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「自由への跳躍」

12年前、ドイツ・ライプチヒに留学中の甥っ子から届いた絵葉書。内容はこれといって特筆すべきものはないのだが、全部ドイツ語で書いてきやがった。なんちゃって第二外国語で履修しただけなので全くわからぬ。眠っていたドイツ語辞典と首っ引きで何とか理解した。

東西冷戦のシンボリックなアイコンとして有名な「自由への跳躍」。60余年前のワンシーンも今や観光に一役買っているというところだが、ノイシュバンシュタイン城あたりを送ってこられても困る。ライプチヒはベルリンの壁崩壊、ひいては東西ドイツの統一(東ドイツの西ドイツへの加入)の端緒とも言われる「月曜デモ」の地だ。送った本人にその意識があったかどうかは知らない。

西ドイツ警察とコンタクトを取っていた東ドイツの警察機動隊員コンラート・シューマンは、1961年8月15日、張られた有刺鉄線を飛び越え西側へ飛び込んだ。撮影は当時19歳のカメラマン、ペーター・ライビング。落ち着きなく煙草を吸っている彼がその「跳躍」をすると狙いをつけていた。

ベルリンの壁は突如作られた。第二次大戦後ベルリンとその周辺地域はソ連に占領されるも、ベルリンだけは連合国の合意で米英仏とソ連の分割占領とされた。西側3カ国は「西ベルリン」としてソ連占領地域の飛び地となる。1949年、東西ドイツの分裂で東ドイツの首都となっても飛び地はそのまま西ドイツ領となった。東西ベルリンの往来は比較的自由だったため、西側への人口流出が続き、東側はこれを阻止すべく1961年8月13日境界線を封鎖した。そして1989年まで、この境界をめぐってはかり知れない横死や永訣や背信が繰り返された。

「自由へ」跳躍したシューマンも決して幸福ではなかった。東側に残した家族は当局の監視の目に晒され、自身もアルコール依存症に苦しみついには自ら命を絶つ。あの一瞬の跳躍のとき何が脳裡に去来したか、最期の時に何を思ったのか。その後の彼の人生を知ると、ひとつのカットが持つ意味がより重くなって帰ってくる。この跳躍を安易な自由の象徴にしてはいないだろうか。

SDGsとか言う一方で、そこかしこにせっせと壁を作らないと安心できないのが人間という生きものの悲しさだ。自分の周りにどれだけ多くの壁があるか(あるいは自分がどれだけ多くの壁を作っているか)を知らないでJUMPは出来ない。




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