ゴミで遊び、ゴミから学び、ゴミと共に生きる。
今回、我々デッドストック工務店が召喚されたのは鹿児島県は鹿屋市。
4年前に大雨で被災した大隅湖の復興も進んだことで、被災して以来の開催となる地元の恒例の花火大会とを兼ねた復興祭。
湖も大量の土砂と流木で見る影もない状態からだいぶ復旧してきたのでその復興の象徴となるようなものを残された流木で何かつくれないかとのこと。
色々経緯はありながらも、作ろうと思ったのは大隅湖のヌシ「オッシー」。
まぁ湖畔の格納庫にあったスワンボートの名前がオッシー3号だったからという理由だが。
今回、流木を使ったのは面白かった。
まさしく角度を変えてみる事でそれが顔や手に見えたりと、いつもの如く大喜利から始まる。流木に関してはそこまでレベルの高い「見立て」は求めずとも色んな想像は容易い。
我々、デッドストック工務店が普段から訴えているのが、
"Deadstocks never die!!"
ゴミの事をデッドストック(不良在庫)と呼ぶ我々の解釈としては「この世にゴミなんかない。」
そこにはいくつかの意味が込められていて、まずひとつは物理的にもゴミなんてものはないって方便のようなもの。人が勝手にゴミと呼んでいるだけで人の命よりも遥かに長いスパンで考えた時に物理的に本来ならゴミは勝手に何かの為の資源に生まれ変わるはず。逆に言えば、全てのものはゴミになるべくして生まれている。レジ袋なんかは最たる例でほんの一瞬の目的の為に作られてゴミの期間は相当長いけど、野菜や家畜だって料理にされて一瞬花咲いたらその後は排泄物として流される運命だ。そしていつの日かまた食べ物に変わる。ゴミと呼ばれるものは循環の過程の一瞬の姿でしかない。
もうひとつは人目線で考えた時、ものの向きや置き方を変えたり、ゴミを素材に見立て別のものに作り変えたりして、視点を変えるだけでゴミがゴミじゃなくなる。概念だけでゴミは消える。
我々が伝えたいのはこっちだ。
誰も見向きもしないもの、捨てられゆくものに光を当て、ステージに立たせる。一瞬でも命を吹き込まれる事で、そこに生まれた意味や命の儚さを訴え、この広い世界での自分の立ち位置を知る。
デッドストック工務店の作品は大抵はすぐに壊される運命にある。
その辺に在るものをかき集めて即席で作るものが多い事もあるが、その儚さや刹那的な部分こそが我々がゴミと真剣に向き合い、全身全霊を込めて即興でものづくりを楽しみ、その場の空気を共有したものしか伝わらない感覚的なものを大事にしているものだから。
つくられた「もの」に大した意味は持たない。それを見ただけでは我々の楽しさまでは伝わらない。
デッドストック工務店の仲間でなにか作っている時の様子はさながらジャズのセッションのようだ。何の予定調和もなくそれぞれが出来る事、作りたいものを作る。
最初はある程度形が見えるまでは本当みんな手探りだけど、それぞれが重なってきてある点を超えた時にどんどん一つのゴールに向かい出す。ちょっとしたトランス状態で思い思いのゴミをくっつけだす。タイムリミットの直前くらいが一番面白い。
目線を変える、向きや置き方を変える事で見えなかったものが見える様になる。
本当はどんな事にも通ずるテクニックだと思う。
自分を適材適所に配置してくれる人がいる場合は良い。でもなかなか的確に判断してくれる人は少ないし、ましてやその配置を自分なりに受け入れるのも難しい。
ゴミを愛することが出来ればきっとどんなものでも愛せるし、また誰からも愛されるだろう。
まずは自分がどれだけ無力で孤独かを知ろう。自分がゴミの一部だと気づいた時に周りの全てに生かされていると知り、自分の立ち位置や役目が見えてくるから。
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