令和でも「Wild Style」①
遠い昔、はるかかなたのニューヨークはサウス・ブロンクスで....
83年に公開された『Wild Style』。ニューヨークはサウス・ブロンクスを舞台に、当時盛り上がりつつあった(後に)ヒップホップと呼ばれる音楽及びそ文化であるグラフィティ、MCイング、ブレイク・ダンス、DJといった要素を生み出していたアーティストたちを一同に集めた映画だ。彼らはみな実名で出演している。だから、物語は簡単な筋書きはあれどほぼドキュメンタリー・タッチで描かれた。それは低予算だったことも影響していた。
この映画のサントラを担当した、ニューウェイヴ・バンド、ブロンディーのギタリスト、Chris Steinは語った「当時のサウス・ブロンクスは、放棄された建物がただのブロックと化して、まるで第二次世界大戦での爆撃後のドレスデンのように見えた」。
そんな場所だったサウス・ブロンクス。そこで、DJ達はブロック・パーティーを開催し、ダンサー達はアクロバティックなブレイク・ダンスを生み出し、グラフィティー・ライター達は自身を誇示するために、街角や地下鉄にグラフィティーを書き殴っていた。
監督のCharlie Ahearnは語った。「私はニューヨーク州北部のビンガムトン出身です。73年からアーティストを目指し活動しました。Sol LeWittのようなアーティスト目指していました。私は知人と一緒に、アートはアートの世界から抜け出し日常にあるべきだという考えを推し進めてきました。アートの世界以外の人々やコミュニティーに関連するプロジェクトをはじめました。友人がブロンクスにいたのでそこを拠点にすることにしました。私はボレックスのカメラでブロンクスの街中を撮影しました。そこで体育館でブレイクダンスらしきものを踊る子供達を撮ったのを覚えています。その後、77年頃、ローワーイーストサイド、リーキノンズのハンドボール・コートの壁画を知りました。その後、この壁画を書いた本人に会いました。私はアーティストとしての彼に本当に夢中になりました。しかし、彼はとらえどころがなく、住所を明かさなかった。だから、私は彼がどこに住んでいたのかわかりませんでした。今思えば彼は典型的なグラフィティ・アーティストだった」。
※Charlie Ahearn:映画『Wild Style』のプロデューサー/ディレクター
Charlie Ahearnは、自身のアーティスト活動の一環で、サウス・ブロンクスに入り込み、あちこち写真や映像を撮っていたときに(ブレイクダンス誕生以前の)ダンサーやグラフィティーを発見した。まだ70年代後半のことだ。彼の衝撃は相当なものだったに違いない。しかし、同じようにダウンタウンにいてサウス・ブロンクスの文化に興味を持っていたグラフィティー・ライターのFab 5 Freddyも同じような思いでいたようだ。
Fab 5 Freddyは語った。「Lee Quinonesの仕事は最高だった。彼が描いたグラフィティーは電車ではなく巨大な壁だ。これは、地下鉄の電車の水平なキャンパスを抜け出せば、ただの落書きはもっと大きなものなるという可能性を示していました」
Fab 5 Freddy :ビジュアル・アーティスト/ミュージック・ビデオ・ディレクター
https://twitter.com/fabnewyork/より
Fab 5 Freddyは、素晴らしいグラフィティーに出会いそのライターを探し出そうとしていた。そのライターとは映画『Wild Style』の主人公になるLee Quinonesだった。
Lee Quinonesは語った。「Fabに会ったのはおかしなことだった。彼は私の教室に入ってきて先生に耳打ちをした。そのとき私は思った「この男は誰だ?長いトレンチ・コートとフェドラ・ハットを着ている。きっと警官だ。この男が私を捕まえに来ている」と思った。当時、1978〜79年頃の私はグラフィティー活動に専念しあちこちに自分のグラフィティーをボムしていたからだ。しかし、彼は教室の外で私を待って自己紹介をした。「私はアーティストだ、君に協力したい。私のアイデアについて話し合わないか」と。私はこの男といろいろ話して思ったんだ、一緒に戦おうと」。
Lee Quinones: ローワーイーストサイドの伝説のグラフィティー及びビジュアル・アーティスト。映画『Wild Style』ではZoroとして主演
