【シャニマス】L'Anticaはアイドルに"なる"【ネタバレ感想】
※この記事は『第2回シャニマス投稿祭』参加記事です。
※アイドルマスターシャイニーカラーズに2020/04/30実装のイベントコミュ『ストーリー・ストーリー』のネタバレを含みます。
※鬱になるほど長いです。
まだ読んでない人は先に見て来なさい。こうかいしますよ(断言)
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では教えてください。アイドルとは?
2020/5/6現在、アイドルマスターシャイニーカラーズは既に2周年を迎えている。お祝いムードの最中実装されたイベントコミュ『ストーリー・ストーリー』は、改めて『アイドル』について考えさせられるものだった。
『アイドル』とは何なのか、考えたことはあるだろうか。それは偶像、憧れられる存在、現代においては主に芸能人の少年少女を指す言葉である。
THE IDOLM@STERシリーズには、様々な少女たち(もちろん少年たちも)が登場する。その誰もがアイドルたる才能を持った『特別な女の子』である。その一方で些細なことで悩み、悲しみ、そして喜ぶことのできる『普通の女の子』でもある。
だが、あえて断言する。『アイドル』とは『特別な女の子』を指す言葉である。『普通の女の子』は『アイドル』ではないのだ。
アイドル・ストーリー
『ストーリー・ストーリー』では、L'Anticaの5人はとある番組の企画に挑戦する。簡単に言えば笑ってはいけない○○の反対、泣いたらアウトの共同生活というものだ。
これは過去にあったような夏合宿、クリスマス会とは違う。TV番組であり、本質的にはステージに立っているのと何も変わりはない。リアリティ・ショーを謳いながら、本当の意味での『リアル』など求められていない。
テラスハウスでのL'Anticaは、限りなく自然体だった。大学生組は試験を控えた高校生組を気遣い、支えようとした。
一方で高校生組は大きな仕事を控える大学生組のため、撮影を長引かせてようと努力する。
自然と互いを気遣う。手伝いはするけれど手伝いはさせてくれない。それがL'Anticaという少女たちの『リアル』である。
彼女たちの行動は偽りのない『真実』である。だがそれは『真実』でしかなく、『ストーリー』は存在しない。
後で分かることだが、大学生組の気遣いは放送に採用されていない。高校生組を支えようとし、率先して家事を行う親切、それは確かに『リアル』ではある。だがそれはカメラ映えするような『物語』性があると判断されなかった。
一方の高校生組はカメラを意識し、慣れないバラエティーを実行してみるが、スタッフの反応は芳しくない。王道バラエティーの模倣。確かにそれは『ストーリー』かもしれないが、『リアル』から乖離し過ぎている。これは演劇ではなく、あくまでもリアリティ・ショーなのだ。
『リアル』な『物語』を要求されるという一見矛盾めいた課題。それを解決できないまま迎えた第一回の放送は散々だった。
仲の良いL'Anticaといったシーンはカットされた。放送されたものは、三峰結華が高校生組の失敗を叱責するシーンの繋ぎ合わせ。勿論それは『リアル』ではない、『嘘』である。だがそこには『物語』が存在する。
この『嘘』の厄介なところは、”L'Anticaの知られざる裏側”として十二分に通用する『嘘』である、ということだ。それは作中SNSの反応を見ても明らかだ。誰もがその『ストーリー』を『リアル』だと信じ、加工された『嘘』であることを疑わない。
いかにも番組スタッフが悪のように思えるが、実はそうではない。番組は悪意があって、悪評を広めてやろうと思って、ああいった編集をしたわけではないのである。
TV番組は慈善事業ではない。数字のために何をしても良いわけではないが、数字が取れないのならば番組を続ける意味はない。数字の取れない若手より、確実に数字が取れるであろう大御所を優先する。当然の選択である。
L'Anticaの『リアル』は、番組放送たりえるものではなかった。番組を続けたいのならば、何かしらの『ストーリー』を用意する必要がある。台本、要するに『嘘』である。
プロデューサーは『嘘』を拒否した。確かに『嘘』の導入を肯定すれば、そこから『本物』のL'Anticaは消えてしまうだろう。だが彼女たちは『本物』が『ストーリー』として成立してしまえるような大スターではない。ビジネスを考えれば、むしろ無理を言っているのはこちら側だ。
