに夢を見つける「宇宙からのメッセージ」はいい線行ってたと思う)
そのあたりをきっちり拾ったのが「スター・ファイター」だ。
ビデオゲームが得意でちょっと頭が切れる以外、さして取り柄のない主人公。互いに将来を意識するベイブともすれ違い、日々の生活には閉塞感が漂う。そんな彼に訪れる難易度控えめでSF(すこし・ふしぎ)な冒険。これはジェネリック80'sスピルバーグ映画でもあるのだ。
スカイウォーカーや皇帝の血が流れているわけでも、ジェダイマスターが修行してくれるわけでもない平凡なティーンネイジャーにとって、クリア済みのゲームのボスキャラほど身の丈に合った冒険の相手がいようか。
「本物だから負けると死ぬ」込みで絶妙のサジ加減。劇中と同内容のアーケードマシンが公開当時のゲーセンに設置されていたら、映画を観たティーンネイジャーがこぞってクリアして「これでおれも宇宙戦士!」「本当にスカウトされたらどうしよう?」などとボンクラな夢を抱いたに違いない。アタリによる公式ゲーム化が幻に終わったのが悔やまれる。
最後のスターファイターの夜明け
ビデオゲームは最終的に、シケた日常にも救いをもたらす。
いろいろあって冒険を成し遂げたアレックスは人生の選択を迫られ、覚悟を決め、自分自身のメキシコへと旅立つ。ではそれを見送る片田舎の人々に未来はないのか? あとくされなく帝国軍に丸焼かれることも叶わず、ヒーローに取り残されたまま、ルーティンワークめいた日々を繰り返しながら枯れ果てていくしかないのか?
否。そこにはゲームマシンがあるじゃないか。
次のプレイヤーの手でコインが投入されて新たなる希望が芽生えた瞬間、日常と冒険、現実とゲームは再び交錯する。ラストシーンの構図も完璧だ。堂々たるテーマ曲がもたらす爽やかな後味は、決して少なくない本編のツッコミポイントを忘れさせ、「ひょっとしていま観たのは名作なのでは?」という思いを2〜3層は上塗りしてくれるだろう。
際限なく拡大するスターウォーズ世界とは真逆に、101分こっきりでゆるく小さくまとまった一本。しかしその小ささはカワイイに結実し、今なお続編やリブートの噂がささやかれる愛され映画となった。
国内でソフト化または配信開始の暁には、改めて推したい。
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