「書く理由」考える、について④
このnoteは
から始まる 「書く理由」考える、について シリーズです。
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我が家の最寄り駅。
改札に上がるエスカレーターの設置はなく、毎朝階段を使っています。
何段なのか、数えたことはないけれど・・上り終えると息が上がります。
マスクの中で大きく吐いた息が出口を探して、眼鏡を曇らせる。
そして
実際口から出るわけではないけれど「疲れた・・・」という言葉が思考の中にくっきりと浮かび上がり、身体の状態と言葉が同化している。
あ、疲れたって
・・どういう状態だろう。
「疲れた」という言葉はいつの間にか自分の中にあって、当たり前に使っている。いや、使っている、という感覚よりも
反応・・いやそれよりもよりも早い、反射と言えるくらい瞬間的に。
疲れる をまずは辞書で調べてみる。
疲労とは過度の肉体的および精神的活動、または疾病によって生じた独特の不快感と休養の願望を伴う身体活動能力の減退状態である
と書かれていた。
ある日、駅の階段をのぼりきったわたしは、やはり「疲れた」という言葉を掴んで(使って)いたことに気が付いて、自分の身体の状態を観察することにした。
観察とは「事物の現象を自然の状態のまま客観的に見ること」
通常の状態と違う身体の反応はいくつかあった。
まずふくらはぎが重だるい。
それから心臓の鼓動が早まっている。
そもそも普段は心臓が身体のどこにあるのかさえわかっていないのに
今は臓器の場所も動きもはっきりと認識ができる。
そして呼吸は荒く、吸い切っていないのに吐いて、吐ききっていないのに吸うということを小刻みに繰り返す。
そのまま観察を続けると、足の重だるさはあっさり消え
次に心臓が落ち着いて、最後まで残ったのは呼吸の存在感だった。(何度か観察すると、呼吸と心臓はどちらが先という決まりがないかもしれない)
疲れた=足の不快感(この場合)
と思っていたけれど、自分を観察して気が付いたのは
心臓の鼓動が激しい間、呼吸が忙しなく吸って吐いてを繰り返している間は
「疲れた」という認識でいた、ということだった。
こういうことをしてみると、言葉ってすごく曖昧だなぁと思う。
いや、言葉が曖昧というよりも、やっぱり幼い頃に覚えた解釈
重いものを持ったり、走ったりして
「疲れたね」と言われたことを
「どういう状態が疲れる か」ではなく
「そうか、これが疲れる なのか」と覚え
その身体の状況を感じると、自動的に「疲れた」という言葉がセットになり
「階段を上って疲れたという状態」が完成する。
ということなんじゃないかなぁという仮説を
更に考えるために 書く わけです。
書いて読み返して更に書いていると
「何を当たり前のことを・・」と思うのだけど
それでもやっぱり 考えて書く のです。
追記
久しぶりに続きを書いたので、この路線(こういうことが書きたかったのか)で良かったのか、と自問自答しつつ。。もう少し続く予定です。
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