芸能とは、観客がいて初めて成立する職業である。ドラマ、アニメ、漫画、映画、音楽、そしてTV番組。普通の人間の平凡な『リアル』など、誰も見向きもしない。人を引き付けるためには、何かしらの『物語』が必要だ。『物語』がないのならば、『物語』を創るしかない。だから創った。それだけの話である。
彼女は月色
互いに手伝い合いながらも、相手に手伝わせることを拒む。仲良しながらも遠慮し合い、一歩身を引いた位置で人間関係を構築し合った関係性。それがL'Anticaの『リアル』である。
扉を開けば『嘘』が創られるかもしれない。自分のせいで仲間が傷つくかもしれない。本末転倒と知りながらも、彼女たちには扉を開けることはできないのだ。
傷つけるかもしれないと理解していながら、それでも扉を開いてくれる人物がいなければ、この関係性は成立しない。
月岡恋鐘は扉を開けられる人だ。だが彼女は決して鋼メンタルであったり、ましてや鈍感というわけではない。普段テキパキできている料理に支障が出るほどに、皆を同じように、『普通』にショックを受けている。
それでも月岡恋鐘はどこまでも気丈に振る舞い、ユニットの行く先を明るく照らしてくれる。彼女がセンターという役割を放棄することはない。
同時実装のsSSR【おはようと日向に手を振る】三峰結華の発生イベント3『今日はおやすみ、気にしいの私』から抜粋する。『ストーリー・ストーリー』エンディング後だが、ドラマを控えた三峰結華を、月岡恋鐘はグループチャットで激励する。
グループチャットで送ると迷惑ではないかと、気にしてしまうのはきっと三峰結華だけではないだろう。必要ないと理解していながら、誰もが気を使って身を引いてしまう。良くも悪くも、それがL'Anticaというユニットだ。
扉を開いてくれるのはいつだって月岡恋鐘である。その行動がどこまでが天然かわからない。あるいは天然でやってのけることこそが、『特別』な才能なのかもしれない。
月岡恋鐘は太陽のように、常に周囲を照らす存在ではない。周囲の個性に押され、「役割が迷子」と言われてしまうこともある。
L'Anticaが光の中にいるとき、彼女はその歯車のひとつに過ぎない。だが今回のように暗闇の中に沈んでしまったとき、彼女は中心に立って照らしてくれる。月岡恋鐘は月なのだ。
リアリティ・ストーリー
テラスハウスからの家出は、言い換えればステージから一旦降りたようなものだ。沢山あるステージのうちの1つと考えれば、このまま降りてしまっても構わないだろう。
だがステージに立たなければ、『アイドル』にはなれない。今のL'Anticaは番組が用意した『嘘』を纏うことで、ようやくステージに立てる『アイドル』にしてもらっている状態だ。たとえこの番組から逃げても、別の番組で『ストーリー』を要求され続けるだろう。
幽谷霧子は共同生活を楽しみにしていた。彼女にとってL'Anticaでいられる時間はステージの上だけではない。皆で過ごす『普通』の時間、そのすべてが『特別』なのだ。
たとえ『嘘』の材料にされたとしても、テラスハウスにあったのは『本物』のL'Anticaだった。だが今は『嘘』に怯えて部屋に籠ってしまっている。『嘘』は創られないかもしれないが、そこに『本物』はいない。幽谷霧子は『本物』の消失を何よりも恐れたのである。
ステージに立つためには『ストーリー』が必要である。だが『本物』を否定することはできない。L'Anticaの出した結論、それは彼女たちは『本物のL'Antica』という『ストーリー』を演じることだった。
人は複数の仮面を持ち、場面に応じて自ら仮面を選択し、役割を演じている。白瀬咲耶ならば王子様を、田中摩美々ならばわるい子を、月岡恋鐘ならば明るいセンターを演じている。
それは真っ赤な『嘘』ではなく、彼女たちの個性の一部が凝縮されたキャラクター、言い換えれば『本物の一部』だ。『本物』を演じる、というと矛盾を感じるかもしれないが、誰もが当たり前のように行っていることなのだ。
彼女たちは自分たちの日常を、スポ根さながらに演出した。試験に挑む高校生組と、それを支える大学生組。それは一見今までと変わりのない『リアル』に、少しばかりダシを加えただけかもしれない。
しかし幽谷霧子の言う通り、あるいはプロデューサーの意図通り、普通で特別なL'Anticaの日常は『ストーリー』として成立した。顧客が本物のL'Anticaを求める声こそ、『リアル』が『嘘』に勝利した瞬間だ。
繰り返すが番組に悪意はなく、あくまで重要なのは数字である。『本物のストーリー』で数字が取れるなら、もはや『嘘』を推す必要もない。その証拠に、番組はむしろ積極的に協力してくれているのだ。
