愚弄・嘲笑・滑稽と日本文学の王道
こんにちは、木月まことです。
年の瀬も押し迫ってどんな風にお過ごしでしょう。
わたしは2018年の2月に会社を辞めました。(すみません、日本文学の王道というタイトルですが余談から入ります。余談はもちろん本題とつながっています)
会社は辞めました。
本音ではなせばフリーランス志望です。
でも、たまにフリーランスは、完全フリーランスは自分の能力を超えているのではないかと懐疑的になることもしばしばです。
単記事が即金になるという噂を聞きつけ2018年の5月にnoteを始めたのですが、今日現在までnoteからの収入は0円で、派遣バイトからの収入に頼っています。
会社を辞めたのは母艦の喪失に等しく、LINEのトークは会社を辞めたのを境にそれまでの40分の1くらい(でしょうか)に減りました。ひと月に5回あれば多い方です。
会社もいろんな意味でそんなに居心地抜群の場所というわけでもなかったのですが、母艦の喪失で、ひとり執筆などをしこしこやってますと、たまに被害妄想感情が膨らむこともあるんです。
会社にいても被害妄想感情が生じることは結局あるんです。
ただ、この被害妄想というのも、あるいはそれとの闘いも創作フリーランスのひとつの醍醐味かもしれませんし、また裏目にでれば危険ファクターでもあるかもしれません。
noteを閲覧してると、たまにですが何か自分が愚弄されてるような気になることもあります。また自分の書いてる文章が他者にそういう気持ちを引き起こしてることもあるでしょう。
それが僕の勝手な妄想なのか事実なのかは確かめ得たところで益はないでしょうし、ネタにするなとかいうつもりもないんです(ネタにされたり、記事の着想を自分から得たのであれば、むしろ僕にとっては光栄なことなのかもしれません。あるいはネタにされたということ自体がそもそも勝手な思い込みなのかもしれません)
ただ自分の方にたまたま余裕がないときだときつく刺さるんです。
たまに惨めになるんです。
母艦を喪失して、父が昨年亡くなって、母と妹は派遣バイトの他はこんな金にもならないことに自分が精をだしてるおかげで、ふたりにはビミョーに蔑視されています。たまに心理的に四面楚歌です。
noteを読んでると、たまに妻君のはなしとかを書く人がいるけど、チョー羨ましいです。
部屋にひとりいると、たまに禁固刑にでもあってる気分になこともあります。
「辞めちまえよ。そんなんじゃフリーランスは無理だよ!」
まぁそれはともかく…今日の本題に入りましょう。
愚弄・嘲笑・滑稽と日本文学の王道というテーマです。
みなさんも、SNSとかをやってれば1度は被害妄想が膨らんだことはありますよね。
また、逆に誰かの被害妄想を気づかぬところで膨らましているかもしれません。
それが軽度で済めば、その人は多分リアルの交流が充実していて孤独度みたいのが低いのでしょう。
頼れるひとがリアルの中にいるのでしょう。
しかしでは、逆に愚弄や嘲笑、滑稽なしにどのくらい表現が成立するのでしょうという問いをたてることもできます。
もちろん、愚弄、嘲笑はいけません!というモラルを強調する手立てもあります。これがフツーの大人のやり方です。
でも、愚弄、嘲笑とそれがもたらす滑稽を表現から抜き去りますと、それははたして素晴らしいことなのでしょうか?
