【連載小説:ホワイトハニーの未来へ】「第1章 人生っていうのは選択肢の連続だ」(1)
(1)
小学生の頃、島津大樹にとって二十歳は途方もなく遠い未来だった。
一日一日がとても長く毎日の小学校が楽しかった当時の大樹には、二十歳とは完全に大人として認識していたし、君達もあっと言う間に大人になると担任の鈴木先生がどこか誇らしげに言っていたけど、意味が分からなかった。
二十歳の誕生日の夜、大学二年になった大樹は付き合っている美咲との夕食の帰り、別れた駅のホームで小学生時代をふと思い出していた。時刻は二十三時半過ぎ。あと三十分もすれば、誕生日は終わる。成人式は一月に行ったけど、あれは懐かしい友達に会う行事だから、いまいち実感が湧かなかった。
かと言って、今も特別実感がある訳ではない。
日曜日の夜らしく、ホームには大勢の人で賑わっていた。
周囲を考えずに好き勝手に騒ぐ酔っ払い、青いプラスチックのベンチに座り首を下にして眠っているサラリーマン。まるで正反対な彼らを一瞥しつつ、大樹は眠りそうな頭で電車の到着を待った。
最寄り駅に降りて美咲とLINEをしながら、住宅街を歩き自宅に着くと既に家の中は真っ暗だった。眠っている両親を起こさないようにそっと玄関のドアを閉める。
カチャン。金属性のノブを回した音は、手を伸ばした範囲しか響かなかったはずだが、二階の奥から父、島津康平の部屋のドアが開く音がした。
外と変わらない暗さの廊下に暖色の光が漏れ出す。パタパタとスリッパで階段を降りる音が聞こえて、父が顔を出した。黒縁で大きめのスクエアの眼鏡。耳に髪が少し掛かるくらいの短髪。少々幼い顔立ちは、どうしても頼りないという印象を持たせる。
「大樹、お帰り」
「ただいま」
父の頬がうっすらと赤く染まっているのは、自室で飲んでいたからだろう。
大樹は彼が怒っているのを見た記憶がない。とても大人しくて自室で本を読むのが好き。よくある親子のキャッチボールなんて、した事がない。
いくら誕生日だとしても、0時を過ぎてしまったのだから、流石に怒られるかと思ったのにそれもない。さも当たり前のような顔をしている。
「美咲ちゃんとお酒を飲んだのか?」
「ビールを飲んだ。でも全部飲めなくて、二杯目からはウーロン茶。美咲も同じ」
居酒屋で二十歳になった記念として、二人してビールを注文した。幼稚園の頃に興味本位で飲んで以来、初めて口を付けるビール。乾杯して緊張しながら口にする。だが、味は子供の頃のまま、苦くて口に貼り付く泡が気持ち悪い。
大樹はそれでも一杯飲み切ったが、美咲は半分も飲めず、すぐにウーロン茶を注文していた。
「ははっ。最初はそんなものだ。飲んでく内に徐々に美味しく感じるようになる」
「そうなんだ」
あの味を美味しく感じる日なんて、果たして訪れるのだろうか。大樹がそう考えていると、父は話を続ける。
「大樹、寝間着に着替えたら父さんの部屋に来てくれないか?」
「明日じゃだめ?」
「疲れているところ悪い。十分もかからないから」
いつもならすぐに折れる父が珍しく引かない。十分程度ならいいか。面倒な気持ちをどうにか飲み込んで、大樹は頷く。
「分かったよ。着替えたら、行くよ」
「ありがとう。待ってる」
父は安心したように笑ってドアを閉めた。
父の姿が見えなくなってどっと疲れが出る。早く寝たかったが、一度了承してしまった手前、しょうがない。大樹は美咲とLINEのやり取りを続けながら、手洗いと着替えを済ませた。
二階へと続く階段を上がり、真っ暗な廊下の奥にある父の部屋。ドアの隙間から先程の暖色系の色が漏れている。ドアの前に立つと、僅かに緊張してしまう。別に怒られる訳じゃないのだからと大樹は、静かにドアを二回ノックする。
「はい。どうぞ」
ドアの向こうから父の声が返ってきた。声色はいつも通り優しい。
「俺、入るよ」
そう言って大樹は父の部屋に入る。
父の部屋には基本的に呼ばれない限り入らない。たまに母が掃除する時に開いたドアから覗けるくらいでこの部屋は家の中でも別の空間だった。
ガラス戸付きの棚には、一段目にシングルモルトウイスキー、二段目に本が並んでいる。並んでいる本は全て小説で単行本から文庫本まで綺麗に整理されている。
父の趣味は、ウイスキーをゆっくりと飲みながら本を読む事だった。
「まあ、座ってくれ」
部屋に二脚あるアンティークの椅子の内の一つに座るように父に言われる。
この椅子には人生の要所要所になった時に座っていた。直近だと大学受験の時。大学生二年生になるのに勝手に当時の事を思い出す。そのせいか、耳の裏からゾワゾワとした緊張に襲われた。
「今日は朝からすぐに出掛けたら、言う機会が無かったからな。大樹、二十歳の誕生日おめでとう」
「ありがと」
父に呼ばれてあらためて誕生日を祝われる。本当は今日中に言いたかったのだろう。既に時刻は0時を過ぎている。普段はこの時間帯に眠っている父が起きていた意味を察して、大樹は申し訳ない気持ちになった。
「さて、せっかく二十歳になったんだから、大樹には俺のコレクションから一杯って思ったんだがな。母さんに反対されたよ」
「そりゃあ……」
いきなりウイスキーはハードルが高い。母親が止めてくれてホッとする。
「まぁ、ウイスキーなんてこれからいくらでも飲めるようになる。飲めるようになったら、一緒に飲もう。それよりも明日、大学は何限から何限まである?」
「四限だけど」
今まで大学の授業スケジュールなんて聞かれた事がない。一体、何だろうか。大樹は普段と違う父の質問に僅かに緊張した。
「明日は大学に行かなくていい。少し付き合え。連れて行く場所がある」
「連れて行く場所? ドコ?」
「明日になれば分かる。学校を休むからって遠出じゃないから安心してくれ」
「分かった」
「母さんには言うなよ。バレたら怒られるからな」
父に念を押されて大樹は頷く。すると父は満足したように「よし」と言ってデスクに置かれていたシングルモルトウイスキーの瓶から琥珀色の液体をグラスにほんの少しだけ注ぐ。
「話はこれで終わりだ」
これ以上はココにいなくていい。直接、口には出さなくても態度でそう言われた気がした大樹は、立ち上がりドアを開ける。帰ってきた直後は感じなかったが、真っ暗な廊下は、足元から冷たい風が上がってきた。
いつまでも開けっ放しにしても父に悪いので、すぐに廊下に出る。
そしてドアを閉める前に父に「おやすみ」と挨拶をする。大樹の挨拶を受けて、父は振り返る事なく、文庫本を広げながら、「ああ、おやすみ」と返した。
その後ろ姿は、大樹のよく知る父の姿だった。
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