「Vtuber原理主義」の可能性と限界 草案
Vtuber原理主義とは
Vtuberはリアル世界の写真をアップすべきでない
ロールプレイを崩すべきでない
……といった、とくに中期までによく見られた「Vtuber」という語の定義へのスタンスである。
なぜVtuber原理主義は忘れられたのか
ニコ生・実況者界隈との接続
15年も昔から、ゲーム実況者という存在があり、顔出しをしていなくとも往々にして彼らの「ファンアート」が存在した。
しかしマインクラフトのスキンなどを元に描かれたそれは当然「優れたキャラクターデザイン」にはなりえない。
顔は出したくない。優れたキャラクターデザインがほしい。
その需要を埋める形で装置としてのVtuberが受け入れられたのではないか。
Vtuber原理主義の「限界」
その視点から言えば、Vtuber原理主義が配信者たちの足枷にしかならなかっただろうことは想像に難くない。
あくまでいち人間としての厚みのあった配信者という存在を、ロールプレイに落とし込んで語れない経験を増やしてしまう。
また、身体を撮影したければ3Dモデルを用意する必要があり、お金も手間も時間もかかる。
写真を投稿するとVtuber原理主義のオタクに叩かれる。
では、Vtuber原理主義はなぜ生まれたのか
「バ美肉」という語の衰退
おそらく2020年頃までは、「バ美肉」(バーチャル美少女に受肉)という言葉がよく使われていた。
これは、当時のVtuber達が、配信目的ではなく、むしろ他人に美少女としての自分の姿を認識させることで、美少女になりたい欲求を叶えていた証左ではないか。
黎明期のバ美肉Vtuber達はその大半がVRChatにのめり込んでいくことになる。彼らにとって配信は必要ではなかった。
「バ美肉」としてのVtuber
それを念頭に置いてもう一度Vtuber原理主義を解釈するとまた新しい意味が生まれてくるだろう。
Vtuberには現実に生きている人間が詰まっているという事実を暴いてしまう行動が嫌われうる理由を推察できる。
黎明期において、Vtuberの目的が「わたしがキャラになること」であったからではないか。
Vtuber原理主義の到達点
Vtuber原理主義の再評価を
Vtuber原理主義の罪はある。
界隈同士の接続では仕方がないことなのではあるが、事実、配信者の文脈と接続し始めた頃には、「キャラの皮を被った配信者」というような「誹謗中傷」が大量に発生することとなった。
しかしここで、鳩羽つぐを取り上げ、Vtuber原理主義でなければなし得ない表現を模索したい。
「存在する」鳩羽つぐ
鳩羽つぐの素晴らしさは、その「語られる存在」にある。
「バーチャル界」に安住することなく、「演者が存在する」というVtuberの構造を利用し、現実の世界と動画の中の空間を受け手が結びつけてしまうような、一種の神話を創造した。
作品という形態でなく、Vtuberという形態を指定して発表されたからこそ、彼女の存在自体が作品なのだ。
「語られる」鳩羽つぐ
その動画のみが作品なのではない。
噂話としての鳩羽つぐ、論じられるもの、思い浮かべられるものとしての鳩羽つぐ全てが、Vtuberという構造を利用した作品であろう。
鳩羽つぐに関する噂が時折Twitterを流れていく。「VRCで鳩羽つぐを見かけたが、何も喋らず、しかも普通のユーザーでもないようだった」というようなものだ。
そのツイートを見る、話を聞く体験自体が鳩羽つぐというコンテンツを構成していないか。
Vtuber原理主義でしかできないこと
かならず今この世界に生きた演者がおり、演者=キャラクターとできるようなVtuberの構造を利用した表現は、原理主義のひとつの利用法 と言って差し支えないだろうと思う。
鳩羽つぐはFound footageの1種ではないか という意見を衿(@naruku_or_elli)くんから頂いたが、わたしもそう思う。
Vtuberという構造でひとつレイヤーを増やして、found footageの表現の幅を広げることができるのではないか、
そしてその先駆者が鳩羽つぐではないか。