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運気の流れは存在するか?(占い小話⑤)

こんにちは、木月まことです。

noteでコラム欄とかを漫然と開くと、「絶好調!」っていう感じの人が目立ちますよね。

というより、絶好調ではない人、言い換えれば、そんなに運気がよいとはいえない人っていうのは、炎上の当事者とかを除けば、そもそも目立たないところで、ひっそり更新が止まってしまったり、アカウントを削除してしまったりなんで、あんまり人の目に留まらないんですよね。

もちろん全然別のところで元気にやってる人も多いのかもしません。

ただ、やっぱり運気の好・不調ってどうしてもあるんじゃないかというのが、いまのところのわたしの結論です。

ちょっと個人的なはなしになりますけど、わたしは学校でいじめを受けてたり、不登校だった時期もありました。

しかし、小学校1年から大学をドロップアウトするまで、ずーっとベタで毎年嫌な年が続いたわけではありません。

そこそこ楽しくやれた時期もあったわけです。

この辺の不可思議も自分を占いや運勢学に向かわせた一因でもあります。

こじれる年と、そこそこ何事もうまくいく年とがあるのはどうしてだろうということです。

さて再び個人的なはなしになりますが

わたしは中国系の六星占術(細木数子さんと細木かおりさんの)だと「寅・卯」天中殺になるのですが、特に「寅」年って自分の場合4・16・28・40歳がこれに該当したんですが、4歳のころのことは流石に覚えてませんが、あとの「寅」年は思い出しても、結構波乱(庶民の波乱なんてタカが知れてますが)で、対人関係もこちらから強く求めた関係はことごとく決裂しました。
それも、結構あとに響く決裂だったんです。
また上の人からもよく思われなくて、16歳の天中殺とときは、スーパーでアルバイトしてたんですが、課の「忘年会」に欠席したのと、数回重なった遅刻で課の主任からモーレツに煙たがられ、副店長からも冷ややかな目でみられてしまったのです。
これらはやや自業自得な部分もありましたが
40歳のころも、やはりスーパーで働いていたんですが、店長・副店長がほぼ同じ時期に代わり、ほとんど酷遇といっていい扱いを受け(具体的なことは書けませんが)流れがモーレツに悪くなってしまったんです。

これらのことを踏まえると「寅」天中殺は自分の場合そこそこ当たってると思えるわけです。

また16歳のときの「寅」年のときは、2年生に進級して、マンモス校だったため、クラス替えで環境が1年のときと劇的に変わり、かなり不登校に近い状態になりました。(家の引っ越しも同時期にあり、これも状況の悪化に加担しました)

ある程度当たってるかなというのが実感です。

じゃあ、運気のよい年はあったの?

いや、全般的に低空飛行の期間が長かったといえるこれまでのわたしの人生ですが、

よく考えると「午」年は結構よかったです。

これもまた個人的なはなしになるんですが、20歳のときの「午」年は大学1年で奨学待遇を受けられて、1年からゼミがあったんですが、教授から「寵」といいってもいいくらいの視線を受けて、他の教科でも、毎回出席をとるのに年間で5回しか出席してない教科に、そりゃあ教授の指定する本はバッチリ読みこんで年末試験に臨んだんですけど、出席5回で90点とかついてた。こりゃ、相当自分の答案が高く評価されてるなと、自分で驚きました。
これが天中殺の年なら、間違いなく「また来年履修しなさい」かよくても70点くらいだったでしょう。(これらの幸運は翌年大暗転し、ノイローゼから学校を除籍する展開になり、そのまま引きこもりになりました)

また別の「午」年、今度は44歳のときになりますが、先ほどはなした40歳の「寅」年でかなり流れが悪くなった仕事先のスーパーで、部署異同がおこりました。そこで、わたしがその部署に異同した月から部署の売り上げが急増したのです。あんまりハッキリした因果は今日でも不明なのですが、僕は前の部署同様に当たり前のことを当たり前にやっただけなのです。
店長・副店長も多少は黙らざるを得なくなりました。
それどころか、部署と関係した本部の人たちからも好遇を受け、最初の部署の研修会で1番後の目立たない席におずおずと座ってたわたしに直々に声をかけてくれ2,3アドバイスを受けたのです。
店舗の人たちを越えて、本部の好遇を受けたわたしには、多少やっかみも受けましたが、しかし、その頃、文筆をやるために会社を辞めるプランがおぼろげにあったわたしは、その好遇を結果的に蹴ることになってしまいましたが、それはともかく、当たり前のことを当たり前にやるのが思いがけない結果に結びついたのも、やはり「午」年効果もあったのかもと思います。

