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ムーンライト・ヒル 第10回

 薄暗く騒々しいゲームセンターや、それよりもっと陰気な、機械相手のポーカー賭博しか知らないような俺でも、夕暮れ時に頬を撫でる初夏の風を心地よく感じることがある。六月はじめのある日、仕事を終えた俺は愛車ブルーバードを街の方向ではなく、珍しく山の方へと走らせた。
 金沢南葬儀社の名前は社長の名前から「南」とつけたらしい。事業所も金沢市の南部、やや東寄りの平和町にあった。その会社から野田山の丘陵地ま
ではクルマでほんの五分ほどの距離だった。
 全開にしたクルマの窓からさわやかな初夏の風が舞い込んでくる。俺は長坂台の交差点を左折し、丘陵地帯を碁盤の目のように走るコンクリートの舗装路に入った。白い箱な俺のスリーエスは、ギアチェンジのたびにがつんがつんという音を立てながら農道を上っていく。中古とは言え俺のスリーエスはこの年式では最高グレードのクルマなのだ。しかし、暖かくなってくるとミッションオイルの粘性が下がるのだろうか、最近どうも気になる音がする。
 ただ、エンジンの調子自体はすこぶるよかった。年式のわりには走行距離が少なく、エンジンはいまからちょうど本来の性能を発揮する時期に来ているようだった。
 目の前にのどかな丘陵地帯の風景が広がっている。畑作に適した真っ黒な土に覆われた段々畑が丘の頂上付近まで続き、その先のうっすらと暮れかかった東の空のやや北よりに、いましがた欠け始めたばかりという風情のまん丸な月がぽつんと浮かんでいる。
 実のところ俺はこの辺りをクルマで走るのは初めてだった。ずっと円光寺に住んできた俺にとって、野田山は子供の頃からの遊び場で裏庭のようなものだった。しかし最後にここを訪れたのはもうだいぶ以前のことになる。子供というのは小学校も高学年になると、野山を駆け回る楽しみなど忘れ、もっとほかのろくでもない遊びに興味がいくものだ。
 農道を大乗寺の手前で左折して、この寺の総門を右手に見ながら俺は野田山墓地を麓から頂上に貫く幹線道路に入った。この道は野田山墓地と段々畑のある大乗寺丘陵を南北に分けている道だ。頂上まで行くと道なりに大きく左カーブして進み、再び左カーブして墓地の北側へ抜ける、野田山墓地を取り囲むようにしている道なのだ。幹線道路と言っても墓参りシーズン以外は人もクルマもほとんど通らないような道だ。墓地の南側から入った参拝者はこの道を丘の頂上へ向けて進み、大方は左折してそれぞれの墓所へと分け入って行く。この幹線道路に囲まれるようにして野田山の大半は広大な墓地となっている。
 その昔この地を治めた加賀藩の前田家が歴代の墓所をこの野田山に定めたのをきっかけに、以来この丘は金沢市民の何万という墓で埋め尽くされることとなった。
 俺はクルマをシフトダウンして思い切りアクセルを踏み込んだ。後ろから蹴飛ばされるような感覚があり、クルマは緩やかに蛇行しながら続く坂道を丘の頂上へ向けて一気に加速した。頂上の手前、石材店の看板のところで俺は墓地の方ではなく段々畑が広がる西側の斜面に向けて右折した。
 突然、目の前に見事な景色が広がった。水色のフロントガラスごしに、金沢市の南半分がすっぽりと俺の視界に入ってきた。右手に野田山墓地の鬱蒼とした茂み。その先に金沢市の中心部が広がっている。
 この山は標高わずか百数十メートルの丘に過ぎないが、クルマを農道に停めた俺には、金沢の南部どころか遠く加賀平野を挟んで日本海まで見渡すことができた。その日本海に、夏至前の太陽がいままさに沈もうとしているところだった。
 これは意外な穴場だ。こんな近くにこんな見晴らしのよいスポットがあったとは。
……そういえばあれは俺が小学校六年生の大晦日の夜だった。円光寺の市営アパートに住む友人と二人、この丘をさまよったのは。初詣に行くつもりで家を出たのだが、どこの神社へ行くかなどあてはなかった。ぶるぶる震えながら俺たちはその辺りをほっつき歩き、気がついたらこの丘の中腹にある大乗寺まで来ていた。
 俺は葬儀屋になってからはじめてこの寺が曹洞宗の名刹であることを知ったのだが、そのときはなにか得体の知れないでっかいものが丘の中腹にあるくらいにしか思っていなかった。俺達は寺の総門からではなく、泥棒猫のように庫裡の方から恐る恐る中へ忍び込んだ。がらんとした土間に昔風のかまど、壁には時代がかった桶やらざるやらが整然と並べられていた。月明かりが差し込む凛とした冷たい空気に支配された静寂の中、俺達は庫裡を突っ切って山門と本堂を結ぶ回廊へ出た。

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