映画を観た記録59 2024年3月3日 アスガー・ファルハディ『美しい都市』
Amazon Prime Videoでアスガー・ファルハディ『美しい都市』を観る。
『美しい都市』という言葉は、主人公アーラがヒッチハイクするときに口にする言葉である。
本作品は、『美しい都市』というタイトルとは裏腹のとてもシビアな重い主題、または深刻なイラン社会の桎梏が、これでもか、くらいに迫り、描く「ネオレアリズモ」的手法で映画が作られている。
イランの映画監督アスガー・ファルハディこそがイタリアン・ネオレアリズモの正当な継承者である。
ネオレアリズモと単なるリアリズムの違いは、前者は「反映の現実」を描くのだが、後者は所詮は「現実の反映」である。新藤兼人や今村昌平はその意味では「現実の反映」で終わっている。大島渚もだ。日本には松竹ヌーヴェルバーグは存在していたが、「ネオレアリズモ」が存在していないのだ。『福田村事件』も所詮は「現実の反映」で満足する観客向けの駄作でしかない。
本作品は、もうどうしようもない現実の渦中に映画を放りここむのだ。その点だけを見れば小川紳助の映画に似ている。小川紳助の映画も、ドキュメンタリーであるが、全く説明もなく、「闘争」へ映画を放り込むのだ。とはいえ、アスガー・ファルハディの映画は近代的作劇術が土台にある、しかし、演出が、登場人物が、演出から離れて1個の存在として生きている。そんなことがあってよいのか。
注目すべきは、障害者の俳優なのか素人なのかわからないが、とにかく障害者の登場人物には注目したほうがいい。障害者の女性は、演技ではないのだ。その存在がそのスクリーンに映し出されている。まさに事件である。
そして、俳優たちの自然な演技というか、葛藤をそのまま表現する動きに、今や、先進国に失われた「身体性」を見ることができる。
描かれる物語自体が深刻である。ある少年アクバルが恋した娘を16歳のときに殺してしまう。(思い出されるのはエドワード・ヤンの『牯嶺街少年殺人事件』である。)殺された娘の親は死刑という報復しか望んでいない、しかし、姉と友人はその父を説得するため、数回、家を訪問する。ちなみに、姉が訪問するとき、土産として包んでいくが、風呂敷である。風呂敷は日本だけではない習慣であることもわかる。父親は説得されるのだろうか、それは本作を観てもらいたい。
本作品は、イランの生活に即したネオアレアリズモなので、イランの今がこれでもか、と映し出される。その映像を観ることで、偏見はなくなるかどうかは観るもの次第ではある。日本とイランの共通点は、先の風呂敷もそうだが、床に座ることである。コーランを祈ることが床に座るので、そうならざるを得ないのだが、家での生活も床に座っている。板敷きの上に絨毯である。日本は畳であるが、畳でないこともある。畳は高いので、板敷きに座る日本人もいる。そして、女性への抑圧度が高い。日本と共通しすぎている。しかし、この映画を観る限りにおいては、女性の怒りに男性は受け止められるものもいるようだ。その部分に規範宗教イスラム教の力を感じる。何事も神の慈悲なのだ。
それにしても、だ。貧困都市がなんと、第二次大戦戦後直後のイタリア映画に出てくる貧困都市に似ている事か。そしてごみごみした都市は1970年代日本映画に似すぎている。若者の葛藤は神代辰巳的ともいえる。
アスガー・ファルハディの『美しい都市』を観ていると、その貧困都市が、まるでイタリア漁村の貧困街を舞台にしたヴィスコンティの『揺れる大地』を思い出す。
そして、イラン社会の矛盾を抱えたまま、「反映の現実」そのものの映画は解決という目的へ向かうのだろうか。
アスガー・ファルハディ『美しい都市』の子どもへの接し方が素晴らしい。子どもを映画監督とやらの映画の美学にあてはめないのだ。その意味では小津安二郎は失格である。チャップリンも映画の美学に子どもを充てはめない。それは素晴らしいことなのだ。突貫小僧とか言っている場合ではないのだ。
アスガー・ファルハディの『美しい都市』を観ると、先進国映画にはもう描かれないような画面もある。例えば、若者が鉄道のレールに座るという画面だ。こういう画面は過去の日本を含んだ先進国の映画には必ずや言ってよいくらいに画面である。実際、ビクトル・エリセは『ミツバチのささやき』でフランケンシュタイン映画に魅せられた少女姉妹がレールに耳をあてて伝わる列車の音を聞くという繊細な画面がある。
アスガー・ファルハディ『美しい都市』には少年刑務所の「先生」が登場する。死刑を待つしかない少年アクバルやその友達アーラの頼りになる存在でもある。その「先生」は哲学的な問いをアーラに投げかける。「お前がアクバルの立場だったらどうする?」と問う。アーラは「(しばし塾考し)忘れる」と答える。そこで「先生」は「お前は忘れることができるのだ。忘れられるならそれでよい。」と「先生」は、日本のヘボ教師のように「断罪」しないのだ。それもまたアッラーの慈悲なのか。
アスガー・ファルハディが描くイランの現在が映し出される作品を観ると、ドラマからイスラム教という世界宗教の力をとてつもなく感じる。イスラム教は規範宗教である。それは規範なき宗教を生きる日本より確実に頭を賢くするのだ。なぜか、いつも「神」や「存在」について考えを迫られるからだ。
アスガー・ファルハディの『美しい都市』を観ていると、その貧困都市が、まるでイタリア漁村の貧困街を舞台にしたヴィスコンティの『揺れる大地』を思い出す。
アスガー・ファルハディこそ、映画の現在である。