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もう一度あの食堂に行きたい/沢野ひとし

 高校二年生の夏に山梨県にある三ツ峠山(みつとうげやま・1785m)に登った。その頃は休日になると夜行日帰りで、関東近郊の山々に夢中になって通っていた。

 山登りは頂上に立った時に、はじめて喜びが実感できる。暗い山道を我慢して登り、東の空に朝陽が昇る頃に頂上へ辿り着き、両手を上げ万歳をする。

三つ峠山


 目の前の富士山、南アルプス、北アルプス、八ヶ岳、奥秩父と、三ツ峠からの眺望はまさに絶品であった。
 山の頂上には悩みや苦悩、苛立ちといった人間の煩悩をすべて吹き飛ばす安らぎがある。

 下山道は御坂トンネルの先からバスで富士急行線河口湖駅に出る。途中に太宰治が『富嶽百景』を書いた天下茶屋があり、有名な「富士には月見草がよく似合ふ」という一節を残している。実は太宰は大待宵草(おおまつよいぐさ)を月見草と間違えていたのだが、言葉尻をとらえて騒ぐことではない。

御坂峠からの富士山


 河口湖駅前の食堂で食べた肉うどんには感激した。“ほうとう”に近い太くコシのある麺に、甘辛く煮込んだ馬肉、そしてキャベツ。
 疲れた山の帰りはなにを口にしても美味しく、体に染み渡るが、その時の肉うどんのあまりのうまさに天を仰いだ。

 その後何十回と三ツ峠でロッククライミングをして、帰りは決まって肉うどんを啜っていた。口にするたびに「限界を超えたうどん」と絶賛し、列車を待つ間、コップ酒を手に仲間と盛り上がった。

吉田のうどん


 やがて、車を持つようになると、便利だが山登りも堕落して、短時間で登るコースに変化していく。下山しても肉うどんを食べることなく、帰りの高速道路の混雑ばかりが気になり、あわてて帰って行く。

 それから何十年かしてふと思い立ち、河口湖駅前の食堂に行ってみると、なんとどこにでもある居酒屋チェーン店に変わっていた。
「富士には吉田のうどんにかぎる」
 そう悪たれ口をたたいて帰った。

吉田にはコップ酒が似合う

イラストレーター・沢野ひとしさんが、これまでの人生を振り返り、今、もう一度訪れたい町に思いを馳せるイラスト&エッセイです。再訪したり、妄想したり、食べたり、書いたり、恋したりしながら、ほぼ隔週水曜日に更新していきます。

文・イラスト:沢野ひとし(さわの ひとし)/名古屋市生まれ。イラストレーター。児童出版社勤務を経て独立。「本の雑誌」創刊時より表紙・本文イラストを担当する。第22回講談社出版文化賞さしえ賞受賞。著書に『山の時間』(白山書房)、『山の帰り道』『クロ日記』『北京食堂の夕暮れ』(本の雑誌社)、『人生のことはすべて山に学んだ』(海竜社)、『だんごむしのダディダンダン』(おのりえん/作・福音館書店)、『しいちゃん』(友部正人作・フェリシモ出版)、『中国銀河鉄道の旅』(本の雑誌社)、絵本「一郎君の写真 日章旗の持ち主をさがして」(木原育子/文・福音館書店)ほか多数。趣味は山とカントリー音楽と北京と部屋の片づけ。電子書籍『食べたり、書いたり、恋したり。』(世界文化社)も絶賛発売中。
Twitter:@sawanohitoshi