The Adventure Of GRANDMASTER FLASH on the wheels of steel②
本〈そして、みんなクレイジーになっていく〉から引用する。
1978年末、ファヴ・ファイヴ・フレディーは初めてグランドマスター・フラッシュとフューリアス・ファイヴのパフォーマンスを見た。ショーの後、ローワー・イースト・サイドのスミス公営住宅コミュニティー・センターで、彼はメリー・メルと話した。
ファヴ「よお、おまえ、こいつはすごいぜ。わかってんのか?おまえらレコードを出すべきだよ」
メリー「そんなもん誰が買うんだよ!」
ファヴ「少なくともこういうパーティーに来てる奴らはみんな買うさ」
メリー「(疑わしげに)そうか?」
グランドマスター・フラッシュにも早いうちからレコード契約を持ち込まれていたが全て断っていたという。
フラッシュ「誰よりも先に(契約の)話が来たさ。でも、俺は人のレコードを回してMCを乗っけたレコードなんて誰が聴きたがる?って思ってたんだ」。
ヒップホップ創成期のちょっといい話だ。しかし、79年リリースの曰く付き「シュガーヒル・ギャング/ラッパーズ・ディライト」の特大ヒットで状況は一変する。
さすがのグランドマスター・フラッシュも、この状況を見てすぐさまハーレムの〈エンジョイ・レコーズ〉と契約したようだ。しかし、12インチ・シングル「スーパー・ラッピン」をリリースするも全くプロモーションされないことに不満をもち〈シュガー・ヒル・レコーズ〉へ移籍した。そして、82年に「ザ・メッセージ」をリリースし大ヒットを記録。一躍スーパースターの仲間入りを果たした。
本〈そして、みんなクレイジーになっていく〉にはこう書かれている。
「ザ・メッセージ」は、ヒップホップ初の社会政治的意識を持つラップである。非常に刺激的な作品だが、その意識的な歌詞はシルヴィア・ロビンソンが作ったもので、政治的意識を持たないことをむしろ強みとしていたバンド側は強く抵抗した。だが、結局、売れ線を見抜くシルヴィアの鋭さが勝利を収め、そこからラップには社会性が不可欠とされるようになる。
つまり、この曲は彼らではなくシルヴィアの意見が色濃く反映されたもの。この結果からシルヴィアはグループを手の内に入れてしまう。そして、DJというものを理解しない彼女は、レコーディングに、自社プロデューサーのデューク・ブーティーやダグ・ウィンブッシュらのハウス・バンドを起用した。その結果、グランドマスター・フラッシュ&フューリアス・ファイヴと名乗っておきながら、レコードにフラッシュのクレジットがない。つまり、楽曲にもリリックにも彼はタッチしていなかったしレコーディングもライブにも参加しなかった。
このことについてはクラウンコードに掲載されたトーク映像でダディーOが語っている。
「あの頃(80年代初頭)のエンジニアは、ターンテーブル(=DJ)を恐れていたんだ。多くの人が知らないことだが、ターンテーブルとは音量の増幅が桁違いなマイクのようなものだ。当時のエンジニアはスピーカーやシステムが故障するのではないかと恐れて、ターンテーブルをスタジオに入れたがらなかったんだ。だからフラッシュがレコーディングに参加する方法はなかったんだ」
しかし、フラッシュが曲を作れないわけではなかった。ダディーOは語る。
「「スーパー・ラッピン」に“Flash was on the beat box”という一節がある。この曲のときにフラッシュは実際にDJをやっていたんだ。あの曲は〈エンジョイ〉や〈シュガー・ヒル〉と契約する前にレコーディングしたものだし、フューリアス・ファイブのメンバーはフラッシュが提供するビートに頼りきっていたんだ」
つまり彼はDJという職業にプライドを持ち、それを拡張し楽曲制作まで手掛けていたことになる。そのスキルを知ってか?知らずか?シルヴィアは彼をレコーディングに活かさなかった。
しかし、フラッシュは黙ってはいなかった。自身のスキルを披露するために、シルヴィアにDJライブ・ミックスの制作を直談判し了承させシングルを一枚作った。シルヴィアからすれば今まで出番のなかった彼に花を持たせた格好だろう。しかし、彼女はフラッシュにリリースの許可をしただけで自分自身をプロデューサーとクレジットさせた。さすが女帝。そうして完成したのが「ザ・アドベンチャー・オブ・グランドマスター・フラッシュ・ホイール・オブ・スティール」だ。編集なしの一発録り(実際には3テイクだった)。フラッシュの確立したクイック・ミックス理論を実践した。結果、見事なDJミックス(ターテーブルによる人力メガミックス)が完成した。
ザ・ファウンデーションcomのインタビューにフラッシュはこのレコードのことを語った。
JQ:「ザ・アドベンチャー・オブ・グランドマスター・フラッシュ・ホイール・オブ・スティール」がニューヨーク以外でも影響を与えていることをご存知ですか?
