見出し画像

ファクトが力を持つ時代にトムソーヤは生まれないのでは?

こんにちは、木月まことです
さっき、ひとつ投稿をしたのですが、リアルで起こってることがストレスすぎて(家族のことではないですが)決して調子がいいからとか調子に乗ってるわけじゃなく、もう1本書きます

ファクトの重要性が今日ほど増してる時代もまたないかもしれません
つい先月、無実の罪で1980年に「死刑」を宣告された袴田さんが「無罪」を勝ち取りました。
「死刑」判決が成立したときに裁判所に提出された証拠は、全部でっちあげという背筋の凍るはなしです
でっちあげが「ファクト」とされ、それがひっくりかえるのに44年の歳月がかかったというはなしです。
でっちあげの「ファクト」をひっくりかえすために、ものすごい苦労があったわけです。

今日、何が真実で、何が思い込みででっち上げなのか判別しにくい時代です。
この情報源なら確実に真実といえるメディアは多分、ほとんどなく
どのメディアも、半分はほんとのことを伝えていても、もう半分くらいは真偽の曖昧なことを伝えてしまっているかもしれません。

しかし、ある提出された「ファクト」がたとえ偽りであっても、それがひっくりかえるのに44年もかかることもあるのでは
一般の情報源は(ニュースなどの)真偽が曖昧なまま、少なくとも暫定真実として発表せざるを得ない部分はあるのかもしれません(その功罪や善悪は別にして)

あまりに情報源が沢山あり、かつ情報も沢山あるので、どれが真実か判別する能力に絶対の自信を持ってる人は今日おそらく少数派で
かなりの人が、フェイク情報を絶対的に識別する自信はないという調査を目にしたこともあります。

こうなりますと、逆説的に、というか悪循環的に「ファクト」信仰とでもいうものは高まります。
もちろん、袴田さんのような死刑の冤罪であれば、人命に直接かかわるので
「ファクト」が丹念に検証されるべきなのは言うまでもなかったとしても
もし、人間界で、可視化できる「ファクト」が過剰に価値を持ってしまいますとどうでしょう?

たとえば、学童期に1回万引きしたというような事実が、カードかなんかに記録され、一生を左右することがあるかもしれません。
こうなると、庶民は、「ファクト」の前にひざまずき
「ファクト」に傷がつかないことを何より重視し
「ファクト」に傷がついたら、やり直しは効かないと考えます
やり直しがきかないのであれば、結婚その他の選択に慎重になるでしょう。
神の如き清潔が求められるかもしれません。
やり直しか効かないと判断した人は、自暴自棄になるかもしれません。
そこまで行かなくとも「傷もの」と自己を判断した人は、人生に消極的になり、結果的に社会のお荷物になるかもしれません。
そんな、庶民が神のごとく身を律しても
一部の金持ちが、国家予算と同規模かそれ以上の富を持ってて、そこからあまり富がほかのところへ動かない時代に、何かいいことはあるのでしょうか?

「ファクト」が重視される時代は、素朴な人は
これに「傷がつく」のを恐れ
汚いヤツ(こういう分類はイヤですが)は「ファクト」を調べ利用し
他者の弱みを見抜き、そこにつけこみます
(たとえば、誰かの資産状況、家を空けてる時間帯を知り強盗をするとか、弱点を調べ上げ、支配するとか)

また、情報過多の時代は、なにが正確な「ファクト」か分かるのに昔より相当な時間がかかります
過多は大抵デフレにつながるので、情報はデフレを生ずるでしょう
デフレは価値の下落ですので、手間がかかるわりに大した価値を持たない情報に人は次第に疲弊し、これに背を向ける人もでてくるでしょう。

いや、まぁ、ファクトが重視され、これに踊らされる時代には、
なんていうか、ロマンが膨らみません
子供の頃、マークトゥエイン原作の「トムソーヤの冒険」というアニメを見ましたが
「ファクト」が重視され、ある個人の挙動が徹底検証されかねない時代には、もうああいう物語は生まれないのではと思います

