【連載小説:ホワイトハニーの未来へ】「第5章 お願いしていい?」(4-2)
(4-2)
美咲がお礼を言ってから二人の間に沈黙が生まれてしまった。廊下からは、病院の音がせわしなく聞こえてくる。この部屋が静かな為、それが余計に強調された。
「どうしたの? 会社で何か大変な事があった?」
「いや? 何もないよ。いつもと変わらずって感じ」
「それなら良かった。由香はどう?」
「しっかりやってくれてるよ。美咲が色々教えてくれてるんだろう? 炊事と洗濯がかなり上手になってる。だけど、もう中三だから受験が心配だな。本当は俺がそのへんもやらないといけないのは重々承知しているんだけど」
「あの子は大丈夫だよ、私と大樹の子だから。上手くやってくれるよ」
「そうだな。今日も学校帰りに来るって言ってたよ。午前中は洗濯と掃除を片付けたいそうだ。手伝うって言ったけど、自分でやるからって断られた」
口が勝手に動いて言葉を作っている。美咲から向けられる目線から逃げるようにペラペラと舌が回り、話だけが進んでいく。
ああ、そうか。このパターンはあれだ。面倒な客先と話してる時と似てるな。話している自分を俯瞰で見て、そう考える大樹。美咲は、彼の話をちゃんと聞いてくれている。しかし、彼女から質問をしないと会話が続かない。それが決定的だった。
会話と会話の息継ぎのようなタイミングで美咲が「ねえ?」と聞いてくる。
「何?」
「大樹の予感では、私はいつ死んじゃうの?」
「……えっ?」
突然の美咲の質問に大樹の脳がフリーズする。ダメだ、何を言ったら正解なのか。彼には分からない。口を開いたままの状態が続いている。
美咲はこちらをじっと見つめている。
この沈黙が続く限り、答えを知っているのと同義。
大樹は口を閉じて、静かに息を吸う。そして、彼女の目をしっかり見つめて、震える口を開いた。
「……俺の、予感では」
「うん」
「来週の月曜日の夜。美咲は亡くなるかも知れない」
この世で一番言いたくない事を口にした。その反動で心臓が熱くなり、今にも倒れそうになる。
「そっか。りょーかい」
そう言って静かに、美咲が頷く。
「どうして分かったの?」
「そりゃ分かりますよ。妻なんですから。ああ、何か隠してるなぁ。大樹が隠し事って事はーー、それで巡らせたら答えが出た感じ」
腕を組んで得意気になる美咲。そんな彼女の様子に思わず笑ってしまう。
「敵わないな。美咲には」
「そうだよ〜。諦めなさい」
ずっと固くなっていた心が他ならぬ美咲によって溶かされていく。ああ、彼女の笑顔がこの先、ずっと見られたら……。
そう考えると、また大樹の心は深く沈んでしまう。
「あらら。また落ち込んじゃった」
美咲が大樹の頭の上にポンっと手を置く。
大樹はその手を取って握りながら頭を下げた。
「ごめん。何もかも俺のせいだ」
「えっ? 何が?」
美咲が首を傾げる。
「俺が全部悪いんだ。あの日、美咲にインフルエンザの検査に行けなんて言わなければ良かった」
「でもそのおかげで、もっと凄い病気が分かったんじゃない」
「違う」
美咲の励ましに大樹は首を振って、否定する。
自分が余計な事をしたからこうなったんだ。余計な事さえしなければ、ただのインフルエンザで終わるはずだった。それを伝えられたら、どれだけいいか。
けれど、伝えたところで信じてもらえる訳がない。
大樹がそう考えていると、美咲が「何で違うかも大樹が悪いのかもよく分からないけど、」と前置きをする。
「お願いがあるの。聞いてくれる?」
「いいよ。何?」
「ありがとう。じゃあ一つ目。由香の事。お願いしていい?」
「任せて」
ゆっくりと大樹は頷いて答える。
「はい。任しました。あと私のMacBookは由香にあげて。これから必要になるから。ログインパスワードはもう教えてるから問題ない」
「それも任せて」
「はい、任しました」
美咲のお願いを聞き入れてから、二人は特に何かを話す事なく、ただ手を繋いで窓の外の景色を見続けていた。この沈黙は先程までの苦しい沈黙とは違う。
心地の良い沈黙だった。雲の流れを見て、風に揺られる木々を眺める。それだけで充分に満たされた幸せな時間だった。
それから二十分程して大樹が「さて、」といつものように腰を上げる。
「そろそろ帰るよ。午後に由香が来るから」
「うん、分かった」
土曜日は会社に出勤しないので行ってきますを言い合う事はない。ただ別れるだけである。ここで美咲は「あと、もう一つお願いがある」と思い出したように言ってきた。
「何?」
「チューして」
両手を広げて、美咲は目を閉じる。頼まれた通り、大樹は彼女の口に自分の口を重ねた。数秒して、そっと口を離す。
「久しぶりにした気がする」
「確かに。入院してからはずっとバタバタしてたから」
唇に残る美咲の感触に少し照れながらも大樹は、そう答えた。
「じゃあ由香が来るまで少し寝てようかな」
「それがいい」
大樹は美咲を支えて、横になるのを補助した。まるで重さを感じない軽い彼女を支えるのは、とても簡単だった。
「ありがとう。大樹の手って暖かいね」
安心したような顔でそう言った美咲は、横になって目を瞑った。彼女の髪を撫でてから、起こさないように大樹はそっと病室から出ようとする。
すると目を瞑ったままの美咲が大樹を呼び止めた。
「大樹」
「何?」
「教えてくれてありがとう」
「どういたしまして」
お礼を言われる事など、何一つない。
むしろ恨み事をぶつけた方がいいのに。
そう思って、僅かに背中を震わせつつ気付かれないように病室を出た。
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