51歳で逝ったあの人は
2019年11月、51歳の女性がこの世を去った。神経難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)に罹患していたその人は、身体を動かすことも意思疎通をはかることもできなくなっていくこと、医療や医療機器、介護サービス、家族の助けなくしては生活できない状態が進む中で、生活を―生きる活動―を止めることにした。
ALSは原因不明、治療法もない指定難病だ。
病気の進行とともに、患者さんはいくつもの選択を迫られる。胃ろうをつくるか、気管切開をするか、人工呼吸器を付けるか。いずれも生きるために必要な措置だが、選択しなければ死に至る。もし、どこかで治療を差し控えることを選んだら「自然死」になり、彼女が大きな話題を呼ぶことはなかっただろう。病の進行は、熟慮したり逡巡することを待ってくれないから、たいていは生きることを前提に進んでいくが、それは次から次へと「死」が目前に現れることだ。おそらく体の不自由や苦痛がありながら、何度も何度も「死」に直面したのだろう。
嘱託殺人か自殺か、安楽死か。大きな議論を巻き起こした彼女は、どんな人だったんだろう。ちょっと思いを巡らせてみた。
1968年生まれのがっちり昭和育ち世代
2019年に51歳ということは、おそらく1968年(昭和43)生まれ。私より4歳上だ。同じ京都市出身。現在79歳の父親が28歳の時に生まれた。太平洋戦争真っただ中に幼少期を過ごした父は、おそらく戦争の記憶と共に歩んできた人だろう。
彼女が2歳の時には大阪で万博が開催された。幼稚園の頃にはオイルショックがあり、底冷えする京都の冬に灯油が手に入らず、寒い思いをしたかもしれない。
小学校に入学した年は長嶋茂雄が引退した年で、ユリ・ゲラーのスプーン曲げなど超能力ブームで、きっと学校でも流行っていただろう。男の子の自転車はツインライトでギアでいろいろ変速できるやつ。女の子はリカちゃん人形が流行り、なんとかしてモンチッチを手に入れたい頃だった。
テレビでは「ザ・ベストテン」の放送が始まり、昭和アイドルたちがきらめく時代だった。低学年の頃はピンクレディーやキャンディーズが、高学年の頃には松田聖子や中森明菜がデビューした。髪型やファッションに憧れる頃だ。
中学入った頃は「校内暴力」が深刻な頃。不良とか非行とかいう言葉が飛び交いつつ、なめネコなど可愛くおもしろいアイテムにもなった。同志社大を出たという彼女は、中学や高校で同支社に入学してエスカレーター式に上がっていった人だろうか。もしそうなら、小4の頃から中学受験の準備をしただろうし、高校入学だとしてもかなり優秀だ。同志社中・高はあの頃の京都では女子が進学する最高峰の私立校だったから。
高校に進学した1984年はロサンゼルス五輪が開催された。開会式でロケットマンが空を飛び、ど派手でアメリカの科学技術やエンターテインメントがフィーチャーされた。スタジャンが流行って、音楽を聴くのはレコードからCDへ。なぜか手編みブームが到来して、好きな男の子にセーターやマフラーを編むのが流行った。日経平均株価が初めて10,000円の大台を突破して、バブル期が始まる。
バブルと踊った大学生~就職
1987年、彼女は同志社大学に入学した。この年の4年制大学への進学率は、男子35.3%、女子13.6%。女子の大学進学率は高かったが、多くが短期大学へ進学していた。まだまだ女子に学問は必要ない、いきおくれになると言われていた時代で、4年制大学に進学した女子は40人クラスの中で4~5人だった。彼女が大学生の間に時代は昭和から平成へ。村上春樹の『ノルウェイの森』がベストセラーになり、トレンディドラマが始まり、女子大生がもてはやされてワンレンボディコンとか、シャネルの口紅、ヴィトンのバッグが定番。卒業する1991年の大卒女子就職率は81.8%!就職氷河期2年目の筆者からすると信じられないくらい、誰もがどこかへ就職できていた。海外旅行もごく当たり前に行けるようになり、ヨーロッパに卒業旅行でブランド物を現地で爆買いする…そんな人が多かった。
彼女は東京の百貨店に就職したという。大学の専攻が理系だったのか文系だったのかわからないが、あの当時の新卒女子には関係なかったと思う。同志社大学は関関同立という関西の私立大学上位4校のひとつでブランドとしてはとてもバリューがあり、「京都のお嬢様」というイメージもプラスに働いただろう。1991年はジュリアナ東京がオープンしたバブル真っ盛り。丸の内OLが女子のステイタスのひとつで、「丸の内ピンク」と言われたイヴ・サンローランの青味がかったピンクの口紅が必須アイテム。86年に男女雇用機会均等法が施行されてはいたけれど、差別的な雇用も配置も罰せられなかった時代で、多くの女性は「腰かけ」前提で良い条件の伴侶に巡り合うべく、なるべく大企業に入るものだった。「クリスマスケーキ」という言葉が囁かれる―25を過ぎたら賞味期限が切れるから―その年齢までに結婚しなければというプレッシャーの下、就職した人が多かったと思う。