こうして、Fab 5 FreddyとLee Quinonesが出会った。そこに監督になるCharlie Ahearnが登場する。
Fab 5 Freddy「Lee Quinonesの近所でCharlie Ahearnの映画のポスターを見たんだ。それは、インディペンデントな低予算映画のようだった。それは1980年春に、タイムズスクエア・ショーと呼ばれる非常に重要なアート展示会で上映されました。私はオープニングに行きました。私はLee Quinonesと話していたアイデアを実現するために(自分達の文化の)プラットフォームを作ろうといろんな人々に会いまくっていた。そこで私はCharlie Ahearnに会って「映画を作りたい」と言ったんだ」。
全てはこの一言からはじまった。
Charlie Ahearn「 Fab 5 Freddyは、グラフィティーはヒップホップという文化の形態のひとつであるという考えを持っていました。しかし、私はLee Quinonesにしか関心はなかった。「明日もLeeを連れてきて、ここの外の壁のスペースにペイントしよう」そんなことを言いながら、LeeとFreddyと一緒にタイムズ・スクエアの放棄されたマッサージ・パーラーの壁にピースをボムしました。これが映画を作る一番最初にしたことだった。その後、映画は多くの変更を余儀なくされたが、ある意味ではこの構造は残っていました」。
Charlie Ahearnは、Fab 5 Freddyと共に作る映画をグラフィティー・ライター、つまり、Lee Quinonesを中心としたものにしたかったようだ。
Charlie Ahearn「Fab 5 Freddyは、映画の設定を(ニューヨークの)ダウンタウンにすると思っていたはず。私が最初にFreddyに会ったとき、フェドラまたはポークパイの帽子、細い黒のネクタイ、革のジャケットを着ていた。彼はダウンタウンのシーンの一部であり、ヒップ・スターのように見えました。彼はベッドスタイ(ブルックリンの「ベッドフォード・スタイヴェセント」)で生まれ育ちました。彼はブロンクスを知らなかった。しかし、私はブロンクスで映画を撮影したほうがもっと面白いものになると彼に話した。それで、Fab 5 Freddyと私はブロンクスのクラブに行きました。また、公園の屋外パーティーに行き、Chif Rocker Busy Beeや他のすべての人々に出会い彼らからチラシを手に入れました。ひとつのことが次のことに繋がります。私は、屋外パーティーで子供たちがラップをしているときに、DJの後ろに彼らの画像が見えるように、スライド・プロジェクターを持ち込み壁にスライドを映し出しました。それはとてもインタラクティブでした。私は、60年代に(Andy)WarholがThe Velvet Undergroundの映画を上映していたこと同じことをしたかったのです」。
Fab 5 Freddy「私たちは数えきれないほどのパーティーに行きました。Charlie (Ahearn)は全員の写真とインタヴューを撮っていたが、これは私たちの研究の一部でした。時にはパーティーに行って、前に行ったパーティーのスライド・ショーをすることもありました。それは、映画に登場する人物を特定し、親しくなり、関係を発展させるプロセスの一部でした。私たちが行ったパーティーはすべて、伝説の人々だらけだった」。
彼らはサウス・ブロンクスの奥深く探検をするように、現地に足繁く通ったようだ。そうやって現場の空気を吸い、映画の構想を膨らませていったのだろう。
Grandmaster Flash「(彼らは)このとき(サウス・ブロンクスで)最も有名な人物を探していた。私はたまたまそのひとりになりました。Freddyは私に言った、「Flash、私はあなたにブロンディを紹介しますよ」と。そして、その後、約束されたようにDeborah Harryは私のパーティーに来て私について歌を作るつもりだと言ったんだ。そして、それは結局「Rapture」になったんだ」。
Grandmaster Flash:伝説のDJ。影響力のあるラップ・グループ、Grandmaster Flash &Furious Fiveのフロントマン。映画『Wild Style』では本人名義で出演。
