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塩田千春展:魂がふるえる

夏という季節は、木々が太陽を浴びて燦々と輝く一方で、死体が腐臭を放ちながら急速に朽ち果てていく、生と死のコントラストが最も色濃い季節だ。一番生きている実感がするし、一番死に近い感覚を覚える季節でもある。私の生まれた、大嫌いな季節。夏。

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8月14日、品川でのライブの前に森美術館で開催中の塩田千春展に行ってきた。前評判が良かったからそれなりに期待はしてたけど、それを上回るクオリティだった。
まず何よりも感動したことはキャプションに他人の主観が入っていないこと、そして本人から実際に語られた言葉の多いことだった。「大胆に仕上がっている」とか「魅惑的に描いている」とか、たまにそういった類のキャプションの美術展に遭遇するけど、それは鑑賞者が自分で感じて決めることだ。そういうミスリードにもなりかねないキャプションを心底忌み嫌っているから、今回の展示のなんとストレスフリーだったことか。
一作品目の『蝶のとまっているひまわり』という、作家が5歳の時に描いた作品のキャプションに、「そうか、私は文字を書く前に絵を描いていたのか。当たり前のことなのに忘れていた」 という言葉を見つけ、あぁこの人は言葉と絵を対等に雄弁に語らせる人だ、と感じ、そこから俄然作品に引き込まれていった。

「この感情を表現すること、形にすることは、いつもこういうふうに同時に魂が壊れることなんだ。」

自分は表現者でも何者でもないただの一般人だけど、こういう無力感・虚脱感・破壊衝動が他者の内にもあることを知れて、なんだか救われたような、赦されたような気分になった。

展示の終盤は大量のスーツケースを用いたインスタレーション。スーツケースの数だけ生き方があるといった未来に根ざした趣旨だった。最近の美術展は、導入がショッキングだったりセンセーションであっても、終盤にかけて明るく希望的に終わっていくものが多いなぁと思う。まあ夏休みだしピクサー展と抱き合わせ開催していた展覧会だし、こういう終わり方が最適解なんだろう。作者の作風の変遷をよく知らないからなんとも言えないけど。
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この展示に行く前に資生堂ギャラリーにも寄ったんだけど、戦時中をテーマにした主題でちょっと腰が引けてしまったのが情けなかった。思えば春に行ったクリスチャン・ボルタンスキー展だってそうだった。私はいつだって当事者にならないと感情を心にインストール出来ない。目で映すだけの作品に苦しみも悲しみもない。苦しかったことや悲しかったことがそこにあったことを知るだけだ。一方で、フィルターの無い生と死はいつだってこびりついて拭えない粘液のように足首にべったりと絡みついている。私は私のためにこの展示を見ることが出来て良かった。
#塩田千春展

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