彼女はしばらく百貨店に勤務したのち、建築家を目指してアメリカに留学した。25歳の期限が来た頃だろうか、過ぎてからだろうか。その年齢の頃は、もうウソみたいに友人や同僚が結婚していく…ご祝儀貧乏なんて言ったものだ。もう一つ大きな流れがあって、ちょうどその頃にバブルがはじけた。すぐに影響は出なかったかもしれないが、華やかなOLから本当に働く企業人になる必要が出てきただろう―伴侶が見つからなければ。その仕事が好きで、憧れて入ったのかは定かではないが、あの頃「腰かけOL」のつもりだった女性たちの中から、やりたい仕事に転職したり学びなおす人は少なくなかった。彼女も日本を離れ、ニューヨークで建築家を目指して勉強し、その後も留まって働いていたそうだ。
ちょうど彼女と同じ年ごろの同志社大を出た女性が知り合いにいる。その人は卒業後に市内の有名企業に就職し、同級生たちがどんどん結婚していく中、その企業を退職して家業を継いだ。いろんな複雑な事情があって、家業を大きくする中で結婚する機会を得なかった。
ミレニアムをニューヨークで
ニューヨークに暮らしておそらく5年ほどが経った2000年頃、母親が亡くなった。99年は世紀末でIT業界は地獄の年末だが、たいていの世界はきたる新世紀に浮かれていた。ちょうどミレニアム・イブの大晦日、タイムズスクエアでアメリカ人だけでなく世界中から集まった人たちが、新世紀に入る瞬間を目撃しようと大騒ぎしているのを筆者もテレビで見ていた。アメリカはインターネット・バブルの時期で、好景気に沸いていた。その時32歳の彼女は、母を亡くした。
翌2001年、独りになった父親を気遣ってだろう、ニューヨークに呼んでいる。きっと9月11日の同時多発テロより前ではないだろうか。父は59歳で定年間近なぐらいで、ひとりで渡米するのもそんなに困難ではなかったと思う。まだお父さんも若いし、私はしっかり自分の面倒は見られるから心配しないでね、というような気持ちがあっただろうか。
30代、日本で就職
その後、どこかの時点で彼女は帰国して東京の設計事務所に勤めることになった。早ければ当時多発テロの後かもしれないし、遅ければ2008年のリーマンショックの頃か…経済情勢は関係なかったかもしれない。いずれにしても30代のうちに日本で就職した。2000年からの10年間、建設産業では不況のため就業人口が減り続けていた。「コンクリートから人へ」というマニフェストを政権交代を果たした民主党が掲げたのは2009年。建設産業は不況だけでなく3Kイメージが根強くて若者がITなど新しい産業に向かうため、深刻な人材不足に陥り始めた頃だ。京都ではキャリアを発揮できるような職場はなかっただろう。彼女の就職が容易だったかどうかはわからないが、東京では既にキャリアのある人材として迎えられたと思われる。「大改造!!劇的ビフォーアフター」というテレビ番組が始まったのが2002年で、建築家の仕事がお茶の間にも知られるようになっていた。そうして彼女は30代を駆け抜けた。
病を得て始まった40代
40代になって間もなく、彼女はALSを発症する。iPhone4が世界を席巻し、日本ではAKB48やK-popが人気になっていた。
40歳。働き続けてきた人ならば、転職組でもそろそろ役職が付くころだ。責任を負いながら自分で仕事を進めていく。部下もいて、上司との間にはさまりながら組織の中を成り立たせる難しい時期だったかもしれない。まだまだ上昇する位置にいて、貴重な戦力だっただろう。『負け犬の遠吠え』という本が出て15年以上が経ち、彼女本人は知らなかったかもしれないが、結婚せず、子を持たずに働き続けた女性たちが、その頃の新卒で就職する女子たちの「ロールモデル」とされつつ、いやでも家庭と両立も大事よね…と説かねばならない世代だ。
40歳。じゅうぶんな人生経験を備えつつ、まだその先を夢見ることもできる年齢かもしれない。
ALSが進行する中で、彼女は少しずつ自分に備わった、あるいは備えてきた能力を喪失していった。仕事を辞めて故郷・京都へ帰るが、すでに70歳となった父親に介護の負担はかけたくなかっただろう。父が独りで無事に過ごしてくれているだけでもありがたいのだし、異性の親に身の回りの世話をしてもらうというのは、ちょっと無理だ。きっと高い実務能力を備えていた彼女はマンションの一人暮らしを選び、環境を整えていったのだろう。車いすでも海外旅行は行けるのだからとハワイ旅行にも行った。しかし、病は進行し続け、自分のちからを一つひとつ失くしていく。
