「特急列車」-(心境小説的散文詩②)
駅のホームをものすごい速さで、電車が通過していく
三十をすぎたのに所帯はおろか、彼女すらいない僕は
時たま、会社の帰りに特急列車に飛び込んでしまうんじゃないかという
不安に襲われる。
平生、僕はそれでも様々な常識的考えで
汗ばんだ手を握って、変な衝動に必死に牽制をかけている
十代のころ「生きたいと望んでも生きられなかった人が沢山いるのだから自殺はよくない」という考えを本か雑誌で読んだ
全くそのとおりだと思って、その時は目頭が熱くなったほどだ。
両親は多分、いやもちろん悲しむだろう
いや悲しみとかもそうだが、それより都市圏の特急列車に身投げをすることで生じた損害請求が両親のところへ行くのがいたたまれない
こんな冷静になれるくらいだから今日はもしかすると
僕は大丈夫なのかもしれない
あぶないときは、夜遅い時間に向かいのホームのベンチで
突然、スマホで通話を延々としだす場違いなおばさんに
「うわぁ、お願いだやめてくれ!」
と叫びたくなったりする。
スマホを耳のあたりには当ててないBluetooth通話だったりすると
その不気味さに、さらに危ない気持ちになる
神経科受診の必要があるのかもしれない
でも診察室でふたりきりになって
先生がインベーダーかなにかにしか感じられなかったら
どうしようという不安があたまをよぎる。
先生に「あなたは異常です」という宣告を受け
へんな手帳を持たされたら…
ベンチの後ろに貼ってある
「浮気・不倫は調査します」「痴漢は犯罪です」という
へんなポスターも僕を苦しい緊張に追い込む
そんなことを考えてると特急がホームをすり抜けていく
ヒュ~ン!
ドゥルンドゥルン・ドゥルンドゥルン・ドゥルンドゥルン
ガタンガタン・ガタンガタン・ガタン・ゴトン・ガタン…
額が汗ばんでる
今日も飛び込まずに済んだ
3分後にくるのは各駅停車だ
もし、僕が身投げをすれば、身投げをした僕と
生みの親である両親は、一気に社会から「悪」と規定
されるだろう。
Twitterはまたたく間に罵声で膨れ上がるだろう
同情は一割に満たないだろう
ここまで冷たい社会を、僕は何で平生卑屈に慮ってるのか全く
理解できないこともある
しかし上述の反応メカニズムに疑いの余地あり
という人は少ないだろう
しかし社会がいくら冷たく思えても、ある種の犯罪者みたいな
その手のヒーローになる程には
僕は大胆ではない
何だかんだ、僕にはまだ理性が残っているのかもしれない
「我慢しないで」
もちろんこのメッセージは善意だろう
僕はそれが善意であることを疑ってるわけではないが
一体僕たちは何を我慢しているのだろう
僕とかが、乃木坂みたいな女の子とモルディブ島で
二人きりで戯れたり、六本木ヒルズに住んでベンツを
乗りまわす可能性はおそろしく低い
そんなのは理性で考えれば、手に入らなくても
我慢するのは当たり前じゃないのか?
僕は駅のホームで一体何を我慢しているのだろう
特急列車は今日もものすごいスピードで
駅のホームをすり抜けていく
こんなスピードで一体なにを乗せているのだろう
------(終わり)------
(あとがき)
昨夜(10月15日)書いた散文詩の2つ目です。
心境小説的なということわり書きをタイトルにつけてますけど、そういうのって想像力だけでどこまでも自在に作るってことは自分の場合は難しくて6割~7割は実際に自分が感じたことだったりします。そういうのって創作物としては価値が低いもののように受け取られがちですけど、自分の場合は自分の脂汗から作ってることも多いです。
駅のホームで苦しみに襲われればその最中は本人(自分)にしてみれば大変なことなんですけど、こうしてパソコンの前でそれと関連した光景を文字で再構成しようとするとどこかおかしくて噴き出しそうになることもあります。
ああ、でも仕事の帰りとかに駅で電車を待てばまた…いや、悪いことを考えるのは止めましょう。
こんなことまでネタにしてる自分は結構物書き根性あったりするのかもしれません。
同じ駅で起こったことや感じたことでも人によって表現の切り口はまったく違いますからね。
ある人は、駅で通過する特急列車に望遠レンズのついたカメラ向けてるし(僕もたまに向けますけど)
で、心境小説的散文詩ですけど、もう少ししたらもうひとつ出すんで、そちらもよかったら読んでくださいね。