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間【あわい】ということ

「あわい」物と物との間、事と事との間、人と人との間。みんな「あわい」を生きている。

1970年代の終わりだったか、当時「話の特集」という雑誌があり、その編集長だった矢崎泰久と中山千夏が「狭間組」というユニットを組んで活動をしていた事があった。字面通り建設会社「間組」のもじり。右傾化だ左寄りだとかまびすしい中にあって、肝心な事はその間にあるんじゃないかと、周囲の文化人達を巻き込んで遊び心のある緩いオピニオン活動をしていた。今だったら、尖がっている、あるいは不真面目と捉える向きもあるかも知れない、それだけコンサバティブな世の中になった。ダイバーシティなんて一体どれだけの人が意識しているのかと思う。

タワーマンションで憂鬱な夜空に乾杯をしている人も、実りの秋の大地に感謝を絶やさぬ人も、コンビニの駐車場で束の間の午睡をする営業マンも、誰もがそれぞれの「まあじなる」を持っている。その「あわい」の中で迷い、いずれか一つを選択する(あるいは何も選択しない)。心ならずも、図らずも、なんてことは日常の茶飯事だ。人間は面倒な生き物だから、そんな「あわい」からでしか、明日の地図を描けない。

高校の国語教科書は、新聞や広報誌、ネット上の文章など「論理的、実用的な文章」を扱うことを想定した「現代の国語」と「言語文化」に分け、詩歌・小説の類は後者に掲載する方針らしい(先日一部小説を掲載した「現代の国語」が検定に合格し物議を醸した)。ネット上の文章なんて、それこそ酷い文章の見本市だ。論理的に優れた文芸作品は山ほどあるぞ。

「ああでもない、こうでもない」と論理の感情の狭間で惑うから、不安や安心、希望や絶望が生まれる。誰も世界の中心になんかいられない。世界のはじっこで、小さな声をあげる。イエスかノーかの「あわい」から漏れてくる声が、どれだけ聞こえているだろうか。

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