組織学の思い出・生者の奢り
はじめまして
名前はまだございませんが、Twitterはliteraとつけております。
深い意味はないので悪しからず。
内容のある投稿は初めてですので、緊張いたします。
今回は、日記というか、所感です。
僕は平素は医学を勉強しております。
まだ、基礎科目と呼ばれる、人体の生物学的、化学的な原理についての勉強のさなかであり、一般的な医師のイメージたる「臨床科目」には程遠いところにおります。
基礎科目(名前に反して難しいんだなこれが)には、弊学のばあい
・生理学
・生化学
・解剖学
・組織学
・発生学
などなどが含まれております。
今回は、その中でも、組織学の実習を受けていた時のお話。
組織学での思い出
組織学の実習では、スライド上の標本となった人体の組織を、顕微鏡で拡大し観察します。
多様な組織に、固有の特徴があり、それらをよく観察して判別できるようにするのです。(僕はとことん苦手ですが)
標本にはさまざまあります。
上皮や骨、筋、肝臓、心臓、脳、肺…
それぞれに注視すべき構造体があり、授業の進行に従ってそれらを確認していきます。
間違い探し的要素、ウォーリーを探せてき要素も強く、はじめは和気あいあいと(?)実習は進んでいたのです。
すると、とある標本を観察する段になって、全員の表情が少し曇りました。
その標本は「胎児の縦断面」でした。
胎児のスライド
わずかに1センチ足らず、頭部のみの資料でしたが、その存在感は絶大なものでした。未完成の大きな瞳がこちらを見ており、未発達の上顎は、まるでぐっと口をつぐんだ苦悶の表情のようでした。
学生たちはひととき、その鮮烈さに戸惑っていましたが、すぐに割り切ったように、上顎に照準を合わせ、破骨細胞やら、骨芽細胞やらを探し始めます。
かたや僕の頭は真っ白になりつつありました。
「これらの資料は、人間なんだ。尊厳を持つ人間の一部であったものだ」
不思議なものです。人のからだすべてがそのままである、御献体を対象にする解剖においては、敬虔な心情が沸き起こり、神妙に実習を執り行うのに、その部分となれば、途端にその背後に存在していた生を忘れてしまう。
胎児の資料は各生徒に一つずつ配布されました。
そこには、100人の胎児が、100人の母が、100人の父が…あったということになります。
胎児というショッキングな資料たれば、想像も掻き立てられるとは思います。
他の資料については?
足底上皮の切片を与えられたとき、その足底はかつて自身の故郷の大地を踏みしめたりしたはず。そして、生を全うして、今ここにいる。
気管の断面の柔毛を観察したとき、その管にはあらゆる土地での息吹を吸い込んだはず。そして、生を全うして、今ここに資料として、いる。
そのことを我々は思いやれるのか…
生者の奢り
授業は進行し、今度は肺をみる段となりました。
そこには、二種類の資料。
喫煙者:肺
非喫煙者:肺
へえ、こんなに黒くなるんだ、煙草はやっぱりよくないねえ
という学生らの表現の中に、「喫煙者:肺」というある種悪役としての名前が与えられてしまった、彼または彼女の不遇さを感じました。
生きる者が生きる者を解釈するとき、それは双方向的な活動です。
ある人が悪だとされても、その人が生きている限り、挽回の余地があり、再解釈の契機があります。
さらに言えば、その人が悪とみなされたとしても、その人に近しい人や、同じ立場にある人からすれば、その限りではなく、むしろ善人に見えていることさえあります。
一方、生きる者が死したものを解釈することは一方的です。
あれは「喫煙者:肺」だ。と含意をこめて呼んでも、相手は反駁してきません。こちらには彼ら、彼女らの生に特定の標語をラベリングする優越が存在します。
悔しいほどに不公平です。
とはいえ、組織片をみて、彼らが何者であるのか、知ることは、もはや我々にはできません。ただ、少しでも冷静に、試料を読み取り、読み取ったのちに、すこし彼ら、彼女らのことを夢想する。
そればかりしかできません。
しめくくり
…という、なんともややこしい罪悪感を抱きながら組織学の授業を受けていたら、いつの間にか赤点すれすれだった、という自虐でありましたw
お目汚し失礼いたしました…書きながらならもう少しまとまるかな…と思ったのですが、やっぱりちょっとふわふわっとした口吻になっちゃいますね。
次はもっとわかりやすく、読みやすい文章を目指します!
よろしくお願いいたします。
ありがとうございました…