GMF:アメリカでは誰も気にしなかったよ。このレコードにチャンスを与えた唯一の人は、フランキー・クロッカーだけだったな。ほかには誰もこのレコードを本当に理解はしていなかった。でも、それがヨーロッパ、ドイツ、日本でもリリースされて、私がライヴでそこに行ったときみんなのヒーローだった。「ああ、神様がここにいる」そんな感じだったよ。アメリカでもこの反応を期待していたんだけど、誰も理解できなかったよ。
JQ:そのタイプのレコードをリリースすることについて、レーベルからなにか変わったことは言われなかった?
GMF:彼女(シルビア)はそれを奨励していなかった。私は何度も彼女に近づいた。「シルビア、DJカット・レコードを作ってもいいですか?」と彼女に言った。彼女は、しばらくしてツアーをやめて、このレコードをやろうと言ってくれた。彼女は私が使いたいレコードを選ぶように言った、そして、私たちはそれをやったんだ。
JQ:ワン・テイクでやりましたか?
GMF:いや... 3テイクかかった。一度目は、ひとつのターンテーブルから次のターンテーブルへの移行に慣れることでした。二度目はもっと親しみやすくなり、三度目にミックスを録音しました。
フラッシュの冷ややかな答えが、シルヴィアとの関係性を浮き彫りにした形になってしまったが、いくらレコードにマーキングがしてあったとはいえ、あのミックスをスリー・テイクで仕上げるとは、さすがグランドマスター・フラッシュ。
しかし、本〈そして、みんなクレイジーになっていく〉には違う記述がある。
「ターンテーブル3台とミキサー2台を使って、満足できるものが作れるまで10〜5テイクやった。3時間かかったよ。だが、どーしてもライヴでやりたかった。失敗しても打ち込みでごまかすのだけはどうしても嫌だった。しくじるたびに頭に戻ってやり直したんだ」
テイクは違っているが、ライヴ・ミックスにこだわった熱いものが十分伝わってくるコメントだ。
過去にリリースされたDJミックスといえばアフリカ・バムバーターのライブ・ミックス「デス・ミックス」などがあったが、これらとは比べものにならない構成力だ。誰の言葉か忘れたがエディットもミックスも緻密になればなるほど原曲がわからなくなりオリジナルの楽曲に近づいていく。そう、これはもう楽曲と言っていい仕上がりだった。
他人のレコードだけで、DJがミックスして作り上げた楽曲。それは今まで存在しなかった。DJによるレコードも(オフィシャルでは)存在しなかった。このレコードは、既存のテキストをコラージュしたポスト・モダン的作品であり、ターンテーブルが本物の楽器にもある得ると証明したスクラッチ満載のレコードーこれは、音楽史における革命的瞬間だった(そして、みんなクレイジーになっていくから引用)。
81年にリリースされると、ヒット・チャート的にはふるわなかったものの、世界中のDJに称賛されクラブ・プレイされた。また、このレコードを聴いてクイック・ミックス理論を学び、DJミックスの腕を磨き、やがてDJとなったものが後を絶たなかった。もっと言えば、後のヒップホップDJやターンテーブリストの発展や、90年代におけるブレイクビーツ・ブームはなかったと断言できる。それほど革命的な作品だったのだ。
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