ある作家の訃報を聞いて
ある作家の訃報を聞いた。
亡くなられたのは1ヶ月ほど前らしいのだが
そう、伊集院静(氏)のことだ。
実は、伊集院(氏)の著書は1冊も読んだことがないことを最初に断った上で、少しそのことについて書こうと思う。
伊集院静(以下敬称略)のことを知ったのはその著述によってではなく
そのふたりいた(実は3人)いた奥様が尋常でない綺麗な人だったことによってだった。
そう、夏目雅子・篠ひろ子(氏)だ。
綺麗な奥方がひとりいる男性を探すのはそんなに困難なことではないかもしれない(いや、わからないが)
ふたりいて、そのふたりとも相当綺麗な人というのは、伊集院静以外にパッと思い浮かばない。
そのことを知ったのは、90年代、まだ自分が20代だったころのことだが
もちろん、それだけを聞けばすごくおいしい(?)人生を享受してる人にも思えるだろう。
ただ、そんなハズはないということは、20代のころおぼろげに分かっていたと思う。
しかし、もちろん、夏目雅子と篠ひろ子が奥方で
「自分の人生はハタから見るほどおいしくもない」などとは口が裂けても言えないのがフツーだ。
作家の人生とその作品は、見苦しい自己正当化の上に咲いた仇花のようなものなのかもしれない。
たとえば、太宰治の作品とその人生を見れば分かるかもしれない。
ただ、個人主義社会で、権力なんかは拠り所にならないと気づいた人々の人生は、多くの場合、見苦しい自己正当化の様相を呈する。
それは悲惨なことというより、だからこそ人生は愛すべきものになるのだと思う。
あてになるものなんかありはしないと悟った人々は
裁判官の判決なんかには、共感できず
文学のような、見苦しい自己正当化の上に咲いた花にむしろ共感する。
いや、これは、おもしろいことを重視した、純然エンタメの職人みたいな作家(とその作品)は除くはなしだ。
紫綬とかを賜ったんだから、この人はむしろ権力寄りの作家だろう?
いや、それは穿った見方で
氏はやっぱり、何も頼るものがない世界で、自分の道を歩いて行った作家なのだと思う。
一冊もその著述を読んでないヤツが何を言うんだ!と思われるかもしれないが
氏の訃報を聞いてそんなことを考えた。
(終わり)
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