Grandmaster Caz「Charlie(Ahearn)は、ブロンクスの黒人達の近所や多くのヒップホップ・パーティーに勇気を持って参加していた。しかし、彼は目立っていた。皆、彼は警官か地主のどちらかだと思っていた」。
Grandmaster Caz: 影響力のあるブロンクスのラップ・グループ、Cold Crash Brothersのメンバー。映画『Wild Style』では本人名義で出演。
彼らは敬意を持ってDJやラッパー達と交流したようだ。Fab 5 Freddyは、その行動の中からひとつの考えに行き着いた。
Fab 5 Freddy「この文化を完成させるには、音楽、ダンス、ビジュアル・アートを組み合わせる必要があることを示したかったのです。そのためには映画が役立つと思ったんだ」。
Charlie Ahearn「Fab 5 Freddyは、ヒップホップは文化であり、グラフィティはこの音楽にリンクされているという考えに間違いなく夢中でした。しかし、私は、最初にブロンクスに行ったときにブレイク・ダンスを見たことはありませんでした。ヒップホップの一部ではありませんでした。いや、それはその一部でしたが非常に弱かった。だから、ブレイク・ダンスについては誰も言及しませんでした」。
Charlie Ahearnは、Fab 5 Freddyの考えに全て同意したわけではなかったようだ。しかし、その考えは覆された。
Lady Pink「 Lee(Quinones)の21歳の誕生日パーティーにRock Steady Crewを連れて行きました。Futuraのスタジオで彼にサプライズ・バースデー・パーティーを催し、高校生とRock SteadyCrewのクルーからホーム・ボーイを連れてきました。そこで彼らはダンスを始めました。彼らはあちこちでスピンしスラッシングし彼らのベスト・パフォーマンスを披露していました。Charlie Ahearnは、ちゃんとしたブレイク・ダンサーを見るのは初めてだったらしく「オー、マイ・ゴッド」と言わんばかりに口を大きく開けてそこに突っ立っていました。その後、彼はRock Steady Crewを映画に参加させました」。
Lady Pink:伝説のグラフィティー&ビジュアル・アーティスト、映画『Wild Style』ではRoseとして主演。
こうして、Fab 5 Freddyの考えに同意したCharlie Ahearnは映画を進めていった。しかし、主人公でもあるLee Quinonesは映画に懐疑的だったようだ。
Lee Quinones「Charlie(Ahearn)は、その当時の私が本当に興味を持っていたことをストーリーを盛り込んでくれました。しかし、私は自分自身を明らかにすることができませんでした。秘密でいなければいけなかった。映画に出てグラフィティー・アーティストを名乗って警察に捕まったり誰かに殺されたくなったんだ。私は2年連続でその運動の最重要指名手配犯だったから、、、自分の人生が変わることを恐れていました」。
Lady Pink「地元でLee(Quinones)は電車に(グラフィティーを)描く前からすでに有名だった。私とLeeは4年のあいだ恋人同士だったんです。Charlie(Ahearn)は、彼が実際に見たものを映画に取り入れました。写真家、ビデオ製作者、ブックメーカー、みんなが私達の近くにありました。だから、彼の作ろうとしている映画はこれらの金持ちたちの遊びであり私達の流行りに乗っかってるだけだと思った。彼らは私達にとってただの他人で、グラフィティー・アーティストから利益を得ようとするただの起業家でしかなかった。だから、私たちは彼自身は信用したけど、誰もそれ(映画)を真剣に受け止めなかったし、大画面で放映されたり将来的に古典と呼ばれるような映画になるなんて考えてもみなかった。もし、知っていれば、ギャラや衣装やメイク、演技のコーチや入念なリハーサルを頼んでいたわ(笑)」。
当時も今もグラフィティー・ライターは無許可で公共物にボムすれば警察に捕まる。Lee達は犯罪者だったのだ。だから、撮影には応じたがこれを映画にするとは思わなかったようだ。彼らにとってはビジネスではなく遊びのひとつだったのかもしれない。続く、、、
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