これが、天中殺の年であれば、当たり前のことを当たり前にやるくらいで、上述のような展開はあり得なかったのではないかと考えています。

こう考えてくると、自分はすごく低空飛行の惨めな人生だったと自虐的に振り返る人の人生も、年単位で細かくみると、「いやいや、そこそこ、うまくいってた年もあったはずですよ」ということのほうが実際は多いんじゃないかという気がします。

運気がある程度把握できれば、たとえば天中殺の年まわりであれば、過剰な期待を自他に対して慎めると思うんです。
実際、僕もこれは経験談でしかないのですが、天中殺のとき無理に手を伸ばしたり、どうにかしようとした人ってホントことごとく決裂です。
しかも、のちに尾を引くことが多く「詐欺師か悪人じゃねえか?」っていう悪いイメージが払拭しにくいことが多いんです。
でもこれ客観的には、相手が真性の悪人や詐欺師だったという可能性より、自分か相手の(または双方の)運気が悪い(天中殺など)か、または二人の元々の先天的な相性がそもそもよくないかのいずれかの可能性も高いと僕はみています。
だから、あなたか自分が天中殺のときに、たとえば無理に自分に手を伸ばした人がいたら、自分が詐欺師か悪人にしか見えないこともあると思いますし、逆もあると思います。
逆に幸運期のときに出会った相手なら、天中殺で猜疑が生じたとしても、でもそのもう片っ方で「いや、そんなハズはない!」って冷静に考えられる自分がいるハズです。

よくネットなどでインフルエンサーなどに「こいつは絶対に悪人だ、許せん!」みたいにしつこく絡んでいく人がかならずいますが、多分、インフルエンサーの運気か、その絡みついている人のどちらか、または双方が「天中殺」だったという可能性も結構あると思います。

「天中殺」のときこじれると、無条件に相手から「絶対悪」と決めつけられたり、しかもそのイメージは容易に好転しないケースも多いようです。

もちろん「天中殺」の期間中に、人生の最良のパートナーや伴侶に会うこともあるのでしょうし、これらは無論、絶対法則ではないと思いますし、例外もかなりあるのかもしれません(わたしが著名人やリアル知人で生年月日が分かる人をいろいろ観察してみて「天中殺理論」があきらかに外れた最近の記憶は、安倍元首相です。安倍元首相は「申・酉」天中殺ですが、2016年(申年)と2017年(酉年)は飛ぶ鳥を落とす勢いで、野党がどんなに束になってかかって行っても微動だにせず、次々と法案を成立させたので、わたしは半ば首をかしげていましたが、本来なら好運期の昨年、これから運気が上昇するはずの昨年に職を辞す展開になりました。しかし好運期のツキが多少残ってるのか、例の会計をめぐる疑惑の追及は今日現在までのところ免れています。このように「天中殺」も例外は沢山あるのかもしれません)

しかし、もし誰かとこじれたりトラぶった場合は、相手の行為や動機の是非ばかりに焦点を当てるのではなく、自分か相手の運気を見てみるというアプローチもなくはないのかもしれません。

同じ努力をしていても、空回りばっかしていて、悪い方へばかり解釈されるときもあれば、同じ行為があっさり目上の「寵」を集めるときもあるのであれば、運気というものは、やはり存在するのではないかというのが現時点でのわたしの見方です。

もちろん、パワーのある人は運気なんかは気にせず、パワーだけでブイブイ開運していきます。

僕がたとえば、岡本太郎とか勝新太郎とか萩原健一みたいな感じのすごい人であれば、気合や情熱、魂力みたいなもので運気など気にせずひたすら人生突っ走るでしょう。
そのほうがカッコイイに決まってます。
また「天中殺」の年運で伴侶に会い、仲睦まじく暮らして、今年60だっていうんなら、易の本なんか捨ててもよいでしょう。

でも、そこまでの器でないと思ったら、一度、運気の流れみたいなことも、それにとらわれすぎない範囲内で気にしてみるのもよいのではないでしょうか。

もちろん運気なんてものはまったく気にもしないで、ほぼ思い通りの生涯が送れたならそれが素晴らしいのは言うまでもないですし、「天中殺」みたいなはなしにとらわれすぎて、顔が青ざめて暮らしてるのはもちろんどうかと思います。

しかし運気の流れというものは存在するのではないか、というのが現在までのわたしの見方です(「天中殺」理論だけに着眼してるわけではなく、他の占いも見ています)

長い文御一読ありがとうございました。

(制作データー)
書き始め 2021/1/10 18:15

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木月まこと
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