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ムーンライト・ヒル 第3回

  被害妄想と言われるかも知れないが、いまごろ病院じゃあ俺の話で持ちきりだろう。拓はほんとに身寄りがない可哀想なやつだったんだと。そして親不幸にも、母親の死に目という肝心なときに、どこかいかがわしい場所でいかがわしい遊びに耽っていたらしいと。可哀そうに拓の母親は、唯一の肉親からさえ見送られることなく独り寂しく逝ってしまったんだと。
 厳然たる事実ではあったが、それは俺にとって好ましいことではなかった。これからしばらくのあいだ俺は、県立病院に人さまのご遺体を引き取りに行くたびに、ほんの少しの同情と、それよりは明らかに多くの、哀れみと非難の視線にさらされることになったのだ。
 俺の生い立ちや現在の境遇を知ると、たいていの奴は同情してくれる。しかし「そりゃ気の毒に」とか言いながら、興味津々という顔でくだらないことを根堀り葉堀り聞き出そうとする。そんな奴等の哀れみの視線が、俺にはたまらなく鬱陶しかった。だから誰であろうと、俺のことにはかまわずにそっとしておいて欲しかった。
 朝のラッシュが始まっていた。信号待ちで止まった隣のクルマに、若いカップルが乗っている。出勤途中の若夫婦だろうか、女の方が化粧をしていて、いまは顔面を奇妙な形に動かしながら口紅を引いている。女は、顔中の筋肉を総動員して化粧をしてやがる。その様子を何気なく見ていると、女は突然視線をこちらに向け、俺をキッと睨み付けやがった。わりといい女だと思って見ていたのに、いけ好かない。癪にさわったので俺も睨み返してやった。そしたら女ははっきり分かるように「ば~か」と大きく口を動かした。俺はむかっとして、この女の亭主がどんな奴か見てやろうとした。で、運転席の方を見た。亭主の方はこれ以上ないほどのばか面で、大あくびをしている最中だった。
 すぐにクルマが動き出し、カップルのクルマは次の交差点で右折していった。あの女、スモークガラスで外からは見えないようになっているが、このクルマの無言の同乗者を知ったらさぞたまげたことだろう。俺はそう思って、むかむかした気分を少し落ち着かせようとした。

 母との思い出と言っても、思い出すのは母が酒を飲んで大暴れしたことばかりだ。俺がはっきり思い出すことが出来る一番古い母との間の出来事も、やはり酒にまつわるものだった。
あれは俺が小学校に入学したその日のことだった。
 制服や靴は誰かのお古だった。しかしランドセルだけはやけにぴかぴか光るクラリーノ製の新品を買ってもらった。式が終わって学校を出ると、母が昼ご飯を食べに行こうと言い出した。俺はあまり気が乗らなかった。しかしその日の母は珍しく機嫌が良く、とにかくバスに乗り俺たちは片町のデパートへ向かった。
 最上階のファミリーレストランに入った。そこには俺と同じように真新しいランドセルを背負った子供連れが何組かいた。何を食べたかまでは憶えていない。おおかたカレーライスかお子さまランチあたりだろう。母がビールに続いて日本酒を飲みだしたのだけは、はっきり憶えている。
 俺は食事が終わったからもう円光寺のアパートへ帰るのだろうと思っていたのだが、やけに陽気になった母が俺の手を引いて向かったのは香林坊の飲み屋街だった。まだ開店前でほかの客はいなかった。しかし俺たちが店に入るとすでに何人かの女たちがいて、俺のことを可愛いだとか凛々しいだとか騒ぎ始め、俺はあちこちべたべた触わられ、とても気持ち悪かった。
そこでもさっちゃん・・・・母は酒を飲んだ。女友達ときゃーきゃーたわいもない話をしていたのだが、母の大声と異常な陽気さが俺には恥ずかしく、気に障った。やがて恐れていたことが現実のものとなった。いつものお約束通り、喧嘩がはじまったのだ。女同士の喧嘩というのは、なかなか見応えがあるものだ。しかしその当事者が自分の母親であるというのは、子供にとってあまり愉快なことではない。しかも子供心にも、喧嘩の原因が母にあるのは明白だった。
 そんなわけで、俺は酒を飲んだときの母が大嫌いだった。
 年かさの女が「さっちゃん、また今度ゆっくり来て」と言って俺たちを店から追い出した。
 夕暮れの路地裏で、母が何かに躓いて転んだ。酔っぱらった母は、苦労して起きあがった。膝に、うっすらと血が滲んでいた。しかし母の陽気さは変わらなかった。そして俺は強引に次の店に連れていかれた。喧嘩こそなかったが、そこでも前の店と同じようなことが起こった。大声と馬鹿笑い、異常な陽気さ。
「母ちゃん、もうやめてくれよ。一緒に帰ろ」
 何度懇願したかわからない。しかし母は聞き入れてくれなかった。俺がどんなに惨めな思いをしていようと「どうしてよ、楽しいじゃない」と、酒の入った母はまったく聞く耳を持たなかった。
 三軒目の店に移動するとき、俺は母の手をふりほどいた。
「一人で先に帰ってるから」
 そう言って歩き始めた。
 母は止めもしなければ追っても来なかった。


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