流れる川のように─VOL.1
最近、長文を書くのがつらいのは、もしかすると、テキストにタイトルをつける必要があるからじゃないかと思うようになった。
そこで、「流れる川のように」という仮タイトルをつけて
同タイトルで、つれづれに書く場所を設けようと思った。
特定のテーマは設けず、何が言いたいのかとかのベクトルもはっきりしてません。
文にタイトルは必要か?
noteをやっててたまにつらくなるのは、ひとつには、何か書くとテーマタイトルをつける必要があることだ。
このタイトルというのは主に他者への便宜であり
ここでもう「人様に役立つものを」と身構えてる自分がいる。
元来、文章というものは、そのようにして出来上がるのだろうか?
清少納言の『枕草子』を想起されたい
たしか、春はあけぼの、やうやうしろくなりゆく山ぎわ……とかいきなりタイトルもなく語りはじめる。
本屋に売ってる本は、小説とかフィクションを除けば、もくじがあって、大見出し小見出しとつづく
主に、役立ち系の本だ。
しかし、この種の編集都合上の便宜が、書くことを(特にその初心者に)歪める作用をしたのではないか?
誰が為に何のために文章は書かれるか?
古来、文字というのは何のために誰のために書かれたのだろう?
特定の他者のために書かれる文章は主にラブレターであり、書簡であり、それは生前不特定多数の他者に公開されるべきものではないと個人的に考えている。
古来、文字を書き記す必要の出てくる場所は、多少なりとも息苦しい場所であり、特殊な何かが起こってる場所だったのだと思う。
キリストのマタイ伝や、中国の『史記』などの文献を考えられたい。
そういうものは、気の利いたエンタメというより、ある、どうしても、書くことによって、残しておかなければいけない切迫感が現場にあったハズだ。
Twitterの投稿だって、おそらく、何割かはそういう切迫感によって為されていると思うのだが
あまりに世界に手軽に拡散される状況下に様々な問題が起こっている。
引きこもりたいような、でも引きこもれない
物書きとして、家に引きこもることも考えた。
しかし、週7で家に引きこもって、外出は必需品の買い出しくらいとなると、家人(主に母)との軋轢が増してしまう。
ノマドがあるじゃない?
ロケーション的に気に入ってる喫茶店のひとつやふたつは僕にもある。
気に入ってるドトールがあったのだが、つぶれて移転してしまった。
えっ、ドトール?
僕は、スタバ主義とか、コメダじゃなきゃとか入れ物としてのブランド名的なこだわりより喫茶店の場合はロケーションを気にする。
家にもっとも近いスタバは、何かロケーションとして苦手なので、開店以来一度も入ったことがない(めんどくさそうなヤツに思えるだろうけど、誰かといるときは、個人的こだわりは捨てて融通の多少利く人だ)
いや、それはともかく
僕にとって喫茶店は主に、ボーっとする場で、あたまを空にする場所だ。
そこで2000字とかそれ以上の文章を組み立てるなんて考えただけで地獄だ。
海の家で文章を書くのに似ている。
ビキニのお姉さんがいるところで文章など書けるだろうか?
しかし週5でびっちり働くと体力がもたないし、家人(主に母)の細かい異変に気付かないと、しらないうちに……ということはよくあるはなしだ。
そんなわけで、週5びっちり外で働くことも、家に引きこもってしまうこともできない。
役立ち情報的な観点を半分(以上)捨ててみる。
シロウトや初心者が文をやろうとすると、どうしてもお役立ち的なところを目指してしまう。
『これが誰の役に立つんですか?』というあのお叱りだ。
しかし、お役立ちを目指してしまうと、どうしても既に誰か書いてるようなところにたどり着いてしまう。
役立ちを考えるのがモティベーションになる場合もあるだろうが、最近、自分の場合「役立つかどうか?」を基準に推敲するとフリーズ、お蔵入りになる場合が多い。
原住民のリズム音楽とかは具体的効用なんかが想定されていない。
すくなくとも自覚的想定は多分ない。
ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、というひたすら続くリズムは西洋科学が得意とする効用などという分析を受け付けない。
ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、という単調なリズムは、「社会の役に」なんて気の利き方と関係ない。
これが、モールで和太鼓のパフォーマンスとなると、社会的効用、あるいは社会的迷惑みたいな、文章の推敲と似たような駆け引きが多少なりとも生ずる。
文明社会のレコード会社は、どうしても社会的効用を計算してしまう。
多くの人が「売れる」を目指し、それは、ある時期まで上手く作用していたが、ある時期から、社会的効用を先に考えるやり方は行き詰った。
SEXとかもおそらくそうで、本来社会での効用云々とは関係のないところで成立するもんだった。
そうすると、社会的効用を気にする理性的な人ほど、性的に厳格になる。
好ましいことじゃないか?
保守論客は言うだろう。
社会的効用とは、子供が生まれたら、自分の給料で大学まで行かせられるかとか、貞操を保持する自信はあるかみたいなことだ。
そうすると、理性的な人ほど、オナニーという自閉を指向してしまう。
ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、という原住民のリズムの連打は、ある生の衝動に基づいている。
モールでの和太鼓パフォーマンスは多少社会的効用を気にしている。
レコード会社のつくる音楽はもっと気にされている。
SEXも本来ある衝動に基づいている。
しかし、その社会的効用に自信がない理性的な人々はオナニーという自閉の世界で空回りする。
凡人の考える社会的効用なぞは、必需品とインフラの域を出ないだろう。
そうすると、最初に効用ありきみたいな発想は、必需品とインフラしかない世界を作り出すのではないか?
ドン、ドン、ドン……しつこいな、いや、原住民のリズムも、本来の意味での(?)SEXも効用という経済社会のものさしとは本来関係ない。
社会的効用という経済社会の呪縛の前に、自分自身を推敲的に眺めて、オナニー的な自閉に立てこもることを決めた理性人に明日はあるのか?
今日はこの辺でやめておこう。
───多分、つづく───
(あとがき)
タイトルを設定して、それに添った形で文章を作成するのに行き詰って、「流れる川のように」という仮タイトルをつけて、特定のテーマにはまとめず、ざっくばらんに書き留めました。
なので、特定のお役立ちを期待する方々にはまったく意味のない文章になっています。
タイトルをつけて、それにそってお役立ち文章というベクトルは行き詰りました(PV、スキ数等でです)
相当わずかな人しか読んでくれてないのであれば、もうスキにやりますよ。
ざっくばらんに書くスペースを設けました。
従来のタイプの文章をまったくやめてしまうというわけではございませんので、むかしから読んでくれてる方はご安心下さい。
また読みたいと思われましたら、是非このスペースに立ち寄ってみて下さい。
(製作データー)
書き始め:2021年7月30日午後16時11分