投票日に思う(代議士政党政治の限界について)
今日は、私の住んでる地区では投票日である。全国色々なところで投票が行われている。
私は四十代後半になるが、これは、けしからんという人もいるかもしれないが、実は私はいわゆる投票というものには人生で一回きりしか行ったことがない。それは二十一歳のときで、何かに怒り狂ったわたしは「与党系の人でなければ誰でもよい、とにかく与党を落としてやる」と突然決起し、当該地区の体育館に敢然と歩を進め、与党ではない候補の名前を書き「えいっ」と投票箱にそれを投じた。
私の投じた候補は最下位になり、与党系の候補が圧勝した。これが今のところ私の人生で唯一の投票の思い出である。
ところで私たちの人生上の諸問題で、代議士が直接解決できるものはどのくらいあるだろうか?
私のこの投票日に対する消極性はかなりの程度その問いに由来している。
私たちは代議士如何で意中の異性と上手く付き合えるだろうか?
長年続くSEXレスの悩みをどうにかできるだろうか?
職場で起こる対人的悩みは?
息子の重い引きこもりは?(私には今日現在息子はいません。読み違えないで下さいね)
もちろんパワハラみたいな事例には最近の行政の関与も効を奏したろう(もちろん、そういったことへの行政の関与はプラスばかりではないと思いますが)
私は、良い作品をつくって収入を得たいと思っているが、その願望は、用意された候補のどれを選ぶかによって変わってくるものなのか?
もちろん代議士の役目は行政であって、そういう個人的なことではない。
しかし、全く個人的なものでしかない悩みは、しばし行政上の諸問題より重要なことだってなくはない。
私は、歴史が勝ち取った普通選挙法は意味がなかったと主張するわけではないが、それにしても多くの人は、やはりどちらかと言えば個人的な悩みや苦しみで忙しい。
どうして沖縄の基地の埋め立てのようなことが起こるのかと考えたとき、それはもしかすると、地元の体育館で行われる投票と…はたまた永田町で行われる政治システム、外国のペンタゴンとか軍産ロビーとかいった従来のシステムが関係しているのではないか?つまりそれは、私たちが隣人の不幸に冷淡で無関心だからとか、情熱や努力が不足してるからというより、単に従来システムの限界を突き付けられてるだけじゃないのか?
もし仮に沖縄の問題をモバイルなどのインターネットで国民の総意を示せるなら、沖縄の基地建設のための埋め立てに賛成する人が過半数を超えることはないのではないか?しかし、私たちが当該地区の体育館投票でしかその政治意思を示せないなら、その問題について我関せずになるのは仕方ないだろう。
米国の意思に少しでも逆らうのであれば、私たちは安保を破棄して駐留米軍に依存しない完全な自国軍をすぐにでも持たないと筋が通らないと考える人もいるだろう。しかし、それは極論で、そういった白黒はっきりした二択しかないという考え方は、たとえばお茶もしたことがない相手に、僕と結婚する気があるのかないのか今すぐ決めて下さいと迫るのに似ている。まずは友だちスタートにしてみて、最終結論はあとに…というやり方だってあるだろう。というか、多くの場合地球上では、極論的な決定解を求めるより暫定解から手を付けるしかないのだ。極論的な二択を迫って事後変更は一切認めませんというのであれば、当事者はそこでフリーズしてしまい、問題は保留にされるかもしくは却下隠蔽され全てがそこでストップしてしまうことだってあるかもしれない。
はなしがそれてしまったが、もし民意をインターネットなどの手段で示せるなら、また基地問題のようなはなしに、いますぐ自国軍の整備を誓約するか、もしくは米国に全面服従かの二択しかないというのではなしに、暫定解的にはなしをすすめることも可能だというんであれば、結果はずいぶん違ったものになるのではないか?
