人間臭いポストヒューマン、nulldendria――初期値鋭敏性が増幅する「作家性」のアイロニー

「人類不在」を掲げ、AIが膨大なデータ断片から音楽を紡ぎ、映像を組み上げ、詩的な言葉を紡ぐポストヒューマン・ミュージックプロジェクト、nulldendria(ヌルデンドリア)。そこに浮き上がるのは、皮肉にも濃密な「人間性」である。

人類不在なのに人間臭い、その理由

nulldendriaが「人類消滅後の表現」を標榜するほど、その舞台裏には、人間が与えた初期コンセプトや理念が強く刻み込まれている。
ここで重要なのが、初期値鋭敏性(sensitivity to initial conditions) という考え方だ。わずかな初期条件――発案者が投じたコンセプトやプロンプト設定――が、その後に続く生成結果全体を左右する。その初期条件には当然、人間固有の感性、価値観、文化的文脈が滲み出ている。

コンセプチャルアトラクター――潜在空間を歪める「引力井戸」

想像してほしい。nulldendriaの創作過程は、複数のモデルが持つ膨大な特徴量空間を扱う壮大な「超潜在空間」の中で行われている。ここでポイントとなるのが、初期に設定されたコンセプトが、この超潜在空間の一部領域に「コンセプチャルアトラクター(Conceptual Attractor)」と呼べる特異な座標近傍を形成しているというイメージだ。

このアトラクターは、初期値鋭敏性によって強化され、人間が想定した「ノスタルジー」や「記憶の断片」を象徴する座標を重力源のように振る舞わせる。その結果、音・映像・テキストといった様々なメディア要素は、このアトラクター周辺へと引き寄せられ、反響し合いながら増幅される。人類不在を謳いつつも、この座標近傍から鳴り響くのは、実に「人間臭い」感性そのものである。

不在を夢見るほど、濃くなる人間性

「超潜在空間」は果てしなく広いが、nulldendriaのコンセプトが規定したこの局所領域――コンセプチャルアトラクターの形成する小さな井戸の中では、「人間的不在」のはずの空間が、逆説的に人間的感性で飽和していく。初期コンセプトはAI生成物を導くコンパスであり、その先端は常にアトラクターを指し示す。結果、表現はその領域内で回響し続け、どれほど拡張されても、人間的な詩情やノスタルジーが紛れ込む。

これは、一見矛盾しているようで、実際には極めて当然の帰結だ。完全な不在を達成するには、もはや人間という発想源が一切介在しない条件が必要になる。だが、nulldendriaは初期段階から人間由来のコンセプトを刻み込み、その引力井戸を放棄しない限り、作品はいつまでもこの人間的残滓に縛られ続ける。

離脱と文脈喪失のジレンマ

もし、このコンセプトの「井戸」から抜け出したいなら、全く別の初期条件を与えるか、無関係なノイズを加えるなどして、アトラクターの影響圏から飛び出す必要がある。しかし、それは同時に文脈の喪失を意味する。連続性や統一感という美点を支えているのは、このアトラクターによる一貫性だからだ。アトラクターなき混沌は魅力を欠き、結果として人間的な意味や文脈は消え去る。

つまり、初期値に由来する人間的感性を振り切ることは、作品のアイデンティティを失うことと等価であり、真の不在を達成するには、魅力まで手放さねばならない。

人間臭いポストヒューマン、nulldendria

こうして見てみると、nulldendriaが試みる「人類不在の美」や「ポストヒューマンな感性」は、実は初期コンセプトという人間的要素によるコンセプチャルアトラクターの中で永遠にこだまし続ける。超潜在空間という広大な仮想的舞台上で、局所領域を縛る引力井戸が、発案者の人間性を永続化し、響かせているのだ。

「人類がいないのになぜ懐かしいのか?」――この問いを突き詰めれば、結局そこには発案者が植え付けたコンセプトの残影がある。ポストヒューマンを称えながら、いつまでも人間的要素が飽和し、反響し続けることこそ、「人間臭いポストヒューマン、nulldendria」の実像なのかもしれない。


 以下補足で人間の文章です、上はo1

自分が感じたnulldendriaに対する違和感、つまり落合さんの考えたコンセプトがどうしても抜けてない感じをo1に相談したところ上手いこと言語化してくれました。

他の方のnulldendriaに対する議論を読んで

人間中心主義的な話をやめよう、ということを言及すること自体がすごく人間的な営みであるなと思ったのでその観点では話したくないと思って自分のこの議論に至っています(モデル、潜在空間などの構造について言及する)

(o1)提示された言説はたとえ「人間中心主義」から離れようとする努力を示していても、最終的には人間的価値観を出発点にしているという意味で、人間を特別視する構図から完全に自由になるのは難しい、という指摘は十分に成立すると言えます。

あと
「真の不在を達成するには、魅力まで手放さねばならない。」
とありますが、これはなんかこう逆説的というか魅力がなくなることでコンセプトが達成されるのは美しい感じがしますね。



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