「ファクト」が重視される社会はもちろん利点があります。
しかし、マイナス面が大きく出れば、人々は何も幻想を持てないという状況もあり得るでしょう
幻想が「ファクト」の前に粉砕されるからです。
社会の内側で一切の幻想を信じられず、また自殺という希望(?)すらなければ、地下道に寝っ転がるしかないかもしれません。
幻想がない個人というのは、たとえば人参に相当するものがない馬と同義とも言え、人参がなければ馬は鞭でひっぱたいても走らないかもしれません

社会に(外の世界に)何の幻想も持てなければ、家に引きこもって、食事をするだけの人生になることだって絶対ないとは言えません
SNSは半分くらいは、矛盾する利権同士の潰しあいの側面が、本人同士が意図しなくても、そうなってしまう部分があります

「ファクト」が生来的に好きという人はいるでしょう
個人差のようなもので、図書館などで調べ物をするのが好きな人とかもそうでしょう。
「事実」の収集に興味があるという人はいます。
しかし、事実でしかないものは、たまに興ざめでもあります
事実はしばし部分でしかなく、全体を包含することはないんですが
しかし、たったひとつの「ファクト」が他の9割の事実を凌駕して、その対象の印象を決定づける場合もあります。
そして、印象でしかないものが「ファクト」をゆがめるばあいもあり(極端な事例は冤罪死刑)
「ファクト」をめぐって堂々巡りをするのです。

パソコンやスマホの前で「ファクト」にがんじがらめになってしまってる僕らは、トムソーヤとハックルベリーフィンみたいに大陸を素足で駆け回ることはないのかもしれません

こんなことをいってる僕は、もちろん「ファクト弱者」(情弱)です。
しかし、「ファクト」という協力な武器を持って社会で優位には立てなかった自分は、昔の哲学者みたくあれこれ自分で考えるしかなかったのです。
もちろん、自分みたいなことを考えてる人は社会にゴマンといるかもしれません。

少々悲観的な見方だったかもしれませんが
「ファクト」が力を持つ時代にトムソーヤは生まれないのでは?
でした。

ここまでお付き合い下さり、ありがとうございました。


(あとがき)
今日、ふたつめの投稿になります
最初に語った通り、ひとつめの投稿のあとに起こったストレスがハンパなくて、耐えられなくて、もう一文書いたという次第です
今日は実は、noteをやらないつもりだったので
まったく予定が狂ってしまいましたというのは、読んでる方々にはどうでもいいはなしですね。
書くということは因果なものですね。

(あとがき2)
今日、トムソーヤの生まれた国アメリカでは大統領選挙ですが
どちらになるのかは別として、前回トランプ氏が大統領になったときは、SNSとかで相当な情報戦だったようですね。
これも、確実な情報かどうかは自信がないのですが
トランプ陣営は、SNSみたいな情報媒体を味方につけるのに、前回はクリントン陣営より長けてたみたいな見方もありますね
「ファクト」をめぐる混乱は続きそうです
アメリカが風邪をひけば、日本もくしゃみ程度では済まない場合もありますから、動向は多少は気になるところです

(あとがき3)
今日、色々なファクトが暴かれています
よくない計画が事前に阻止されたり、再検討を促されるのは悪いことではないでしょう。
ただ、よくない計画の何割かは、経済面におけるムリな成長や軍事力のムリな拡大を諦めればよいものもあるような気もします。
でも、こういうと、ヤツは売国奴だ!ってはなしになりかねないですね
そんな呑気なことをいってると、悪意のある外国に乗っ取られるとか
格差を決定的に固定して階級社会をつくろうとしてる人の思うつぼだというはなしもあるでしょう。
「世の中は善意でできてないし、知らない国民はだまされやすい」のかもしれませんし
ある種の決定は不可逆を招くのかもしれません
向こう10年、「ファクト」が続々表沙汰になって、階級闘争の様相を呈するのでしょうかね
利権の矛盾に気をとられてる間に、これといったこともできずに10年すぎてしまうのでしょうか
でも、僕も、前の10年は、誰かの悪意でも働いてたのではと思うようなことの前に、個人的なことはまったく進まないまま、くたびれて労力と金をとられての10年だったような気もします
トムソーヤというより、利権の矛盾の前に時間だけがすぎてくことになるんでしょうか

いいなと思ったら応援しよう!

木月まこと
サポートされたお金は主に書籍代等に使う予定です。 記事に対するお気持ちの表明等も歓迎しています。