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ムーンライト・ヒル  第1回


月読みの 光りに来ませ あしひきの 山きへなりて 遠からなくに
                            湯原王
                                  
               

              Ⅰ


昭和六十年 春

 今日母ちゃんが死んだ。
 もしかすると昨日だったのかも知れないが、俺にはわからない。なにしろ俺は片町のゲームセンターで夜を明かして、帰ってきたのは朝の五時をとっくに過ぎていたのだから。
 新聞配達の奴がアパートの階段をかんかん音を立てながら降りてくるのとすれ違った。俺と目が合うと、奴はあからさまに俺を見下すように視線をはずした。そして無遠慮にバイクのエンジンを空ぶかしして、逃げ去るように角を曲がって行った。奴が配る、町内の回覧板のようなイカれた地方紙を取っていないのは、このアパートでは俺の部屋だけだった。
 洗濯機の脱水槽を開けてアパートの鍵を取り出そうとしたら、郵便受けの下に「電子部品」と大きく書かれた段ボール箱が置いてあった。ガムテープを剥がして中を改めると、昨年暮れから社長に貸したままになっていた裏ビデオが十本あまり詰め込まれていた。
 箱の表側に白い封筒が張り付いていた。
「お母さん亡くなるとの知らせあり。すぐ連絡してください」
葬儀式場の看板を書き慣れているせいか、字はそこそこうまい。が、味も素っ気もないメモだった。それでも精一杯気を遣ったのだろう、あの会社のどこを探しても出てきそうにない、つまりあのデブ社長とは似ても似つかない、ちょっと気取った薄いピンクの地に上品な透かしの入った便箋を使っていた。
それにしてもあのおっさん、ついでに裏ビデオを返しに来ることもあるまいに。人の親の死をいったい何だと思ってやがる。だいたい俺としてはあんなものを貸した以上、まともに返ってくるとは思ってもいなかったのだ。そんなことを考えながら、俺は六畳二間の流しで冷蔵庫から取り出した冷たいコーラをちびちび飲みながらしばらくぼーっと突っ立っていた。
これで俺は本当に天涯孤独になった。母と俺にはまったく親戚というものがなかった。母と離婚したあと、父が亡くなったのは、俺が小学校に上がる年だった。その話にしても俺が中学に上がる年になって、始めて母から聞かされたのだった。母と別れた後の父がどんな暮らしをして、どんな死に方をしたのか俺はまったく知らない。父と母がどんな別れ方をしたのかも知らないし、そのせいもあって、いるのかいないのかさえ分からない、父方の親戚とはまったくの没交渉だった。
 母は、長いこと患っていた。はじめはアルコール依存症でそれ専門の病院に入院した。何度か入退院を繰り返しているうち、やがて糖尿病でぶくぶくに太り、俺が地元の工業高校に入学した頃には完全に動けなくなっていた。しばらくして視力を、次いで片足を失った。それ以来母がこのアパートに戻って来ることはなかった。俺は高校生からこっち、ずっとここで一人暮らしを続けてきた。もちろん、福祉の世話になりながら。
 高校生の頃には一人暮らしということもあって、友人達が頻繁に出入りするようなこともあった。しかし卒業してしまうとそれっきりだった。俺は仕事以外ではゲームセンターやポーカー賭博の置いてある喫茶店に入り浸りで、人と付き合うことはほとんどしなかった。
 高校を出て働き始めて六年ほど経つ。はじめは地元のスーパーマーケットに就職した。新入社員が二十人ほどいたが、入社時の記念撮影は悲惨だった。男も女もばりっとしたおニューのスーツ姿で写真に収まっているのに、俺だけが民生委員の奥さんからもらったぶかぶかの古着を着て、ふてくされたようにあっちを向いていた。もちろん、誰の目にも異様に映ったに違いない。そう言えばカッターシャツの片方の襟がグニャッと曲がって跳ね上がっていたような気がする。俺としては肩身が狭かったが、その時はせっかくの記念写真なのに俺のような半端者が混じって、同期の奴等に申し訳ないような気もしていた。
 その会社は石川県内に十店舗ほどの店を持つローカルチェーンだった。仕事はまあ俺の性に合っていたが、上司との間でちょっとしたいざこざがあって三年ほどで辞めてしまった。信じられないかもしれないが、そのときはまだほんの子供で、失業保険をもらうという知恵がなかった。しかもスーパーの奴ら、だれ一人としてそのことを教えてくれなかった。そんなわけで、辞表を叩きつけて、あとさき考えず飛び出してしまったのだ。
だからすぐに新しい職場を探し始めた。それがいまの葬儀社だ。葬儀社というよりは葬儀屋といった方がふさわしいだろう、社長を含めて従業員六人の小さな事業所だ。
 客から電話があると、寝台車に黒い鞄を積んで受注に出かける。まず故人の枕元で丁寧に合掌する。そして線香を上げて、口の中でむにゃむにゃ言ってから商談を始める。葬儀の料金はだいたい祭壇の幅で決まる。金沢の葬儀は派手で、最近ではフラワー祭壇といって菊の花を両サイドにふんだんに使った巨大な祭壇が人気だ。それに香典返しや供物、花輪などが葬儀屋の収入源となる。
 しかし俺のような若造は、よほどのことがない限り受注をさせてもらえない。受注はもっぱら社長と五十代の部長が担当している。施行のラクなセレモニーホールとかが普通になるのはずっと後のことで、今の俺はもっぱら力仕事だ。注文通りの祭壇を組み合わせて、倉庫からトラックに積み込み、葬儀式場となる故人の自宅や寺院に設置するのが俺の仕事だ。それから、病院などからの遺体搬送も担当している。
 友人は、はっきり言っていない。ときどきこのままでいいのかと思うこともあるが、いまの俺にはどうしようもない。
 俺は小島拓司、二十四歳。金沢南葬儀社の、倉庫の奥の詰め所に燻って三年ほど経つ。

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