もちろんインターネット投票などのかたちで政治的決定に影響を及ぼす、あるいは政治決定にインターネットで民意を尋ねてそれも加味するみたいなことは危険も伴う。たとえば誰かの死刑や処刑がインターネットのワンクリックで決められるのは恐ろしいはなしだろう。また米国の頭首(大統領)は直接投票で決められるが、これは日本人にしてみれば「それじゃあ、結局トランプ候補のような、わかりやすいパフォーマンスをする人が勝つだけじゃないのか?」と冷ややかな目で見られるといった問題はあろう。
しかし、政治が永田町でのみ行われているのであれば、沖縄問題というのは未来永劫今日のままではないだろうか?
私たちはもしかすると戦前よりは政治教育が施されているのかもしれないが、しかし私たちの政治意思表明が、地元体育館の代議士投票に限定されているのであれば、民衆の政治議論は何の意味があるのだろうか?
代議士的な政党政治はどうしても数の原理で動いてしまう。「与党圧勝」とか「与党惨敗」とかいった形である。数の原理で動くと、どの党も街中の民家の石垣にどれだけ自党の候補者のポスターを貼るかといったことに多大のエネルギーを使わなければならない。与党第一党党首が組閣権を持ち、沖縄問題は永田町でのみ意思決定されている。また米国ではトランプ大統領が誕生したが、クリントン候補は既得権益層を擁護する人というイメージが拭いされず、そこそこ満足してる層の支持は得られても、今すぐどうにかしてくれなければ困るという人たちをどうにかしてくれる雰囲気はあまりなかった。そこでトランプ政権が誕生したが、代議士的な政治システムは、そこでトランプ推し派と反トランプ派に二分してしまう。トランプ大統領の言うことやることなら全部自動的に推して「いいね」する人と、トランプ大統領のやること言うことなら全部自動的にダメという人に別れてしまった。
トランプ大統領の決定は全部自動的にダメなのだろうか?たとえばトランプ政権はTPP協定からの永久離脱を表明したが、永久というのはともかく、TPPみたいな協定から身を引いたのは米国にしてみれば妥当な選択だったのじゃないだろうか?(違う!という人もいるかもしれませんが)
そこで問題なのは、トランプみたいな特定の人や、あるいは与党みたいな党のイメージみたいなのが象徴的にそれを引き受けて、そこでアンチとフォロワーを形成してしまうことで、肝心の個々の政治決定からはしばし目が逸れてしまうことだ。
もっとも内容に注意が向いたところで、私たちの政治意思表明が当該地区の体育館投票に限定されているんであればどういう意味をもつのかも怪しいかもしれないが…
しかし現行の体育館あるいは町役場投票以外の、インターネットなどによる民衆の政治意思表明はそれが可能になったとしても様々なマイナスはもちろん考えられる。ただ地元体育館投票と永田町のみが政治決定権を一任される現行のシステムが続くと仮定するなら沖縄問題はどのように進展するだろうか?
今日、若くして政治を志す者が100年後も地元体育館投票が唯一の民衆の政治意思表明の手段だと信じて疑わないのであれば、それは志が低すぎやしないか(などと私のような者が言うのもどうかという気もするが…)
以上が、わたしが考える今日的な代議士システムを考えたときのその限界についてになります。
(あとがき)政治に関することは普段あまり書かないタイプですが、投票日ということもあり書いてしまいました。今日投票に行ってきたばかりという人も多いとおもいます。私は地元体育館での投票には意味がないといっているのではなく、現行の政党議会政治には限界があり、たとえば沖縄問題などにそれが端的に現れてるのではないかというはなしです。
反論・異論、間違った箇所の指摘等いろいろあるかもしれませんが、長くなるのでしたらこの記事のコメント欄より、皆様方のnoteで展開していただけるとさいわいであります。わたしはといえば、候補者の主張する社会政治問題に無関心というわけでもないのですが、どちらかといえば個人的な問題や悩みに忙しくというのが正直なところであります。
御一読ありがとうございました。
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