『リアル』な『物語』を要求されるという一見矛盾めいた課題はを、彼女たちは『リアルな物語』を演じることで解決したのである。
L'Anticaはアイドルに"なる"
試験当日、学校に向かう道中。田中摩美々はカメラの外でも『ストーリー』を創ろうとした。それが『嘘』でないことを証明するために。
だが幽谷霧子は「生きていることは物語ではない」という。
幽谷霧子は個別で記事を書いているので改めての言及は控えるが、物語性を重視する彼女がわざわざ『物語』ではないというからには、そこに大きな意味が含まれている。
生きることに『嘘』はない。生きていることは『特別』ではない。『普通の女の子』が普通に生きること、それは『物語』にはならない。
『アイドル』は違う。アイドルは『特別』だ。アイドルがアイドルでいるために、観客に見てもらうために、『物語』という衣装が必要となる。
人は『物語』を求めるが、『物語』は決して1つではない。天才的な偉人の一生、奇想天外なファンタジー、穏やかで理想的な日常生活、様々な『特別』が『物語』として成立する。「仲違いするL'Antica」なんて『嘘』を、わざわざ選ぶ必要はないのである。
カメラがあろうがなかろうが、そこにいるL'Anticaは本物だ。その『本物のL'Antica』を『物語』に仕立て上げることができたならば、彼女たちをこれ以上美しく色付ける衣装は他にないだろう。
かくしてL'Anticaは真の意味で『アイドル』と"なった"。L'Anticaという『物語』を、他人に描いてもらう必要はない。自分の『物語』は自分で決める。嘘偽りのない、『本物のL'Antica』という『ストーリー』は、これからも彼女たちが描き続けて行くのである。
アイドル・マスター
芸能とは、顧客がいることで初めて成立する職業である。すなわち『アイドル』とは見世物、商品に他ならない。
若き少年少女たちが、歌とダンスにただ一度の青春を捧げ、トップの座を巡って争う様を、エンターテインメントとして消費する。少々意地の悪い言い方をしたが、それこそが『アイドル』に他ならない。
『アイドル』は商品だ。『普通の女の子』では商品にならない。だから『特別な女の子』を、『物語』を演じる必要がある。
だが演じる『物語』は、自分たちが決めることができる。納得できない『嘘』に袖を通す必要などない。勿論、それで数字が取れるならという話だが。
いずれにせよ彼女たちが『アイドル』であり続ける限り、『ストーリー』は続いていく。
我々は『ストーリー』に引き寄せられる顧客として、そして『ストーリー』に加担するプロデューサーとして、彼女たちの次なる一手に期待することにしよう。
蛇足 その答えはたくさんある
今回の記事とは直接関係ないけど、台詞だけお借りしたスペシャルサンクスの樋口円香さんです。本当にありがとうございました。
2周年かつ某有名人たちの生放送によって、今まで縁がなかった方々にまでシャニマスが広まってしまっている、そんな空気を最近感じています。
そんな中に叩き込んでくるコミュがこれか……と感銘を受けたので、丁度第2回シャニマス投稿祭の時期ということもあり、ギリギリの参加ですが筆を取った次第です。
的外れな考察をしていても命だけは助けていただきたいものです。
2年間テキストを読んだPなら既に知っていると思いますが、シャニマスのコミュは決して穏やかで優しい少女たちの日常を描いたものではありません。トップアイドルの座がひとつである限り、『アイドル』というものはどこまで行っても蹴落とし合いです。不正されることあれば、信念に反する言葉を投げかけられることもあります。
私はそれを芸能界だから特別闇深いとは思いません。彼女たちに立ちふさがっているのは現実であり、どんな人生を送ってもどこかで似たような壁にぶつかるはずです。
人生の大半をまだ親の庇護下で過ごしているような10代20代の子どもたちに、現実という壁はあまりにも大きいかもしれません。しかし彼女たちは壁を打ち破り、乗り越えて、先に進み続けています。
それは『アイドル』だから、『特別な女の子』だからできたことでしょうか?私はそうは思いません。彼女たちが『普通の女の子』だから、それでも歩き続けることを止めないから、その『物語』はこんなにも胸を打つのではないでしょうか。
というわけで、「絵と文章と歌だけは何より信頼できる」と東方見聞録にも記載されているアイドルマスターシャイニーカラーズを、何卒よろしくお願いいたします。
こんな文章を読んで少しでもシャニマスユーザーが、あるいはL'Antica Pが増えてくれたら幸いです。あんまり限定が続くのだけは勘弁していただきたいですけれどね。