日本の近代文学(純文学)の雄に夏目漱石や芥川龍之介、太宰治といった人たちがいるのは御存知だとおもいますが、これらの人も愚弄や嘲笑とまではいかなくとも、かなりそれに近いものを基調にしていたともいえるでしょう。
ぼくはこれらの作家は基本好きです(といっても自分は太宰はともかく、漱石や芥川は3、4冊しか読んだことがない不勉強な輩ですが)
というのもこれらの作家は書斎から超越者のごとく世界を眺めまわし発言しているふしがあるからです。
それは仮に虚勢のハッタリに過ぎなかったとしても、すごいなんか頼もしい感じがします。
もちろんこれらの人は実際には政治社会に対しては少なくとも直接形では無力に近かったのです。
しかしこれらの人は、当時、政治・経済の直接の実力者だったひとより、ある意味時空を超えて今日を生きる人をも励まし、慰めを与えています。(こういったものは好き嫌いの世界ですので、嫌いな人には無論1文の価値もありません)
さらに時代を遡って江戸時代になりますと、黄表紙、滑稽本といった風刺を基調にした文学が存在したことが分かります。
これらの文学は、政治、社会を諷刺し、風俗を乱した咎で作者は獄につながれたりしたのです。
落語の世界もすくなくともその一部は、やっぱり政治、社会、あるいは強者、権力を諷刺したり批判してそれを笑いに変えたものです。
こういったものに共感するか否かはその人の立場にもよります。
たとえば、あなたがガチな強者や権力者であれば、これを諷刺して笑いをとったものなど面白くもなんともないかもしれません。
しかし庶民の立場からすれば、こういったものも少なくとも当時はカウンターカルチャーの一種だったのです(今は、権威的なものの権化でもあるのかもしれませんが)
正面切って叩くことはせず、チクリチクリと少しずつ刺す。
それは庶民に可能な唯一の抵抗だったのです。
こうして考えてくると、愚弄、嘲笑と、それを笑いに変える滑稽は、意外にも日本文学の王道ともいえるひとつの形だったのではないかと…
もちろん、漱石や芥川や太宰は王道なんかじゃないという考えもあるでしょうから、ぼくの見方が絶対正しいという保証もありません。
しかしでは、こういったものが仮に日本のもしかすると王道であれば、もっと、こういったものを積極的にやるべきなのでしょうか?
わかりませんが、いくつかの観点から、今日の状況だと難しいことも考えられます。
まずひとつには、日本社会は下流が拡大しているといわれますが、それは収入や私財など経済の側面だけのはなしであり、そういった側面を除けば、大学進学率の上昇で、プライドの高いかつ傷つきやすい人が増えてるんです。意識面では中・上流みたいな人は増加しています。
「このわたしを傷つけるなんて許せない」という人の数はどの時代にもまして増えているでしょう。これは日本に限ったはなしではありません。
こういった傾向も、地位も収入もある、なおかつ組織のリーダーとかで日常的に沢山の人とつながりが持てる人のほうが抑えが利きやすいでしょう。あまり人とつながってない完全フリーランスのほうが、こういった傾向に抑えが利きにくいと思います。
では、仮に、じゃあ、お互いに殴り合うことによって、そこまでいかなくとも、ハッキリ感情をぶつけることによってかえって相互親和がもたらされるから積極的にやろうということになっても、それはせいぜい日本国内だけで通用することで(日本でも通用しないかもしれませんが)たとえば、フランスの諷刺画のジャーナリズムが国外からのテロに襲撃されたのは覚えてる人も多いかもしれませんが、国や民族がかわれば通用する常識もまったくかわってきます。
そういったことで、それを積極推進することはできにくいかもしれませんが、ある意味、愚弄、嘲笑とそれを基盤にした滑稽は、日本文学の王道ともいえるものだったのではないかということが今日の論旨でした。
そいうったやり方で、強者や社会に小さなカウンターを試みるのが、「それは卑怯で姑息だ」というひともいるでしょうが日本の、特に庶民の伝統というか王道なのかもしれません。
漱石や芥川、太宰みたいなあり方は、それなりの返り矢が飛んでくることは否めないかもしれません。
ですので、それなりの強靭さが必要なのかもしれません。
でもそういった無頼な要素が時を超えて多くの人に親しまれてる要因なのかもしれません。
今日はこれで終わりにします。
御一読ありがとうございました。
サポートされたお金は主に書籍代等に使う予定です。 記事に対するお気持ちの表明等も歓迎しています。