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余白がない。

テレビがどんどん生活から遠ざかっている。昭和30年代生まれはバリバリのテレビっ子だったはずなのだが、民放にいたっては今やただついているだけでストレスのもとになる。視覚にも聴覚にもとにかくウルサい。空疎な中身を大騒ぎしながら必死に埋めている。NHKだってほめられたものじゃない。時折見る日々のニュースはただ出来事を確認する以上のものでは決してなく、むしろとりあげられて然るべきものが予め注意深く排除されているのを知って腹立たしい。ただ、一部のドキュメンタリーやEテレライクな番組、ドラマなどには捨て置けぬコンテンツがあったりするのだ。

民放を見ないのはCMがウルサいからだ。昔からそういう人はいたと思うが、もともとCMが嫌いなわけじゃない(嫌いで広告なんかナリワイに出来ない)。今の広告はどうにも一生懸命で遊びがない。遊びのない広告はひたすら疲れるだけなのだが「必要な事だけをを知りたい」要請に応えているんだろうなあ。「プール冷えてます」なんて間抜けな事いってる場合か、「恋は、遠い日の花火じゃない」なんてスカシてんじゃねえ、なんだろうな。その先の世界に想いを馳せるなんてこちとらそんなヒマじゃねえんだ、それで今それが得なのかい損なのかい?

スマホなんか毎日押し売りが玄関に居座る無法地帯。「Webもそろそろ力入れないとね」とか言って手探りでままごとのように広告を作っていた頃に引退してホントによかった。スマホの中ではウクライナもフワちゃんも、総裁選も惣菜選びも等価。「なにも足さない なにもひかない」どころか何でも盛れちゃう、何でも隠せちゃう怖ーい世界だ。

脊髄反射の見本市のような「X」を眺めていると、さもありなんとつくづく思う。立ち止まって考えるのも、振り向くことも余白がないとできない。みんなで盛り上がっているその影で「おしりだって、洗ってほしい」と呟いている人がきっといるのだ。

(蛇足)近頃、物覚えがとみに悪くなった(あえて物忘れが、とは言わない)。そんな時に「身になると云う事は忘れないと云う事ではなくて、覚えた事を忘れる、その忘れた後に、身になる、身についたと云う大切なものが残る。(中略)知らないと云う事と、忘れたと云う事とは大変な違いなのであって、知らないと云う事はお話にならない」という内田百閒の言葉を知って何だかとても力強く「はて」と考えることもせず、どんどん忘れてやろうじゃないのと思っている。

見出しのイラストは「のの@スポーツグラフィックレコーダー/会社員グラフィッカー」さんの作品をお借りしました。ありがとうございます。


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