私は1968年生まれの彼女がALSを発症するまでの人生が「バリバリのキャリアウーマン」という成功者的な一言で済まされないものだったろうな、と感じる。近い世代だから時代の空気も知っているし、その年代の女性が(バブル期の人と一括りにしても)どう生きてもかなり多くの制約があった話も聞くし、身近にもたくさんいる。結婚して家庭に入るのが“当たり前”のゴールだった世代。男女雇用機会均等法後の先輩たちのもがく姿を目の当たりにした世代。享受した豊かな経済が、いつの間にかどんどん失われていった世代。テレビや雑誌などマスメディアの流行と共に生きた世代。
そんな時代を駆けてきた彼女は、社会人になると同時に故郷を離れて親に頼らず生きてきたのだろう。仕事でもプライベートでもいろんな人と関わりながら、一人生きていける能力を備えていったと思う。それはスキルや知識だったりコミュニケーション能力だったり、フル活用してきたと思う。40歳は、美容の曲がり角を意識しても、まだ老いは感じない。だんだん“若い子”が主役になっていく頃だけれど、自分もまだまだ伸びしろがある。
それが病によって言葉を発することができなくなれば、周りの人をねぎらうこともお願い事をすることも、即座にできない。コミュニケーションでなんとかなりそうなちょっとしたことも、されっぱなしになる。弱音も苦痛の訴えも、視線入力のPCで入力しなければ伝わらない。他者が投げてくる言葉をキャッチこそすれ、投げ返せない。会話にならず一方的に言われるばかりで、それがいろんな決定事項にもつながっていく。いろんな感情や考え、ひらめきも出口がないままに積もっていくばかりだったのではないだろうか。
年老いた父はたん吸引もままならず、意思疎通の文字盤を追うのも一苦労だ。そんな状態で弱音は吐けなかっただろうし、吐いたとしても短い単語を投げるくらいになっていたかもしれない。誰かを気遣うほどに「気丈な私」「しっかりした娘」から逃れられなくなる。身体的な苦痛にもさいなまれる中、「これをしなければ死にますよ」という選択は次々とやってくる。それは、絶え間なく「死」を突き付けられるということだ。
私はがん宣告を1度受けて、その後にもう1度宣告待ちをしたことがある。どちらも51歳までに起きたことだけれど、疑いが出た時、精密検査をする日程を待つ時、結果が出る時までがいちばん苦しかった(次点は再発のチェック)。きっと「死」を突き付けられるからだと思う。死が間違いないものとして存在するのと、目の前にバン!と現れるのはぜんぜん違う。その恐怖を体も声も自由にならない、けして主体的に参加できない人間関係の中で受けるのは、どんなにおそろしいことだろうか。
選択と意思表示と決定と
もし、その選択の度に死にたくない、生きてよかったと思ったとしても、すぐに次の選択がやってくる。治療をしない選択をすれば、それなりに自然死(病死)ができるだろうが、強烈な苦痛に見舞われて…。別になにか責任を負ってはいないよね。先立つ不孝の許しを願う父だってお迎えは間もなくだろうし、私を残して逝くほうが辛いかもしれない。子どもも、私が世話をしなきゃ生きていけないような小さきものもいない。仕事も待っていない。この先? いろんな道を患者の諸先輩が切り拓いてくださっているから、自分も24時間の介護が受けられて、苦しいながらもPCが使えるけど……。
私個人は、彼女が自殺しようと思ったことをまったく否定できない。ずらずら並べてきたこの年代を生きた女性は、ハイティーンの頃からどれだけ「生産性」や「生きる価値・意味」に晒されてきたことか。そこに疑問をはさむ余地なく、普通に生きて、おのれの存在価値を懸命に積み上げてきた道半ばなのだ。自分の扱われ方、ままならない体、絶え間ない痛みや苦しさの前にその積み上げは何度も何度も突き崩される。崩されながら「自分の意思」で生きるための「選択」繰り返す。
きっと考えるスピードは変わらないままなのだから、疲れると思う。疲れ果てたと思う。
安楽死を望んだことも自殺を企てたことも、きっと目の前に繰り返し立ち現れる「死」を、一つにぎゅっと固めて現実に相対するもの、としたかったのではないか。
今回の嘱託殺人は、違法なことは本人も関わった医師たちも承知のことだった。それが良いか悪いかでなくて。同じ病の似た状況を生きた人がいるとしても。彼女ひとりのライフストーリーを考えてほしい。
個人個人に寄り添った医療や介護が可能なのかどうか、苦痛を取り除く緩和治療が受けられたら彼女が考える方向が拡がったのではないか。あるいは医療だけで人生をまるごと引き受けるなんてどだい無理なんじゃないか。では、誰が担えるのか。安楽死の是非だけでなく、いろんな議論が出てきてほしいと思う。でもそれは、「バリバリのキャリアウーマンだったALS患者」というサンプルじゃなくて、1968年生まれで51歳で生涯を閉じた彼女のストーリーを敷いてから、してほしい。