『たぶん悪魔が』
美しさおよび美しさを追求する活動というのは人類の文化を発展させる重要なエッセンスであるが、時に停滞させるはたらきもする、というのが兼ねてからの私の持論であり、今日またその論が強固になった。主演のアントワーヌ・モニエの退廃的かつ神経質な美しさに気を取られ、一部セリフが入ってこなかったこの作品『たぶん悪魔が』を観てである。悪癖ということは重々承知していて、改善したいと思ってはいるのだが、私は造形が美しすぎる人間と対峙すると、「このスッと通った高い鼻!豊かな扇のようなまつ毛!光を湛えた柔らかな絹のような肌!たおやかな曲線美を描く唇のカーブ!」といちいち造形を脳内でひとり褒め称えてしまう。その一連の賛辞が終わりようやく話を聞く体制に切り替わる頃には既に話の半分が終了しているのが常だ。セクシーゾーンのツアーの初日の記憶が大体無いのは、非日常に興奮しているからというのが半分、久しぶりに生で目の当たりにした造形の美しい人間に感動して内容が入って来ていないからというのが半分だ。
さて映画の感想を話そう。
この作品が撮られた70年代の欧米は環境破壊が深刻な問題だったらしい。主人公のシャルルは、自分とは完全に無関係ではないものの、個人の力ではどうにもならない世界規模の問題に頭をもたげ、政治にも絶望し、身の回りの人間関係ももつれており、この世界の全てに嫌悪感を覚えている。でも自分はうすらぼんやり守られた平和な繭の中にいて、この生活は鈍痛を伴いつつも今後もこのまま続いていくことが見える。「自分は見えすぎる」と話すシャルルにはその未来が見えていたのだろう。自分自身にも、アンコントローラブルな世界にも嫌気が差し、勝手に憂いた若者がひとり破滅に向かってゆく様は今の世界情勢とオーバーラップした。そして憂鬱という感情はある種の贅沢品であるなとも。
死ぬことについてどれだけ夢想し、どれだけ綿密に計画しても、実際の死は突然土足で上がり込んでくる。この映画の終わりみたいに。人生のエンドロールに流すならどんな曲がいいだろう、と時折私も夢想するが、実際そんなものは多分なくて、突如誰かにテレビのスイッチを押されるようにプツンと終わるのだと思う。この映画の終わりみたいに。
観客の予想を180°裏切る…というわけではなないにもかかわらず鮮烈に衝撃的なこのラストシーン、この先もずっと忘れないだろう。チャンスがあればもう一度観に行きたい。
→後日2度目を観に行き、その後Blu-rayを買いました。